私は小さい時から音楽が大好きだった。また大好きだった人の一人にTタッタ叔父ちやんUと呼んでいた叔父がいたが、この人は絵画きであった。京都大学の仏文をあと数ヵ月というところで退学して、フランスへ行き、ブラックやフランドンに指導を受けて画家になった。独立美術協会の会員であった。
大変な音楽好きの叔父で、自分が絵を画く時には必ずといってよいほどレコードをかけていたようだ。ゆりかごに入っていた頃の私は、母が姑の仕事を手伝っていたために、いつも、この叔父にミルクと一緒に預けられていたらしく、家で仕事をする叔父が子守役を引き受けてくれたのだという。この叔父がレコードをかけるときまって私はTタッター、タッターUと音楽に合せて口ずさみ、ゆりかごをゆらせながら、遊んでいたところから、いつとはなしにTタッタ叔父ちゃんUと呼ぶようになったのである。
どう考えても、私の音楽への興味はこの頃の叔父の影響によるものらしく、音楽の想い出と、この叔父とは私の頭の中で結びついて離れない。「フランダースの古城」、「ノルマンディの秋」、「パイプと大きなコンポチェ」、「蔵王」、「安良里の海」などと題された叔父の作品も、この想い出とは切っても切れない。この叔父には、私の幼年期、少年期、青年期を通じていつも大きな影響を与えられ続けたのである。
私はなにも、ここで、この叔父の個人的想い出に耽るつもりはないのだが、この稿のテーマについて考える時、叔父との数え切れない想い出の中で、特に二つのことが重要な問題として思い浮ぶのである。
私の音楽熱は中学から高校にかけてピークに達し、高校二年に上がる頃には音楽家になることを夢見るようになっていた。もともと、少々夢遊病的傾向のあった子供だったせいか、中学の頃には尊敬する作曲家への熱が高まり、夜は夢で、ベートーヴェン、モーツァルト、ショパンなどに会って、翌朝それを想い出しては感激し、その興奮は登校して一時間目か二時間目の授業まで続いていた有様。どうしようもない少年であった。こんな状態であったから、私の父は息子の将来を極度に心配したらしい。私がピアノを弾いたり、レコードを聴いたりすることを次第に嫌うようになり、遂にはそれを禁じるようになってしまった。だから、音楽学校へ行くなどということはとんでもないことで、私はそれを口に出して父にいうことさえ恐ろしい状態であった。
ある夜など、帰りが遅いはずだった父が、急に早く帰って来て、そうとは知らずにピアノを弾いていた私に雷が落ちた。あまりの剣幕に、こちらも興奮してなにか口答えをしたのだろう。激怒した父に、雨戸を開けて「出ていけ!」と外へ突き出されてしまった。中学三年の頃だったと思う。一晩中、家へは入れてもらえなかった記憶がある。
こんな状態だったから、高校二年の頃に音楽学校への進学の相談など、とても父にはできなかったのである。そこで当然、画家のタッタ叔父ちゃんが登場することになる。実業畑の父と違って、タッタは芸術家、しかも自分の子供ではないから、適度に無責任で甘い。音楽学校へ入って音楽家になりたいという私に、しかし、タッタは答えた。「芸術の勉強はアカデミックなものではない。音楽学校へ行くとか行かないとかいうことと、音楽家になるということは無関係だ。この叔父ちゃんを見ろ、絵の勉強に学校などへ行ったことはない。なる奴はなる。なれる奴はなれる」。
私は反発した。叔父の絵より音楽は技術の習練が大変なはずだ。音楽の理論や技術の習練には学校へ行かなければ無理ではないかと……。いつも叔父が絵を画く時に一緒にいた私は、キャンバスの下塗りなども手伝わされていたものだが、外目からは、全く気ままに絵具を塗りたくりながら、子供にでも画けるようなデフォルメされた叔父の絵に、困難さというものを感じさせられたことがなかったからである。何故こんな絵が世間からさわがれ、高く評価され、数々の賞をもらうのかが不思議だったというのが、当時の私の率直な感想だったのである。
タッタはいった。「同じことだ。絵も音楽も。しっかりした技術の裏づけがない芸術は人を感動させることはできないぞ。俺の絵だって、いきなり、あんなデフォルメされたものを画いているのではない。俺にもデッサンを猛勉強した時代もある。似顔だって画けるぞ。学校へ行くよりも一人で勉強することは厳しい。強制されずに自分を自分で訓練することはな。しかし、学校へ行ったって先生まかせで勉強できるものではないぞ。結局は同じことだ。音楽学校卒業、美術学校卒業なんていうのは、あんまの免状じゃないんで、音楽家や画家になることとは無関係のものなんだ」これが叔父の意見であった。
その時には完全に叔父のいうことを理解し、承服したつもりはなかったが、今にして思うと、この言葉は私にとって大きな意味を持つようになったと思う。ついでながら、タッタの絵について後でわかったことだが、戦争中、食うために彼が画いた似顔絵の数々が、この叔父の言葉が嘘ではなかったことを教えてくれたのである。上手な似顔絵を画いていたのである。
