私はつい最近新しいシステムを娶った。しかし、だからといって、昔の装置を全く捨てているわけではなくて、ほぼ対等に二つの装置を楽しんでいるわけだ。この二つの装置になって、レコード鑑賞に大きな変化があった点は、古いレコードを自分のコレクションの中からあれこれとさかのぼって引っ張り出して楽しみ出したということである。
私はレコードをきちんと整理する方ではないから、古いレコードで捨ててしまったものやら、あげてしまったものやらがあるわけだが、それでも大半――恐らく七割方は最もレコードに燃えていたころに集めたレコードなのである。この十年間はレコードを聴くことよりも、レコードをつくることに忙しかったり、前から使っていた、JBLのシステムをよりいいものにしていこうという、オーディオ病にとりつかれていたものだから、レコードはあまり買わなかった。したがって、調整用の新しい優秀録音によるもの以外には音楽としての愛聴盤は六十年代ぐらいのレコードが非常に多いのである。
これらは、システムをグレードアップしようなどと思っているときにはあまり使わなかったレコードなのである。つまり、いま反省してみると、このところ、しばらくレコードを音楽として聴いていなかった。むしろオーディオ病にとりつかれて、新録音のレコードを使って、装置を一生懸命いじっていた時代であったのだ。
それが最近、新しいマッキントッシュのXRT20というスピーカーを入れてから、この新しいスピーカーが、あまりにも音楽を素晴らしく鳴らしてくれるので、すっかり聴きほれてしまい、あのとき聴いたあのレコードは一体このスピーカーで聴いたらどんな音楽に聴こえるだろう、どんな演奏に聴こえるだろうというような興味が湧いてきて、片っ端から古いレコードを引っ張り出して聴いたわけである。果して、以前そのレコードから受けていた印象とは全然違った音が聴けたのだ。今までのシステムで聴いて、聴きづらくてたまらないようなところがこの新しいシステムだと聴きやすく聴ける。つまり、オーディオ的に耳に引っかからないで、その音楽に没頭できるということになったわけなのである。
それ以来、たとえば六十年代のベーム・ベルリン・フィルのモーツァルトのシンフォニー、そしてピエール・モントゥーや、ジュリーニという好きな指揮者によるレコード、それらの比較的古い録音を手あたりしだいに引っ張り出してきた。そして、気がついてみると、主にそれらの曲がオーケストラものだということも、新しいスピーカーの持っている特質に関連することだとも思えるのだが、いままでの再生装置では聴くことをあきらめていたソノリティーや質感が聴けて、今さらながらスピーカーの違いに驚ろかされた。以来そういう古いオーケストラのものを集中的に引っ張り出して聴いているというのが、ここ数ヵ月の私の状態なのである。
六十年代の録音というのはいまの録音からみれば、七十年代の技術の進歩を境いにかなりの差がある。ぼく自身録音の仕事をしてきているから、録音機材の進歩の差はよく知っている。録音というのは、常にコマーシャルなベースで行なわれる。つまりレコードを売るという前提に立って行なわれる。売るという前提に立つと、よりよい音にするために当然買ってもらうお客さんかどういう機械で聴いているかということが、かなり意識されてつくられるものだ。
つまり、その時点において最大の効果を上げるような録音をしようということになれば、その時点での技術的なレベルはレコードをつくる人に大きな影響を及ぼすのである。だから、よく六十年代の録音というのは、「やっぱりいまのハイ・ファイ装置じゃよくないね、ちょっと古いものの方がいいね」などといわれるのだ。もっと極端なことを言えば、やはりモノーラル・レコードの古いものは、あの時代のナロー・レンジの機械で聴いた方がいい、当時の古いスピーカーで聴くにこしたことはないというようなことがいわれる。これは、いま申し上げたような理由から事実だと思うのである。
その時点、時点において技術レベルというのは録音であろうと、再生であろうと、その時代のオーディオ・テクノロジーと共に進歩し変化する。これはオーディオ・テクノロジーが現在でも、理想から見ればほど遠い段階にあるということだ。そのようにテクノロジーそのものに問題があるレベルでは、そのテクノロジーの欠点をいかにしてカバーすべきか、ということが、いわゆるオーディオ・ソフトウェアの技術ということになる。録音というのは、いってみれば、仕掛けをつくるものだから、悪くいえばいかにして聴き手を騙すかということになるわけで、機器の手の方も、心ある聴き手というのは、いかにしてうまく騙してくれるかということを期待しているともいえるだろう。
