再生装置に何を望むかという原稿を依頼され、〆切時間はともかく、内容については比較的軽く引き受けてしまったのが間違いであった。いざ、書く段になってみると、それは難しい。自分のオーディオ観を全部語らなければならないテーマだからである。随想風に、とかなんとか、編集者はこっちの気持を楽にさせるために上手い事をいって、見事、一杯食わされた形になってしまったようである。大体、根が真面目な質なものだから、どうしても考え過ぎになってしまうのだ。だから、改まって再生装置に何を望むかというテーマを出されれば、やはり、そう適当に面白可笑しく書いて、お茶を濁すわけにはいかないだろう。
録音制作を仕事とする立場でなかったら、かなり主観的に勝手な事をいってもいいように思うのだが、自分で録音の仕事をしているとなかなか、そうはいかないのである。かといって、自分自身が、子供の頃からのオーディオ・マニアで、レコード狂で、きわめてアマチュア的に、趣味として楽しんできているので、一方的に、録音の立場から、冷たい理屈を推し通す事もできない気持もある。いつか、ある同業のエンジニアが、こんなことをいっていた。「ステレオの左右のスピーカーの間隔を規格化しなけりゃ駄目ですよ。そうでなけりゃ、我々は録音なんかできやしない。いろんな家で、勝手に聴かれているんだから、我々の苦労なんて無駄ですよ」恐ろしい事を自信たっぷりにいうもんだと私は呆れて、適当にフンフンと返事をしていたものだった。しかし、彼のいう事も、一理あって、あながち一笑に付してしまうわけにはいかない大事な問題を指摘しているとも思ったものだ。
レコード音楽の本質というか、大前提は、家庭で居ながらにして、自由に音楽を楽しめるという事であって、それがレコードと、その再生装置を商品として、こんなにも一般化させることができたのだから、家庭の中にまで万国共通の規格を強いて、二つのスピーカーは3メートルの間隔を置いて設置すべし! などということになったら、今でも難しくてとっつきにくいオーディオが、まったく一般の人々には近づき難い専門分野になってしまうだろう。そして、もしかりに、そういう規格を統一させることになったら、それこそルーム・アコースティック特性も規制して、残響時間は何秒以下、残響周波数特性パターンはブラス・マイナス何デシベル以内といったことを強いることも重要な問題になってくる。それを守らない人はレコードを聴くべからず! などということになるわけで、恐ろしい事をいうと感じたのは、そんな事を考えたからであった。
一方、録音再生の多くのプロセスの中で、もし、なんの約束事をもつくっておかなければ、もっと恐ろしい事になる事も想像できるわけだから、彼の発言を手離しで笑うわけにはいかないとも思った次第。イコライザーの規格がなかったら、回転数が正しく守られなかったら、一体どんな事になるか? これらハードウェアの規格は、幸いにして守る事が容易だし、現実に、原則的には守られているのである。左右のスピーカーの間隔は、たしかにステレオ・システムとしてのハードウェアの規格として存在しても不思議ではないというのが彼の考えなのだろう。ソフトウェアには規格はあり得ないから、私のようにソフト派の人間からすれば笑える話しだが、ハード派の身になってみれば、これは笑い事ではないのであろう。
そしてまたソフト派としても、たしかに、苦労して音像や音場の効果を緻密にステレオフォニックな立体効果として制作しても、二つのスピーカーの置かれ方が無茶苦茶では大問題である事も事実なのだ。自分が制作したレコードが、いろいろな音で鳴っている場面に出食わすたびに、喜んだり、悲しんだりしているのは事実だからである。考えれば考えるほど、これは難しい問題なのである。
よくあるように、二つのスピーカーが、ほとんどくっついて並べられていたり、喫茶店などの大きい部屋の両端に、互いに無関係なほど遠く離れて天井にへばりついていたりしたのでは、録音で意図した位相差などは再現されないのである。
これは、再生装置のあり方と複雑さの中の、ほんの一例に過ぎないわけで、録音再生を一貫して考える時、客観的に割切れない難しさをつくづく感じるのである。
