パイプに趣味のある方ならよくご存知のはず。アンネ・ユリエ女史は世界でただ一人の女流パイプ作家であり、その手づくりのパイプの美しさ、芸術家としての高い感性は、世界中のパイプ愛好家から高く評価され愛されている。ハンド・カット・パイプで名高いデンマークにはたくさんのパイプ作家がいるが、中でも彼女の存在のユニークさは、彼女が女性の作家であるということ以上に、その作品の繊密な仕上げ、センス溢れるスタイルに感じられる心のこもった真のクラフトマンシップが創り上げる高い完成度によっている。数年前、私は、東京新宿のパイプ店Kで、彼女の作品をウインドー越しに見つけ、そのシェイプ、美しいグレインと仕上げが創り出す佇いに魅了された。ボウルの量感、ステムに流れる優美なラインなどの細部に惹かれた以上に、その全体の容姿が私の心にぴたりと居心地のよい落着きを感じさせたものだった。かなり高価なものだったし、その場は諦めて家に帰ったものの、ベッドに入っても、そのパイプが頭から離れず、意を決して後日K店に買いに行ったら売れてしまっていたという無念の想い出がある。所用でヨーロッパ旅行をした折に、私はコペンハーゲン滞在の日程を組んでパイプさがしをやったわけだが、アンネ・ユリエ女史に会ったのはその時であった。ポール・ラスムッセンという天才的なパイプ作家の夫人であった彼女、夫の死後パイプづくりに身を捧げ、ごく短期間のうちに世界的な名声を得るまでになった彼女との素晴らしい出会いは私の人生に強烈な一頁をプリントした。一介の客として彼女の店を訪れた私は、すっかり彼女と意気投合し、芸術論や人生論に花を咲かせ、初めてのデンマーク旅行であったにもかかわらず、観光もしないで、彼女の店と自宅で滞在期間のほとんどを過したものだった。彼女の紹介で、シクスティン・イヴァルソン氏にも会い、彼女とはちがったアングルでの芸術論を聞く事ができた。その後、ヨーロッパ旅行の度に多忙なスケジュールにかかわらずコペンハーゲンを加えては彼女との対話を楽しみにするようになった。
今年五月、高島屋におけるスカンジナビア・フェアに因んで来日した彼女は三日間、私の家に滞在し、共に語り、共に音楽を聴き、多勢のパイプ愛好家たちと会い、充実した日々を過すことができた。折しも、この雑誌の取材の時期とも一致し編集部の依頼で、彼女との対話の一部をここにまとめることになったものである。一年程前に、自動車雑誌Tカー・グラフィックUの依頼で、Tパイプと車Uというタイトルで随想めいた一文を同誌に寄せた折、アンネ・ユリエやイヴァルソンの話しを出して、人と作品、作品を通してその背後にある制作者の精神や感情との触れ合い、人心と機械文明との関連などについて書いた。今回も、このオーディオ特集号に、パイプ作家のアンネ・ユリエとの対話が登場する理由も、趣味としての基本的に共通の立場からの事であって、場違いに見えて、決して場違いではない人生と生き甲斐、生きる事に関り合うという時点から趣味としてのパイプも、オーディオも車もカメラも絵画も彫刻も、捉えるべきだという私の考えと編集部の考えが一致したからに他ならない。
私の彼女に対する質問の第一は、もっともシンプルで大きなものだった。私は彼女に聞いた。「あなたにとってパイプとは何ですか?」
「勿論私はパイプをつくる作業に大きな喜びを感じています。しかし、ただ私は一人で坐ってパイプをけずっている事だけに喜びを感じているのではありません。私は人と人生というものに大きな強い関心をもっています。生きる事の喜びは私にとって強い強い関心事です。そして、それは私自身についてだけではなく、全ての人々の生きる事に私は強い興味を持っています。私が精魂こめてつくったパイプ、つまり私の生きる喜びを、完成したパイプを通して、それを持つ人に伝えることができるという喜びがまた大きいのです。エゴイスティックな感情と思われるかもしれませんが、私にとっては、それが偉大な喜びの感情なのですから仕方がありません」。
一本のパイプは彼女そのものであり、その全てに彼女が全身全霊を打ち込んでいるのがよくわかる。そして、率直過ぎるほど率直に、彼女は、その喜びを人にわかち合い、人の喜びをまた自分の喜びとするという、ものつくりの心情を吐露しているではないか。
「ですから、私はパイプを通して、そのパイプを愛してくださる多くの人々と本当に心を通わす事ができるのです。私はパイプを自分自身の喜びのためにつくるのでもなく、お客様のためにつくるのでもありません。私は人間のためにつくるとしかいえません。コペンハーゲンの私のところへ見える方たちは私にとっては、王様も政治家も学者も、全て、その人の背景はなくなります。タイトルはないのです。ただ一人の人間です。裸の人間と人間との触れ合いを、私は私のパイプを通して味わう事ができるのです」。
私の第二の質問は、趣味というものは人間にとって何だと思いますか?