そして、納得のうちに騙し、騙されるという関係が非常にうまくいったときにレコード音楽というのは、素晴らしい世界をつくり上げる。これは、虚構というものの持っている重要な特質だろうと思う。写真でも、絵画、演劇、そして映画でも、すべてそうであろうと思う。だから、それらの虚構世界はある一つの納得のもとに出来上がっていることを認識することが大切な問題だと思うのだ。
そういう点から言えば、録音はその時代の道具を前提として騙す方法を考える。聴く方もその時代の道具を前提としてうまく騙されようと、みずからを騙される穴へ押し込めていくというのが、再生の極意になるわけだ。だから、当然その時代の道具の持っている特質というものが大きく影響してくる。その限りにおいては、その時代のもので聴いた方がいい音がするということは正しいと思うのだ。現実にそういう経験を何回もしているのである。
しかし、ここでもう一つ別の考え方をすると、いい機械というものは、高性能な機械であるというところまではよいが、そこから先すぐれた機械が必ず、いい音のする機械だと思われるところが大問題だと思うのである。いい機械とはすぐれた性能をもつが、そうした機械というのはどういうものかというと、高い可能性を持った機械である。機械というのは、そこで終りだ。それを即、いい音のする機械というふうに思ってしまうのは、実に短絡である。
そうなれば、前述した機械の特質に頼って、機械の性能におんぶして、ただ漫然と音を出している限りは技術レベルの合っている事が重要で、その時代のレコードと再生装置で聴いた方がいいということになるわけである。ところが、コンポーネント・システムというのは、高い可能性を持った機械を集めて、その人間がいい音を出すか、悪い音を出すか、というところに大きな特質があるはずなのだ。だから、その機械そのものに頼っていたのでは、そのレコードがつくられた時代と機械がつくられた時代とのアンバランスが生じて困ることになるわけだが、その機械をうまく使いこなせば昔のレコードを昔の装置で聴くのと同じように、あるいはそれ以上に聴くことも可能だと思うのである。
実際には私自身も昔のカートリッジで聴いた古いレコードの方がずっといいよとか、昔のスピーカーの方が古いレコードはずっといい音がするよ、といってきたし、機械そのものに頼ってきたと思う。そして、そういう因果関係もある程度は存在すると思うのである。実はここでおもしろいことは、いままで古いレコードはあまり聴かなかった、あるいは聴けなかったぼくのメインのシステム――JBLのシステムの使い方の技術がここへきてぐんと進歩したのである。新らしく入ったマッキントッシュのスピーカーの音から教えられ、JBLのシステムがまた一段とよくなり、これをチャンスに、古いレコードをよりよく鳴らすというノーハウを、最近会得したわけである。つまり、JBLでは古いレコードが全然だめだったというのは、私の至らなさであって、機械そのものではなかっということを新発見したというわけなのだ。この機械は、もっと高い可能性をもっていたのだった。
これは大変複雑なことなので、単純明快にすっきりと説明する自信はないけれど、いま述べたようなことで、この数ヵ月、私は改めてレコード音楽、あるいはオーディオに目覚めなおし、いまさらながら再燃焼して、カッカしているわけなのだ。
さて、先程、騙すことと、騙されることといったけれど、絶対に騙せない、騙されないのは、もとの楽曲だと思うのだ。レコードとしての録音の特質だとか、演奏の効果というのは騙しの要素である。しかし、絶対に騙すことのできないのは、作品だ。曲であり、その造形である。これは、舞台の芝居にたとえていうと、これは芝居そのものの台本である。つまり変な台本を演技で騙すというのは無理なのである。やはり台本がいいということは、芝居の絶対の条件だと思う。それがレコードの場合には、作曲であり、その造形である。
ただ、不幸にして、人を感動させるような演奏がそこにあっても、その演奏を騙しの技術が逆作用して悪くしてしまうということはあると思うのだ。その演奏を限界の範囲内でよりよく聴かせるというのが、本当の騙しの技術だと思うけれども、まごまごするとそれを悪くしてしまうという録音再生の危険性もある。しかし、感受性の鋭い人には、その大もとの音楽のよさを、十分受けとって感動するという能力があるわけだから、騙すとか騙されるという技術は、本来、人間にそなわっている能力であり、全ての複製芸術の虚構の世界を実在や本質に結びつける大きな力なのかもしれない。
