オーディオのコンポーネントが持っている大きな特質として、第一に、好きなパーツを組み合わせて自分の理想とする音に近づけていくことができること。第二に、ある部分を交換することによって、より優れた音にすることが可能であることが挙げられよう。したがって、コンポーネントにとって、グレードアップというものはつきものである。
いわゆる完成品というのは、カートリッジとかトーンアーム、あるいはアンプリファイアー、スピーカーというような各ブロック全体で、できるだけ効率的にコストの中でバランスをとっているので、一部分をより特性のいいものと変えてみても、必ずしも改善につながらないし、むしろ改悪になる場合が多い。コンポーネントというのは、その意味で、とりあえず自分の満足のいくものを組み合わせて後日、自分の感性の洗練の度合によって、確実にグレードアップできるところに楽しみがあるわけだ。
しかし、ここで重要なことは、私が今まで再三述べてきたTオーディオは尽きるところ人間の問題Uであるということを、一番重要な根底にしてグレードアップをはかっていかないと、非常に危険な方向に行ってしまうということである、今、聴いている音と自分の要求する音との関係がどうであるか。つまり自分がそこに果してはっきりとした不満を持っているのか、そういうものが見つかって、はじめてグレードアップの必要が起きるのだと思う。ところが実際はそうではない。今の音がいいのか悪いのかさえ分らない。それでいてグレードアップを考える人もいるのが実情だ。また、かなりの機械を持っているけれどもその機械を使い切っていないで、グレードアップを口にする人も多い。例えば、スピーカーの置き方がその部屋に適していなかったり、アンプのコントロールを十分こなしていなかったり、さらにはプレーヤーの調整を正しくしていなかったり、というように使いこなしが不十分のままに音に不満を持ち、他のパーツに変えたら良くなるだろうと考えている人もいる。こういうことは、無駄であるばかりでなくはなはだ危険であると思わざるを得ない。
グレードアップの前提条件は、自分の持っている機械を、とことんまでT使いこなすUということである。自分の持っている機械を十二分に使いこなし、その音に対して自信を持って不満であると言える段階になった時、さて、どこをどう変えたら一番効果的であるかということを十分検討したうえで、グレードアップをはかるということが、オーディオの本当の行き方だと思う。そういう点で私は、グレードアップというものは、表現がかなり厳しくなるが、本人のグレードアップ(音への感性の洗練、音楽に対する造詣や理解度)が無いのに外側の機械だけグレードアップをはかっても全くナンセンスである、と敢えて忠告させていただきたい。
大分前のことであるが、アリリオ・ディアスという大変著名なギタリストと、楽器について話したことがあった。彼は、かなり有名な楽器を持っていたが、私が「いい楽器ですね」と言うと、「大変に素晴らしい楽器です。しかし私は、この楽器を三年間弾いてきましたが、いまや不満が出てきたのです。新しい楽器に買い換えたいと思っているのです」と彼は答え、つづけて、「演奏家というものは、常にいい楽器を持たなければいけない。もしいい楽器に対する欲求が起きないとすれば、それは自分自身の進歩が止まった時だと思います。自分自身が進歩していれば必ず楽器に対して大きな欲求が出てくるし、その欲求を満たしてくれるような楽器を求めます。そして、いい楽器を求めた時には、その楽器が自分にいろんなものを教えてくれる。そこで自分はさらに感性と技術に磨きをかけて、その楽器を弾き込んでいく。そうすると、ある程度のところまでいくと楽器を上廻る時が必ずやってくるものです。もし、上廻る時が来なかったとしたら自分にとって非常に淋しいことだと思います」と、話してくれた。この話は、大変に啓蒙的だと思うがいかがだろうか。
オーディオ機器についても、全くこの話のとおりである。音に対する確たる欲求が定まってもいないのに、お金があるからといって最初から高い機械を買うのは無意味もはなはだしい。最初は安くてもいいから、自分なりに満足できると思うような機械だったら、ともかくオーディオの世界に入ることをおすすめする。ただ、それで満足してしまっては進歩はありえないということを始めから肝に銘じておいて欲しい。機械に対する認識が、機械なんだから大同小異なんだ、メロディが聴こえるし、ハーモニーが聴こえるからこれでいいんだと思ってしまったら、もうオーディオの趣味の世界には入ってこられないだろう。
ある面でオーディオは、自分と機械との対決である。常に教えられ、時にはその機械の限界を知り、より可能性のある機械を求める、その連続である。そして当然のことであるが、その機械というものは人間を離れた単なる物理的な性能ということだけにとどまらず、その機械をつくった人間の次元というものが、機械を通してそれを使う人に呼びかけてくるものだと思う。したがって、その機械との対決ということは、いわばその機械をつくった人間との対決でもあるわけだ。このように機械というものを考えてみれば、オーディオというものの世界が理解できるのではなかろうか。オーディオの本質を理解しないで、ただ物理的なグレードアップにきりきり舞いさせられている姿ほど滑稽なものはない。新製品が出るたびに混迷し、高いものにはきりがないという現実の前で、泥沼の中であがいているというのは不幸な姿と言わなければならないだろう。
くり返すが、機械には限界がある。しかし自分の感性というものは、音楽に対する接し方でいくらでも磨くことができるのである。この認識を持ちつづけていれば、自分が不満を感じた時にその機械の可能性をさらに高めようという気持ちになるはずである。そして使いこなしに努力することになる。オーディオは美しき泥沼であり、美しき混乱である。常に自分と対決し、自分を洗練し、より可能性を機械に求めるという、この姿勢を貫ぬく限り、この機械と、機械の裏側にある人間との対話を含めた素晴らしい世界の展開があると言えるだろう。
(一九七七年)