現代の科学技術の最先端を行くエレクトロニクスが、オーディオ技術の一番大きな分野を占めているということは、紛れもない事実であり、現実である。そして、いまやそのエレクトロニクスのデジタル・テクノロジーが入り込んできつつあるということも、看過できない事実であり、現実であろう。このことはある面(例えば、ノイズが少ないとか、音が明快であるとか)に限って言えば、オーディオにとって歓迎すべき事態かも知れない。
 しかし、オーディオにとって一番大切な、音の微妙なニュアンスとか、人間本来の心に訴える感情の情報というものを、デジタル・テクノロジーが伝えうるのかどうかということになると、疑問を感じるのは私ひとりだけではあるまい。
 テクノロジー崇拝主義、テクノロジー万能主義の危険な落し穴には、コンピューターの世界をみるまでもなく、十分気をつけなければならないと思う。コンピューターという言葉が、いかに多くの人を説得してしまっていることか。コンピューターに任せれば何でも可能だと、頭から盲信している人があまりにも多いのが現実である。
 時には、人間が実験した方がはるかに能率が上がる場合でも、すべてコンピューター任せだ。また時には、コンピューターのプログラミングそのものが間違っていたために、人間の目的とする答えと、全く違った回答が出てくるといった悲喜劇すら演じられる。これらの事態は裏返して言えば、現代人共通のTコンピューター・コンプレックスUの顕著な表われであろう。コンピューターといえども、人間が使う道具であり、いかなる場合に、いかなる使い方をするかということが、一番重要なのだ。
 コンピューター社会の将来を私なりに予測すると、人類はごく一部の利口な人間と、大多数の馬鹿な人間とに区分けされてしまうのではないかと思う。ここでいう利口な人間とは、すべてをコンピューターに蓄積してしまう側の人間であり、馬鹿な人間とは、コンピューターを使うことのみしか知らない、いわばコンピューター任せの無感覚、無思考の人間である。コンピューターを使うというと、いかにも現代人的で利口に見えるが、使うテクニックしか知らない大変な欠陥人間かもしれない。
 そして、さらに想像を拡大すると、地球の大異変かなにかで、この一部の利口な人間が死に、コンピューターが破壊されてしまった後の世界に於ては、残された全ての人類は原始人にまでもどってしまうのではないかとさえ思う。コンピューターが存在しなければ何もできない人間など、コンピューターなしでは、原始人にも劣るひ弱な動物に過ぎない。極言すればそのような事態が、近い将来に起こりうるかもしれない。計算の仕方を知らなくてもボタンを押せば答が出てくる――考えようによっては、何ともそら恐ろしい世の中ではないだろうか。
 これはあくまでも私の空想だが、大昔の人はコンピューターの発明まで行なったのではないかと思う。あるいは、宇宙開発の域まで達したのではないかと想像する。SFじみてくるが、それが地球上の何か大きな異変で、いっさいが消滅して一気に原始時代にもどってしまったのではないか。ナスカの文明の遺跡にもそれらしきものが見られるし、大昔の壁画にもロケットのようなものに乗った人間の絵が描かれてあったりする。それらは我々の空想を現実的にさせる説得めいたものをもっている。
 このように空想すれば、先述したような事態も、あながち非現実的と無視するわけにはいかないだろうと思う。ただ、そのような事態になっても、頭脳のなかに蓄積がある人間が少しでも生き残れば、人類がいっきに原始人にまでもどってしまうことは避けられるだろうと思う。
 オーディオの世界も、テクノロジー万能に陥って行くと、オーディオ本来の目的である人間がつくった人間の作品を人間が聴いて楽しむという、一番大切なことを失ってしまうという危険性に陥ってしまうだろう。
 たしかに、科学的であるということはいいことであるし、非科学的だということはいいことではない。しかし、科学を万能としてしまうことの方が、もっと恐ろしいのである。オーディオにとってエレクトロニクスは、純然たる手段にすぎない。目的は全く別のところにあるのだ。したがって、手段としての科学性は十分に認めながら、目的においては、科学を超越したもっと大きな存在というものの実在を明確に認識しなければ、オーディオというものは楽しめないだろうし、人間ではないと極論してもいいだろう。人間がつくり上げた科学に人間自体がしばられるようでは、人間の存在など安っぽいものになってしまう。やはり我々には、神の存在というものをどこかで信じ、自然に対しても大きな敬意をはらい、同時に畏敬の念をもつといった、人間らしさが不可欠なのではないだろうか。
 オーディオは、エレクトロニクスという現代科学の最先端を行くテクノロジーを駆使して、感動の情報を伝達するきわめて高度で、しかもデリケイトなメカニズムである。したがってオーディオをテクノロジー万能の尺度で捉え、データとか物理的な測定値、つまり数値的な機器の優秀性でのみ考えるのは、人間性を軽視した偏見と言わざるをえない。言葉を変えて言えば、録音とか再生の問題の中に、人間をとり込んでくることを不明瞭であるとか、反復性がないからいい加減であるとかいうようなことを言っているとオーディオは近い将来、心ある多くの人々から見放されていってしまうということだ。
 せっかく築き上げたオーディオの素晴らしい趣味の世界というものが、たんなる機械の冷たい世界になっていってしまうことは悲しむべきことである。オーディオの趣味の世界が、冷たい機械の世界になってしまったとしたら、その暁にはたくさんお金を持っていて、物理的にのみTいい機器Uを高額な金を払って買う、一部の金持ちが勝つのは自明の理だ。そうなったら、もはやオーディオの世界は非文化的で暖か味のない、心の通わない、趣味でもなんでもない、文字どおりT寒い状態Uになってしまうと思う。
(一九七七年)