私は考えた。ようし、独学でやってやろう。しかし、勉強の指針として自分には先生が必要だ。週に一回、習いにいっているピアノの先生の他に、もっと理論を勉強する方法はないか。そこで、甘い母を説得し、普通の大学の政経学部に学びながら、音楽学校の通信教育を受けることにしたのであった。しかし、人間というのは弱いもの。それほど好きでも、自己規制は厳しい。私は脱落した。音楽の専門家になることを断念した。毎週日曜日、上野の講堂で受けるソルフェージュの授業の厳しさに音を上げた。
その頃の私はオーディオにも興味を持ち始めていた。もともと機械いじりが好きだったから、模型作りから、ラジオ作りに発展し、好きなレコードを、よりいい音で聴けるという喜びも手伝って、オーディオ熱も音楽熱に劣らなかったように思う。音楽家を断念した私が、いくつかの曲折を経て、レコード制作という仕事につくようになったことは自然だったといえるだろう。したがって、私にとって録音という行為は、音楽するという行為に等しい。音楽を聴くということさえ、私の考えでは、音楽するということと同じだと思うのだが、オーディオのメカニズムという道具を使って、自分の頭と手を使って、録音物という作品を制作することは、私にとってそれは、全く音楽的な行為としてしかあり得ないのである。
子供の頃から、レコードでも演奏会でも、音楽を聴いている時の私は、完全に演奏に同化して、手こそ楽器を演奏してはいないけれど、心の中は完全に演奏状態であった。その時のレコードやオーディオ機器が、また、演奏会ならば演奏者とその楽器が、私の楽器でもあった。
鑑賞者として受動的に音楽を受けとるという余裕は音楽を聴く私にはない。今でもそうだ。音楽を聴くということには、これ以外の心の状態を私自身が持つことも、感じることも不可能なのである。だから、自分の心の動きや、肉体の生理的なダイナミズムと反するような演奏を私は受け入れることができない。そういう演奏に不幸にして出合うと、どうしようもない抵抗感、不快感が、私を徹底的にしらけさせてしまうのである。
幸いにして、私にとって全く違和感のない演奏、あるいは、驚くほど高い境地の立派な演奏に出合った時は、おこがましくも、自分も、その境地まで高められた深い感動を味わうことになる。自分がその気になって聴いているレコードや演奏会の演奏はもうひと事ではないのである。緊張のあまり息が止まってしまうのではないかと思ったり、この世のものとは思えない幸福感に酔ってしまうのである。嫌な音や演奏に出合った時には、途端に、そのレコードや機器や、演奏家は、あかの他人になってしまうのだ。
こんな音楽への接し方だから、録音再生のオーディオ機器も、私にとっては音楽する大切な楽器と同じことで、嫌な音を出す機械は私の音楽する心を傷つけ、しらけさすのである。そして、録音するという音楽行為は、演奏家や作曲家と同じように、私にとっては、理論が必要だし、感覚が大切だし、体験が貴重なのだ。オーディオ全般の科学知識は、よい録音という音楽作品を完成させる上で不可欠なもので、それは作曲家にとっての和声や対位法などの音楽理論に相当するかもしれない。そしてまた、そこに介在する機器の優秀性は、演奏家にとっての優れた楽器に相当するものだろうとも思う。
それが、純粋の創作であれば勿論のことだが、写真や映画や録音のような再創造であろうと、ものを創るからには、創る人間の頭(心)の中に、手段となるメカニズムの特質を含めて、まずイメージがなければならないことを知ったのは、私が録音制作の仕事について、かなりの年数が経ってからであった。
それまでの私は、もっと単純に録音というものを考え、プロデュースの立場で音楽に参加し、録音という仕事そのものは、優れたマイクロフォンやレコーダーでそれを記録すればよいと考えていた。音楽的な仕事は、マイクロフォン以前で完成し、録音は、技術を使ってそれを記録するだけの作業のように思っていたのだった。つまり、作曲上の理論や知識や、それに基づく技法、また演奏に必要な楽器というものは、音楽表現に不可欠なものであるのは当然のこととして誰にでも理解がいくが、録音技術というものが、音楽表現と密着した重要な感覚的仕事であることには私も長い間気がつかず、どこかで、音楽と録音技術を分けて認識していたのである。
事実、それまでの私の録音制作の仕事では、常に録音エンジニアと組んで仕事をし、録音技術はその人にまかせきっていて、俗にいうプロデューサー、ディレクターの仕事をしていたわけである。ところが、組むエンジニアによって、あまりにも音と音楽のイメージが違うことに気がつき始め、同じ楽器、同じスタジオでも、エンジニアによって音楽が生きたり、死んだりすることを体験させられたのである。
幸いにも、独学ながら、オーディオの知識のあった私は、その時から、録音技術についての猛勉強を始め、いかなる細部についても、音を支配する要因となる仕事は徹底的に制作者である私がしなければならない、と思い始めるようになったわけだ。この時には周囲から、ずい分抵抗があった。ディレクターがミキサーの仕事をうばってしまったからである。悪口も陰口もたたかれた。しかし、私は自分の考えを押し通した。Tやる奴はやる。やれる奴はやれるUというタッタ叔父ちやんの言葉を思い出した。無謀と無責任を厳に自戒しながら、自分のイメージを具現すべき録音技術を徹底的に独学でマスターした。幸い、私の働いていた職場は、私のやることを自由に認めてくれる環境にあったので、社会的抵抗をうけながらも、私は着実に録音の体験を積み重ねることができたのだ。その結果、私は自分の考えの正しかったことを一つひとつ確認できたと思っている。