よくテープ・レコーダーが出現してから、テープを編集して完成した録音はインチキだという人がいるけれども、それは大変表面的な見方だと思う。テープの編集によってミスを訂正するなどというのは演奏の本質まで変えられることではないし、演奏そのものをよく聴かせるわけでもない。
つまり、演奏されたものの一部の差し換えたから、これはちょっとしたコンディションによるミスを修正するという程度であって、演奏そのものの本質を変えることには全くつながらないのである。演奏がどこかで小さなミスタッチをしたとか、どこかを飛ばしてしまったとかというようなことによって、本質的な音楽の表現や、受ける感動は変わらないと思うが、レコードは完壁なものであるべきだということでの細部の編集なのだ。
また、レコードの場合は、よくいわれるように反復して聴かれるからミスがあるとはっきり記憶に残って、あそこであの音がないとか、あの音が間違っていたとかということが気になるから直すのである。恐らく生の演奏会に行った場合、素晴らしい演奏会であっても、絶対にミスのない演奏会というものはあり得ないであろう。全部がミスじゃ話にはならないけれども、本当の音楽の全体の演奏のよさというものは、そういう細部の多少の傷というものとは関係ないことだ。レコードの編集で修正できるというのは、そんな程度のものであり、演奏の本質をよりよく見せたりすることは、絶対できるものではない。これは騙しの技術としては大したものではない。
そういう意味で、やはり、大もとにある音楽というものが、どうしても、一番重要なことになるわけだ。だから、昔のレコードというのは特性が悪かったが、特性が悪かっただけに、限界もあった。だから、一生懸命その限界の中でその演奏の特質を伝えようという騙しの努力が行なわれていたとも言えるのだ。
ところが、不幸にして、いまの機械は非常に特性がいい。したがって、あまり気を配らなくても、一通り物理的にはいい音がとれてしまう。そしてまた世間には機械の優秀性みたいなものにもてあそばされて喜んでいるような、どこか妙なオーディオ・マインドを持ったプロもアマチュアも多くなった。したがって、何か物理的な特性のいい音がするとそれで満足してしまって、その音楽の感動を伝えるために、どうしたら本当にうまく人を騙せるかということに対する関心が薄れてしまう。いい機械をもって、それを技術的にだけうまく使っていけば、ワイドレンジの、ひずみの少ないいい音が出る。もうそれで満足ということになってしまって、本当の音楽を伝えるという善意の騙しのテクニックがだんだん退化しているということもいえるように思うのである。
今ここに物理特性は悪いけれども、レコードという限界の中でうまく表現を伝えようとした録音と、物理特性は素晴らしくいいけれども、レコードという限界の中で、音楽をうまく伝えようという関心のない録音のレコードがあったとしたら、断然、前者の方が優れていると思うのだ。つまり音楽的感動がより豊かに伝わってくることがレコードの最も大切な条件だからである。
現代の録音が全て物理的とはいわない。現代の録音の中にも、もちろん、素晴らしい演奏もあるし、暖かい録音があるけれども、ただ、機械の優秀さに無闇に翻弄されているというような録音、あるいは優秀な機械の存在だけで終り、というような再生の楽しみ方が少々はびこり過ぎたということがいえるのではないか。
そういう意味では、古い録音のレコードでも、音楽を聴くということを目的とする限りは、未だに、いまの不出来なレコードよりもはるかにいい――不出来ということは音楽的な意味で――物理的には優秀な録音だとしても、そういうものよりもはるかに、音楽を聴く目的からいったら、大きな感動を与えてくれる古いレコードがたくさんあると思うのだ。
この騙しの話は、そういうわけで、レコーディング、あるいはプレーバックというメカニズムを使った演出という範囲でのことであるが、物理特性だけでは人は騙せないということだと思う。
レコードというものの本質からいえば、文字どおり、その存在理由と目的は記録である。これが第一の機能だと考えるのも常識であろう。ジャーナリズムでは、レコード音楽が新しいサウンドの世界をクリエイトするとか、生では聴けないような独自な音響の体験を与えてくれる世界をつくり出したとか、いろんなことがいわれているし、それも事実だとは思うけれど、しかし、そういうことよりもっと特質的に、認識すべきことは、一時性というか、即時性というか、そうした刻々と生まれ、刻々と消えていく演奏というあを固定できるということだ。これが一番大きな特質だと思うのだ。