「趣味人生そのものです。人生は神から与えられたもので、人はそれを喜びとしなければなりません。趣味が暇つぶしだなんてとんでもない。人の生き甲斐です。パイプは趣味です。その人の生き甲斐の対象になるものです。どうして、いい加減なものをつくることができましょう。そして、生き甲斐を強く高める人が、どうして、いい加減なもので満足することができましょう。本当に自分の満足のできるものを求め、さがし、それを見つけた時に自分のものにしようとする。勿論、それを買う事は容易ではないでしょう。しかし、その目的のためにこそ、人は努力をするものです。一生懸命働きます。労働が、また、人に喜びを、生き甲斐を与えるでしょう。素晴らしいプロセスではありませんか。目的に到達する素晴らしい努力のプロセス、目的を完遂した時の裸の人間の喜び、まさに素晴らしい人生ではありませんか」。
目的を高く持ち、大きな努力をし、より大きな喜びを得る。彼女の意見は私が、常にオーディオを通して抱いている考え方と一致する。売らんかなの一点ばりで、最低必要限の機能をもったものを、低い感覚と、まずい技術と、いい加減な心構えで、少しでも安くつくる。そして、そんな程度のもので満足する目的の低さ。いいものは高いといって、自分には力がないと諦めてかかり、よりイージーに手に入るものだけを求める負犬根性。あるいは、ありあまる力がある癖に、お金を、それも数字の上だけで残すことにだけきゅうきゅうとして、ものを見る目も培かわず、喜びも知らずに一度しかない人生を無為に過す愚かな生き方。
天才児ラスムッセンの死後、彼女は、モーターバイクに乗って、あっちのパイプ店、こっちのパイプ店と走り廻り、パイプ修理の仕事を受けて生計を立て始めた。子供をかかえ、苦しい生活の連続だった。そして習い覚えたパイプ制作だった。今でこそ、亡夫、ラスムッセンが生前使っていた赤白マークをつけた、亡夫の作品に勝るとも劣らぬ作品を創り、認められ、コレクターの間では、それに数一〇万円の金銭を払っても惜しくないとする名作を生みだすようになった彼女の今日は、人生に対するひたむきな、誠実と努力が、その持前の素質と相俟ってつくられたものだ。その愛の精神も、努力も、才能も、その全ては神から与えられた彼女の人生であり、それを彼女が大切に生き続けてきた結果であろう。
彼女の来日中、テレビで彼女のインタビュー番組が放映された。その中で、インタビュアーが、二〇万円とか三〇万円という値段に驚いて、どうしてこんなに高いのですか? と聞いた場面があったが、彼女は即座に「私はちっとも高いとは思いません!」と一言で答えたものだ。その言葉の裏には並々ならぬ彼女の努力、一本のパイプに費やした苦労、長い時間、めったに得られないグレインやバーズアイなど木目の美しさへの自信が秘められていた。しかし、それより大切な事は、その一本のパイプに、人がいかなる価値を見出すかにある。私が親しくしている岩崎千明氏は、アンネ・ユリエのパイプは、ボウルの一平方cmぐらいの部分だけ見ても、その仕上げの美しさと独自性で、彼女のパイプだとわかるといった。私の部屋で彼女がパイプの仕上げをしているのを見たが、その忍耐と熟練した手仕事の見事さには驚嘆したものだ。その時、彼女はいったものだ。「私のパイプのデザインやアイデアは人が真似る事ができるでしょう。けれど、この忍耐だけは真似ることができません」と……。こうして磨きこまれたきめの細かさと、線とボリュームの豊かな味わいは、いかなる精巧な工作機械をもってしても不可能な心と生命力を表現するのである。