録音技術というものは、録音物という形に音楽を移し変えるための重要な手段であって、そこでは、周波数特性、ひずみ率、ダイナミック・レンジなどの物理条件は、ほんの一部の必要条件に過ぎないことを知ったのである。いい録音をとるためには、音響空間という立体の設定から、録音のメカニズムに適した配慮をしなければならぬこと。それが、音楽の性格に絡んで、これがベストといえるものはなく、バリエーションを持っていること。機器の特質と音楽的要求とをどう結びつけるかということ。録音再生の伝送系との関連におけるマイクロフォン・アレンジメントの理論と思想。
こうした無数の条件をふまえて、録音技術の具体的プランニングと実行のための判断は、制作者の頭の中に、録音されるべき音と音楽のイメージが明確にあってこそ決定できるものだし、そのイメージは、録音物がオーディオ機器を手段として、スピーカーから再生されるものである以上、音楽とオーディオのメカニズムの特質との関連への豊かな知識と体験から生まれるものでなければならないこと……などを明確に認識するようになったのであった。つまり、録音技術はスピーカーから音楽を表現する技術としての部分が大きく、すでに表現された音楽を記録する技術という単純な考えでは不十分だということである。
私がこんな関心を持ち始めた頃、そう、今から十数年前、たしか一九六三年だったと思うが、敬愛するタッタ叔父ちやんが癌で入院した。病状は大変悪く、望みはないとのことであった。つききりで看病していた叔母からの連絡で、タッタが音楽を聴きたがっているから、なんとか病室でレコードをかけられないだろうかという相談を受けた。
早速、私は小型の再生装置とタッタの好きなレコード、ショパンのバラードやマズルカ、そしてノクターンの数々、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲のいくつか、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムを車に積んでかけつけたのであった。病室でのタッタは、まさに骨と皮という表現しかできないほど小さくなり、痛々しい有様だった。食べものは、すべて喉の途中からつながれた管で外へ出され胃にはなにも入らないという。
そうした中で、タッタが懸命にやっていたことはベッドの真上の天井に白い紙をはり、下からそれを見つめてその有限の四角のスペースにイメージで絵を画くことであった。何故? という疑問に私はとらわれた。天井も白い。天井に画けないのか? 絵筆も絵具も持てずに、所詮は頭の中のイメージとしての制作ならば、紙やキャンバスは要らないのではないか? 死に直面したぎりぎりの状態でのタッタにとって、天井に有限の画面を設けるということは……? 私は画家の業を目の当りに見てショックを受けたものだ。
画家には有限の画面こそ絶対に必要な世界であったのだろう。有限の画面でこそ、絵は絵としての独自性を持つという当り前のことを、この時ほど重みをもって知らされたことはない。それは、画家にとって絶対の場であり、頭に浮ぶ無限のイメージを有限の場に固定してこそ、彼は彼の作品をたしかな実感をもって創造することができたのだろう。
その至極当り前なことが、いかに多くの問題を私に考えさせたことか。有限の画面にイメージを色彩としてパターンとして固定する。そのためにこそ絵筆の技術が必要だ。いかに素晴らしいイメージを持っていても、これを具現することができなければ作品は生まれない。技術がなければ作品は生まれないし、技術に裏づけられない芸術は人を感動させることはできない、といったタッタの昔の言葉が強く蘇ってきたが、それ以上に、さらに強く、その技術の目的である人の頭と心の中に湧き上がるイメージ、それこそはアカデミックな勉強から得られるものではない! といった彼の言葉が想起されてならなかった。恐らく死を前にした彼は、生涯で最高の傑作を画き得るイメージを持ったのではなかろうか。しかし、彼にはもはや技術を駆使する体力が全くなかったのである。それでも彼は、天井に有限の画面という制作の場を設けた。
それから二日後にタッタは死んだ。私の持っていったレコードの中から、彼はベートーヴェンの「月光ソナタ」と、作品一一一「ハ短調ソナタ」の第二楽章をくり返しくり返し聴きながら、天井のキャンバスに絵を心で画き続けていたという。
私にとって録音とは、有限のオーディオ・メカニズムの中で、その制約ゆえの可能性をもって音と音楽のイメージを固定することだといってもよいだろう。そして、私にとって録音は音楽するという行為そのものであって、オーディオと音楽を分けて認識することは絶対に不可能なことなのである。
(一九七五年)