音楽とオーディオの魅力にとりつかれてから、かれこれ三十年も年月が経過した。レコードの録音や再生装置の性能、独自のキャラクターなどを意識するようになってからでも、二十五年ぐらいになるだろう。2A5シングルのアンプで、6・5インチのスピーカーを鳴らしていた、古い卓上電蓄と称する機械が家にあって、私がレコード好きになったのは、この機械のお陰だといってもよいと思う。昭和十三年頃の日本ビクターの製品である。父が集めたレコードを片っ端から、この電蓄で聴いていたものだ。その頃は、ただ音楽を聴く喜びだけで、音の事など意識するどころか、四角い箱がいろいろな音を出す不思議さに、強烈な好奇心は抱いていたものの、音色や音質の善し悪しや、好き嫌いといったものはまったく意識しなかった。
しかし、私は、自分が、生まれて初めて音というものにしびれた、純粋経験は、この頃すでに体験ずみであったのだ。それが、レコードの音への不満として現われるのには、ずい分時間を要したのが、今、考えると不思議な気がする。その純粋経験というのは、小学校の三年の頃、ピアノという楽器によってもたらされた大きなショックであった。他愛のないことなのだが、一本の指でピアノの鍵盤をたたいている時に発見した、音の美しさ。それは当然、単音に過ぎなかったのだが、今でも、あの時のショックは忘れられないものだ。
不思議なことに、それはピアノの銅巻線に限られていた。家庭に置きっぱなしで、妹がたまに弾く程度の楽器だから、調律もよくなかった。だから、三本のピアノ線が張られた中音域以上の音は同音の調律の狂いが、耳に嫌な感じを与えたのだろう。低域の銅巻線の領域に無性に魅力を感じ、ただその音をたたいては、うっとりと酔っていたのを思い出す。体内の血がさわぎ、ぞくぞくするよう快感を味わった。
それがきっかけになってピアノが好きになり、親父の反対にもかかわらず、内緒で母親に月謝を出してもらい、ピアノを習い始めたのであった。そして、和音の美しさを知った。やがて、先生の家にあったグランド・ピアノに接して、楽器の違いに驚くことになった。古いグロトリアン・シュタインヴェッヒだったが、その暖かく、しかも輝かしい音の魅力は今でも忘れられない。今、私の部屋には新しいグロトリアンのグランドがあるが、先生の家にあった楽器とは比較にならないように思える。肉づきが薄く、音が鋭く乾いている。こっちの耳がシビアーになったのかもしれないが、そうとばかりは言えないような気もするのだが……。
とにかく、私の音への関心は、このピアノによるショッキングな体験に始ったといってよいと思うのだが、レコードの音には、ずい分長い間、無関心であった。それに関心を持つきっかけの第一は、ブルーノ・ワルター/ウィーン・フィルのベートーヴェンの「第六交響曲」に聴き馴染んだ耳で、同じ曲をエーリッヒ・クライバーのレコードで聴いた時だった。演奏の違いにも驚いたけれど、あまりにも音が違うのにびっくりした。オーケストラは忘れてしまったが、レーベルはテレフンケンだったと記憶する。ワルターで聴こえなかったパートが聴こえたり、その逆の所があったりしたが、そんな細かなことより、全体の音の質がまったく違うのだ。オーケストラの違いもあったろう。いや、その時はすべて演奏の違いによるものであると思っていたのが正直なところで、録音の違いなどという推測が生まれ得る知識など、まったく持ち合わせてはいなかった。
第二には、自分の聴きなれたギーゼキングとワルターの協演するベートーヴェンの「第五ピアノ・コンチェルト」を友人の家の機械でかけた時だった。もう、冒頭のテュッティの音が、まったく違う響きだった。バスが重く厚く響き、しかもピアノの分散和音は一段と冴えて聴こえた。フィナーレの独奏楽器とオーケストラのかけ合いに至って、私は興奮の極に達してしまった。背丈ほどもある大きな電蓄だった。
この二つの経験が、私をして、オーディオの世界へのめり込む決定的な動機になったといえるだろう。高校から大学へ進む頃にはスコアを見ながらレコードを聴く楽しみを味わい始めたが、こうなると、スコアに書かれている細部とレコードが再現するそれとの間のギャップがひどく気になり始め、演奏のせいか、録音のせいか、はたまた再生機器のせいかと思いを巡らすようになってきたものだった。音楽演奏の造形面、音の色と質はもちろんのこと、気になる雑音の出方さえ、機械によって変わるとなれば、これに興味を持たないでいられるわけはない。以来、模型作りの興味は一変して、オーディオヘ移ってしまった。