話しを趣味にもどそう。趣味の喜びがプロセスにあるという私の考え方に彼女は共感してくれた。私は常々、魚釣りを趣味とする人にとって、もし、その目的だけが喜びならば、釣人は魚屋へ走ればよい。釣りの喜びは目的以上にプロセスであり、その成果としての目的にこそ、より大きな喜びがあるのだということを何度も話し、書いてきた。オーディオのプロセスとは、自分の音への感性を磨きこみ、それを着実に装置の改善で追求し、メカニズムと音楽との関連を深く追求していく事にある。馬の耳に念仏、猫に小判のような、使い方も究めず、使う事もしない高級装置をただ所有することなどはナンセンスである。高級装置ならいい音で聴けると考えるのも単純過ぎる。高級装置というものは、使い手の高度な要求に応える可能性をもった装置であり、問題は使い手の技術と感性によることを忘れないでほしいのだ。パイプも同じである。いいパイプを手に入れる。プロセスも重要ならば、手に入れたパイプをいかに使い込み、そこに自分の感情移入をしていくかが、またきわめて大きな喜びのあるプロセスなのである。
「ごく一般のレベルでものをいうならば、ほとんどの人々は仕事に完全な満足と喜びを感じていないでしょう。これは不幸な事ですが、そういう人々にとってこそ、趣味が大切ではないでしょうか。そこにこそ、人は、100%生きることができるのですから」とも彼女はいった。そして、「人間からフィーリングを奪ってしまったら何も残りません。ただ煙草を吸う道具としてなら、機械でつくられたパイプで事は足りるでしょう。煙草を吸う事そのものも趣味ですが、そこにはさらに大きな趣味の喜びの世界があります。また、煙草を吸うという純粋な喜びの世界に、そのフィーリングを台無しにするような要素が入ってくることは許せません。人に無限の大きな喜びを与えるフィーリングの具現は神から与えられた天与の人間の才能と努力によって生まれるものです。機械づくりのパイプにはそうしたフィーリングを与えるものが少ないのです。あなたのご専門のオーディオの機械は工業製品ですから、この点は難しい問題がもっとあるでしょう。けれども、機械メイドでも、その技術を人間が、才能と努力で使いこなしてつくったものならば、同じようにフィーリングが生きるのではないでしょうか。機械が自動的につくり出すとしたら、フィーリングは生れないのではないでしょうか? 最高の作品というものは、人間を信じる人間、それも一人の個性で貫ぬかれたものではないでしょうか」。
私もそう思う。人間は人間がつくり出したものではない。人間よりはるかに次元の高い何ものか――そう、神といおう――が創ったものだ。機械は人間がつくり出したものだ。人間より機械が優れているわけではない。人間は機械を使わなければいけない。才能と努力は神のものである。才能のある人間が生かされない社会、悪平等化の社会からはいいものは生れない。才能のある人間は一人でできる仕事しかできないのか? だとすると、何の機械文明で、何の社会の合理化なのか? 人間の集団の組織力や機械文明の力が、人間の才能を、フィーリングを殺す方向に向けられていいものなのか?
アンネ・ユリエは多くの問題を投げかけて、デンマークヘ帰っていった。
(一九七四年)