だから、レコードの素晴らしさということを考えるときに、この何十年もの間に、たくさんの演奏家が残してくれた演奏そのものの記録という、この歴史性がレコードの意味として最大のものではないかと思うのである。そういう意味からいっても、いい演奏を、その時点で、技術は貧困であっても、一生懸命にとらえた録音、しかもその演奏に共感した録音制作者がとらえた録音というのは、物理的な音に関係なく、音楽の感動を聴き手に伝えてくれる大切なものだと思うのだ。
そんなわけで、技術の進歩というものを積極的に受け入れ、積極的にその進歩に拍車をかけて、より可能性を広げていくということと同時に、古いものの記録というものの重要性をしっかり認識して、そのバランスでレコードというものを認識していかないと、レコードというものを局面的に捉えてしまって、かたわな、おかしな形に発展させていくという危険性が現在のレコード産業界にはある。
生の素晴らしい演奏を聴いて受ける感動、あるいは、レコードを自分の装置で再生して、自分が納得できる音で聴いて受ける感動。この両者の感動の中には、価値観としてはそんなに大きな差がないだろうとさえ思えるのである。
条件があまり複雑過ぎて、簡単に言うと誤解を招くような発言になってしまうけれども、音楽として受け取る場合には、それがスピーカーから出てこようと、生の楽器から直接出てこようと、問題はやはりわれわれの聴覚でそれを受け取って、心に投影したところで価値が決まるわけだ。
物理学ではT音は空気の波動であるUというふうに表現しているが、オーディオ美学的に音というものを考えれば、空気の振動が音だという定義をしたのでは全く無意味で音というものは人間が受け取らなければ意味がない。空気の振動というのは単に物理現象だ。われわれのいっている音というものは、われわれの感覚が反応した時点において、初めて音になるのである。だから、そういう意味で、音楽から受ける感動、音から受ける感動、つまり音や音楽の美というものは、その人間の中の心象だと思う。したがって、音楽と同じようにオーディオも美学として捉えるべきではないだろうか。
そこで実際に、生とスピーカーの音の美の次元が、一体どの程度の差があるものかということになるだろうと思うが、これはやはり何といっても生が本当に美しい音だ。同じ音の生とレコード、録音されたものを比べれば、本質的な美の次元では生の方がいいに決まっている。いいに決まっているけれども、聴き手の能力次第で、それが多少ハンディキャップを持った録音再生音であっても、生の音とイコールに、心の中でつなげることは可能であろう。そして、多かれ少なかれレコードの聴き上手というのは、そういう心理作業のできる人であろう。これは一枚の絵を見る場合も、一冊の文学を読む場合も、同じことだと思うのである。それが鑑賞能力というものだ。
一冊の文学を直接著者から読んでもらうのと、本になったものを読むのとどう違うかというような、おかしな議論にやや近いのが生とオーディオの関係である。問題はやはり、受け手の中でのことだから、そういう本質的な考え方をすれば、私は、もうすでに、いまのレコードでも、生のものと感動の度合いではイコールだという考え方や言い方をするのである。また、イコールだと思えるからこそ、夢中になっていられるともいえるのであろう。
いま述べたような受け手の能力というものは、リクリエィティブな能力とよくいわれるけれども、その能力、あるいはその努力、これを減らしていこうというのが、技術のいまやってることではないかとも思うのだ。しかし、全くそういう能力を持たない、そういう努力をしなくても、生とおなじ音が聴けるとなったら、これは素晴らしい技術ではないかとも思う。
ただ、少し逆説的な言い方になるけれども、それがゆえに、技術の進歩は聴き手を堕落させてきたということを私は感じてならないのだ。昔のザーッという滝の音か、たき火の音みたいなノイズの中から、貧弱なナロウ・レンジの音しか出てこなかったSPレコード時代においてさえ、本当に真から、心から涙して音楽を聴いた人がたくさんいたのである。その人たちはたしかにリクリエイトする能力を持っていた。そういう能力がみがかれなければ、あの貧しい音から音楽の感動は聴けなかったといってもよい。だから、昔のレコード・ファンというのは、当然いまより数は少ない。しかし、才能の裏づけを持った、騙される能力というものを持った人がレコード・ファンだったと思うのだ。