それから十年ばかりの間は、まったく趣味としてのレコード鑑賞でありオーディオいじりであったから、よりよい音の基準は、私自身の嗜好や感覚以外になかった。当時すでに、原音再生という言葉もあったし、生の音楽とレコード音楽とのギャップについても活発に論じられていたけれど、私には、それは、あまり現実的な感じではなかった。違いがあまりにも大きかったから、そうした議論が空論とも思えたからである。
しかし、それにもかかわらず、レコード音楽は素晴らしかった。生の演奏会のあとではレコードなんか聴く気がしないという人もいたが、私は、まったく反対で、ますますレコードが好きになるほどだった。生の演奏会では、私は完全に聴衆だったけれど、自分の部屋でレコードを演奏する時は、もっと切実に、自分があった。
レコードを演奏すると書いたけれど、まさにそれなのだ。おかしいと思われるかもしれないが、演奏会で音楽を聴くより、レコードのほうが、はるかに音楽が身近であり、自分との一体化があった。これは典型的なレコード愛好家のパターンであると思われる。自分で選んで買ったレコード、自分がつくった、あるいは選んだ再生装置、それを使って音楽を奏でることは、自分が演奏しているのに近いのだ。たしかにそこには、演奏家がいる。他人が弾いたものの記録だ。他人が制作したレコードだ。そして、それを鳴らすのは機械である。しかし、それは物になってしまったもので、いわば屍である。それを発見して、しかるべく組み合わせ、生きた音楽として蘇生させるのは私なのだ。レコードとオーディオの世界の魅力の一つは、たしかにここにあるのだと私は思う。だから、それが生の音とどう違うとか、似ているとかよりも、自分が、スピーカーの前で、どれほどの音楽体験ができるかどうかが問題なのである。時には素晴らしい演奏会に巡り合って、レコードのそれよりはるかに高い次元での感動を覚えることもあった。しかし、その逆の方が私には多かった。
こうした時期を過して、私は自分でレコードを制作する仕事についた。そこで初めて、録音再生に客観的な姿勢を持たざるを得なくなったといってよい。私のつくるものが、私のためだけのものではないことを知るからである。しかし、それでもなお、その客観的姿勢は、ハードウェアにのみ止まるべきだと思っているし、それしか道はないと信じている。
つまり、物理的に絶対の答えを出せない領域での判断は、私自身の中にしかないからである。マイクの選択、マイクの置き方、アレンジメントがそうだ。この決定的に録音物の音色、音楽性を左右することだけは、絶対にコンピューターの手には負えない。写真機のピントや露出時間はすでにオートマチックである。しかし、被写体をいかに見るか、それをいかに有限スペースに入れるか、いかなる瞬間を捉えるかは、あくまで人の仕事である。一人の人間のベスト・ポートレートはこれだ! などとコンピューターが、たった一枚の写真を撮影し得るだろうか。録音も、これに似ている。
この話を始めると、とてつもなく長くなって、ここでは書き切れないから止めるが、録音でさえそうであるように、再生装置においては、私が望み、求め続けてきたものは、私自身の音と音楽への同化以外にない。それだからこそ、オーディオは趣味になり得るし、生き甲斐にさえなる。そして、最も大切なことは、自分と同化した再生装置であってこそ、演奏の真の姿が伝わるものだということである。いい加減な装置や、いい加減な使い方でレコードを鳴らしていると、演奏の真実が歪曲される。もちろん、いい加減な録音も然りである。
演奏と録音、録音と再生、再生機とリスナー、この一本の糸の人工機械の各プロセスが緊密に同化してこそ、音楽は真の姿をもって蘇り、レコードを演奏する人間と一体となり得る。たとえどんなに技術が進歩して、システムに変化が生まれようと、常にその時々で、この糸の統一と同化があれば音楽は生きる。技術の進歩には常に目を向けるべきだから、より特性の優れた再生装置に発展していきたいとは思っている。しかし、録音系の実情から離れた再生系も、再生系の実情から離れた録音系も共に無意味であることを知るべきだ。進歩的でありたいとは思うけれど、両者がバランスしなければ意味がない。心技一体は、音楽をする人の最も心すべき事だけれど、オーディオも同じであると思う。技に走り、心を忘れていたのでは、自分と再生装置の同化など、とてもおぼつかない。
(一九七六年)