再生装置によって同じレコードが、いろいろな音で響くとすると、どれが正しい音か? という疑問が起きても不思議ではない。これがオーディオ・マニアを悩ませるのだ。ひょっとして、自分の装置の音は正しい音を再生していないのではないかという不安をもっている人は少なくない。
 一方、自分の装置こそは世界一で、勿論、すべてのレコードをもっとも忠実に鳴らすし、絶対に最高の美しい音だと思っている人も、かなりいる。面白いことに、そうした対照的な二人のマニアの装置を聴かせてもらうと、たいていの場合、後者、つまり自信満々の人の装置の音は聴くに足らない場合が多い。そういう時に、私は必ず私が録音したレコードも持っていって聴かせてもらうが、これが私の制作したレコードか? と耳を疑うほど、違った音が聴こえるものだ。
 しかしまた、不思議なことながら、そういう装置でも、特定のレコードに限り、素晴らしい音で鳴るということもあるから厄介である。いわば、レコードと再生装置の相性のようなものが存在するのである。このへんから、再生装置がレコードを選んだり、レコードが装置を選んだりという現実が生まれていくのであるが、つきつめてみると、それはレコードや装置を選ぶ人、つまりオーディオ愛好家個々の感性や嗜好のあり方に結びつく。
 クラシックが好きか、ジャズが好きかという大ざっぱなところから始まって、さらにはオーケストラや室内楽、ピアノ、弦楽器、声楽、打楽器など楽器への興味、そしてもっとしぼっていくと演奏家への関心などのあり方によって、自分の志向する音の美しさにそれぞれ違いがあって、これが、レコードや装置の選択にあたって、いろいろな差違を生みだすということになるのである。だから、先に書いた自分の装置に自信のない人というのは、その好みが確立していないか、あるいは、オーディオに対する知識が不十分である場合がほとんどだし、逆に自分の装置こそは最高と思っている人は、それが客観性を欠くものであった場合には、強烈に自分の好みがはっきりしていて、それに合った独得な音が出ているか、あるいは大変な投資と時間をかけたこと自体にあぐらをかいている人である場合が多い。どちらのタイプにも欠けているものは、オーディオに関する科学的常識とでもいうべきものと、バランスのとれた音楽的感性であろう。
 しかし、所詮、趣味としてのオーディオは、個人的なものであるし、個性的なものであってもよいのだから、自分が満足する音が得られればそれでよいともいえる。ただ、絶対に守らなければならない約束事、オーディオのメカニズムが科学的に構成されている以上、基本的な科学性を無視してまで、個性を主張することは、でたらめであることを認識すべきであろう。物事すべて基本や枠を無視しては、一人よがりのいい加減なものに終るもので、決して優れたものにはならないのである。自由とか個性とかいうものは、決してでたらめや、いい加減さの上に立つものではないであろう。
 オーディオの世界は、ともすると自由や個性の存在の余地のない、無味乾燥なメカニズムの世界だと見られたり、あるいは、そうあるべきだと考えられていたりするのは大変残念なことだ。メカニズムとエレクトロニクスの結びついたテクノロジーが、自然の神秘とでもいいたい未だ知られざる音の魅力と関わりあって、音楽という人間表現のデリカシーに大きな作用をする。道具としての忠実な機能と、それ自身の個性とを合わせ持っていることを発見した時が、その人にとってオーディオの世界が開かれた時だ。その時から、人は無限の知識欲にかられ、感性の洗練の場を広く求め、さらに、この高い音の世界を究めることに努力を始める。
 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどドイツの古典、浪漫派の大作曲家達も、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ達の近代フランスの作曲家達も、そしてジャズも、ポピュラーも、全ての音楽がその人の感覚の洗練と精神の高揚のよき協力の相手として身近に存在するのである。それらの音楽は、その人の手許にあって何時でもその人の手によって、演奏されるのを待っている。
Tレコードを演奏するUという言葉があるように、レコードは主体的にプレイするものなのである。自分で選び、自分の感性に合った音質で、自分の好みの音量で、自分の望む時に、あの黒い円盤を演奏するのである。あえて危険な誤解を覚悟でいうならば、レコードは楽譜で、装置は楽器のようなものだといってもよい。それほど、レコードは大切なものだということだ。
 立派な演奏をするためには、いい楽器と弾き手が必要なように、いい装置と使い手が必要なのである。どんなに高価な、例えば数千万円もするようなストラディバリやガルネリのヴァイオリンでも、下手なヴァイオリニストではどうにもならないのと同じように、どんな高価な装置でも、それを使いこなせない人にかかっては真価を発揮できないという性格すらオーディオは持っているものなのである。金持ちが、最高の機器を揃えて得意になっているだけでは駄目なのである。愛情と、それにふさわしい知識(技術)と感性をもって、装置を使いこなさなければいけない。無論、楽器とオーディオは違う。誰がさわっても音が出るのがオーディオだ。だからといって、おろそかにしてよいということにはならないし、知れば知るほど、難しさも楽しさも出てくるものなのである。
 オーディオの世界でよくいわれる言葉に、T音は人なりUというのがある。この言葉を誰が言ったかは知らないが、オーディオのメカニズムに長年取り組んだ人達ならば、この言葉の意味を皆よく理解する。つまり、オーディオは決して無味乾燥な機械の世界ではないのである。カートリッジ一つにしても、それを支えるトーンアームでさえも、それぞれ個性をもった機械であり、現実に音が違うことはスピーカーと同じである。アンプの回路方式、使っている部品の選択、どれ一つを変えてもニュアンスが変わってくる。そして、それらの選択の最終決定は、その機械を使う人間の耳である。ひらたくいえば、物質には全て独自の性格があり、その物質を使ってつくる機械では、必ずその固有の性格が音の違いとして現われるものなのだ。少々乱暴な言い方だが、同じ太さの糸を使って同じ密度の網目で織っても、羊毛と絹とナイロンでは肌ざわりが決定的に違う布地になるのと似ている。録音から再生スピーカーに至る複雑な経路の中で、無数のファクターのそれぞれに、このような性格があるわけだ。
 だから結論的にいって、スピーカーから出る音が、直接、楽器から出る生の音と同じになるわけではない。同じように聴こえるまでである。どこか違う。ましてや空間一杯に響きわたったホールの響きを家庭の狭い部屋で、同じ響きそのものが得られるわけはない。4チャンネルはおろか、8、12、24と、チャンネルを増やしていっても、あくまで違う。むしろ現在の2チャンネルは、一番実用的で、しかも大きな可能性を持っているとも思える。家庭で鳴らすことを大前提とするオーディオ・メカニズムのシステムは、独自なものにならざるを得ない。生そのものの再現を追求することは、個々の機械の物理特性の追求の目的としてならばともかく、システムとしてのオーディオには無意味である。
 だからといって、オーディオは、生のにせ物でもなければ代用品でもない。それは、生と違った音響世界でありながら、生と同次元の音楽的体験を可能にしてくれる世界なのである。楽器から直接出た音であろうと、スピーカーから出た音であろうと、音楽としては同じ感性で捉えることが本来であろう。そうでなければ、Tこれは映画だから、本物ではないUというつまらない考え方で、映画鑑賞を拒否する馬鹿らしさと同じことになってしまうではないか。
(一九七六年)