いまは、そういう能力や努力が要らないところまでスピーカーは結構な音を出すようになったから、聴く人は急激にふえてきた。それでもなお、そういう能力や努力が必要だろうと思うのだ。もし、昔の蓄音器の時代のような努力や能力というものを、いまのレコードに対してもつならば、これは本当に素晴らしい。これから技術の進歩というのは、そういう能力や、努力をしないで済む、つまり、生とスピーカーの音との物理的な差をどんどんつめていくというような方向で進歩していくと思えるのだければ、現時点でも可聴周波数帯域は十分カバーしているし、ひずみは人間の検知能力以下になっているという現実なのであるから、物理的なファクターで、いま生の音とスピーカーの音と比べたら、だれも、大きな差があるとは指摘できないと思うのだ。勿論、技術レベルでは諸々のひずみを無限大にゼロという状態にすべきだ、・(コンマ)003ではまだ不十分などと、多くの不満はあるだろう。しかし、一般の人の耳には、・00いくつなどというひずみは、もう検知能力外の問題であって、一つの伝送系だけの物理的な条件で言えば、生と、いまの録音再生能力というのは、まずイコールに至っているといってもよいだろう。
ただ、いま述べた問題は、物理的に、一つの録音再生の伝送系の中で可能なファクターである。仕掛けの持つ特質は、また別の話しである。つまり、生の、本当の三次元の大きな空間を、二つのスピーカー――四つ置いたって、六つ置いたって同じようなものだが、いわば、有限のチャンネルによって伝える録音再生空間伝送系としての仕掛けの限界はいつまでも残る。生の音を伝えるためには無限チャンネルが必要なのであり、これは実用機器としては存在し得ないものだから、その仕掛けのハンディキャップはいつまでも残るということになる。ただ、音を単なる二次元信号としてとらえた場合の、生と現在の録音再生技術の持っている能力による音の差は、もうほとんどないのではないかというように思うのである。
技術の進歩というものは常にトータルで、すべての面で一気に進歩するということはない。つまり、理論とか技術というのは解析的だから、解析できた部分を進歩させ、次にまた別の部分を進歩させるというように、部分的進歩をしていく。部分的進歩をしていく過程では、一時的に全体のバランスがくずれることも起きる。つまり、あるデータはよくなったけれども、音は悪くなったということは日常茶飯なのである。そこが常にオーディオの注意すべき問題点であると思うのだ。
したがって、今、デジタル・テクノロジーというものが、新しい技術としてオーディオ界で注目を浴びているし、現実に、この数年のうちに、デジタル・オーディオ・ディスクが新しい商品として具体性を持って登場してくると思われるけれども、これはまさに新しいテクノロジーで、部分的可能性を持っているだけに全体として一時的混乱が起きる危険性がある。
だから、トータルとして、本当に可能性を持ったものかどうかということは、早急な結論は出せない。ある部分を考えれば、あるいは、ある一つのファクターを捉えてみれば、いまのテクノロジーよりも確かに有利な部分がたくさんあると思われる。ただ、それが即、音のよさということにつながっていくかどうかはわからない。むしろ、ときには、その部分的技術の優秀なファクターのために、全体のバランスが損なわれるというような現実も、われわれはすでに耳にしている。ある種のデジタル録音を聴くと、いままでのアナログ録音によるものよりも音がよくない。よくないということは、つまり、もとの音に対してであるけれど、もとの音に対して近くないという録音は決してよいとはいえないだろう。また、美しい音とも思われない。
だからといって、これはよくないものだと結論を下すのも早計である。それは技術の進歩の足を引っ張ることであり、そういう態度はよくないと思うのだ。新しい技術だから、即、音がよくて、しかも音楽の感動がよりよく伝わるのだと考えられると、これは大間違いだとも思う。どんな新技術も時間がかかるものだ。そして、受け手の能力、受け手のセンス、受け手の努力というものが究極的には一番重要なものである。
それさえ忘れていなければ、例えば、どこか不満足な音がしたら、必ず克服できるであろう。DADの可能性というものは大きく感じているけれども、技術革新のプロセスにおいては、逆に、トータルの音や感動という面からいくと、ときには後退をするという事実にも直面するのではないかと思うのである。
私が自分でレコードをつくってきてつくづく感じることは、この録音再生、複製芸術というものの領域はそれに携わる人間と人間の相互理解のフィデリティという問題の大切さと複雑さである。したがって、やはり、少なくとも録音制作をする人間は、その録音制作をしようと思っている対象の音楽、音楽家を理解しなければ優れた作品をつくることは不可能である。どんなにキャリアがあっても、どんなに技術があっても――確かに技術とキャリアがあれば、そこそこのレベルの仕事はできるが、確実に、何を伝えようかということがその人にわからない限りは、騙しの手段の使いようがないのである。
(一九八一年)