私の趣味の一つにパイプがあるが、一般の方には間違った知識が伝わっているように思う。その第一はパイプ材として一番有名なブライヤー、つまり木製のパイプだが、このブライヤーはほとんどの人がバラの根だと思っている。これはおかしな話しで、おそらく明治時代の西洋文化をとり入れた頃の人が、間違って伝えたことが根強くいまだに残っているのだろう。ブライヤーというのはバラではなくて、ツツジ科の植物の一種でTホワイトヒースUの根である。これは主に地中海沿岸の北向きの斜面で採掘されるもので、非常に成長の遅い根だ。だから五十年はたっていないと使いものにならないというものである。あまりにも間違った理解が普及しているので念のため……。
 その他にパイプにはいろいろな材料があり、たとえばTメシャムUというものがあるが、これは海泡石(ほうせき)を削り出してつくったものだ。TコーンパイプUはとうもろこしの根を乾燥させてつくったものだし、TクレイUというのは練り物でつくったものだ。また、桜の木でつくったものなどもある。しかし何といってもパイプの材料として一番素晴らしいものはブライヤーだと思う。
 私がパイプを初めて吸ったのは大学時代で、その頃はパイプの葉が手に入りにくくて常時パイプを吸うというわけにはいかなかった。ただパイプを初めて吸ったときには、これぞ本当のタバコの味だと思って、以来パイプに対する愛情には捨てきれないものがあり、この十年くらいは、まったくパイプ一辺倒だ。葉もいろいろなブレンドのものが日本でも買えるようになったし、外国にいったときにいろいろなブレンドのものを買ってきたりしている。今日、喫煙ということは健康に害があるということで、だんだんその数が減っている。喫煙は益があることではないので、健康第一に考えるのであれば確かにいいことではない。ただ、世の中でいわれるほどにひどい害かというと、私はそうではないと思う。そのようなことをいえば、人間がこの世の中で楽しもうと思うことは何らかの形で体に多少害があったり、あるいは害も益もないというようなものといえる。タールというものが悪いということになっているが、パイプタバコは紙巻きではないので、ニコチンはあるがタールは出ない。健康に悪いということはたしかにその通りだと思うし、タバコを吸うマナーも大切なことだろう。タバコを好きな人もいる反面、タバコの嫌いな人もいるのだ。私はタバコが好きだし、ヘビースモーカーなので、ついついどこでもパイプを吸いたくなるのだが、私なりに一応は気をつかうことにしている。アメリカでもヨーロッパでも喫煙は許可をとって吸うということがいわれているが、そのような礼儀は自分の家以外では必要であると思う。
 私にとってのパイプは喫煙をするということだけではなくて、パイプそのものに高い関心があるわけだ。どうしてそのように高い関心をもつに至ったかというと、まずはパイプが難しいということである。パイプの味は素晴らしいが、私のように十何年パイプを吸ってきてもベストコンディションで素晴らしい味が味わえるのは月に一回か二回しかない。そこが素晴らしいわけだ。
 パイプにはベストコンディションであるときには、素晴らしいフレーバーが味わえるが、これにはいろいろな条件が無数に重なりあってくる。パイプのコンディションもあるし、パイプ自体の保守の状態、あるいは湿度など気候全般の影響、葉の状態など、さらに一番大切なことは葉の詰め方の問題などがうまく重なって月に一回か二回は非常にうまく吸えるときがあるわけだ。
 趣味というのはみんな同じだと思う。常にどうがんばってもがんばらなくても変わらないという性質のものは趣味になりえない。やはり条件が整ったときには素晴らしい喜びが味わえるが、これがイージーではいけない。そこにファイトを掻き立ててくれるものが必要なのだ。パイプタバコが、普通のタバコよりも趣味性が強いのはそこである。熟練を必要とするし、いきなり簡単に吸えるものではない。ロングスモーカーズ・コンテストというのがあり、一定のグラムのタバコで誰が一番長く消さずに吸っていられるかというものだが、これはパイプのスモーキング・テクニックの基本だ。パイプを吸うにはテクニックが必要だし、さらにテクニックだけではなく、自然条件に支配される部分もあるというところに、パイプが他のシガレットに比べて趣味性の高くなる大きな要因があるといえるだろう。つまり、努力に比例して得られる満足度が変わってくるのが絶妙なのである。
 音も同じであり、常に同じ状態で聴けるということはほとんどあり得ない。やはり機械といえども自然条件の影響を受けるし、温度が上がったり下がったりすれば当然カートリッジその他のダンパー系の条件は変わる。たとえばアンプリファイアーなどでもよく暖めないといい音がしないということがいわれるが、本来商品として考えると暖めないといい音がしないということは問題だが、現実に暖まったときの音の差はデリケートだが歴然とある。これは自分が求める音が明確な人にとっては大変に大きなことだ。そのようなデリケートな不安定さも魅力の一っになっていると思うのだ。
 タバコのような純粋な嗜好品はまさにそうだ。それに人間のコンディションが微妙に影響する。その他にも微妙な影響ということでは、パイプにはいろいろな形のものがあり、その形によって全部味が違う。マウスピースの形、厚さなどでも、唇にくわえた時の感触の違いも当然スモーキングの味が違って感じられる。ブライヤーのボウルの部分が肉厚のもの、あるいは肉薄のもの、全体にボウルが大きいもの小さいもの、浅いもの深いもので全部味が違う。パイプのタバコの詰め方も、一般には最初は赤ん坊の指、つぎが子供の指、最後に大人の指の力で詰める。つまり最初はあまり圧力をかけないで、つぎに中くらいの圧力をかけ一番最後に高い圧力をかけて詰めるのが一番いいというわけだ。簡単にいえばこうなるのだがそれだけではない。葉の向きであるとか、一つまみ、二つまみ入れるときの葉の密度のバランスなどすべてで味が変わってくる。パイプのボウルの中にいかに葉を詰めていき、どの程度の空気を入れてやりその火をもたせていくかということによって、味も変われば、同じ量のタバコを吸う時間も変わるという微妙さをもっているところに、楽しみがある。
 もう一つ大きなことはパイプという人間の作品に対する魅力である。ご承知のようにパイプは無垢のブライヤーの根っ子をパイプ作家が削ってつくり上げていくものだ。削ってつくり上げていくときにいろいろな考え方があるが、基本的にはブライヤーの目の美しさを生かして造形をしていく。自然のものだからすべて違うが、目にさからわないで、目にしたがって造形をしながら、かつそこに自分の個性を生かしてつくり出していくものだ。この単純で小さなものの中に自然と人為との微妙なバランスがある。もう一つは根っ子なのでパーフェクトな材料というのはない。ほとんどの場合虫がくって穴が開いていたり、ひどいときにはヒビ割れがしていたりする。それに目の状態もパーフェクトなものはなかなかない。パーフェクトな目というのは、日本でいう正目のことだ。完全にどの方向から見ても正目というものはほとんどないが、稀にはあり、そのようなものに出会ったときはつくる人間も非常に意欲をもやすし、できあがったパイプも美しく、しかも稀少価値がある。
 日本語の木目という言葉に相当するものにTバーズネスト、バーズアイUという呼称があるが、これは鳥の巣、鳥の目という表現だ。つまり正目を直角に切った断面のことで、大きいものをバーズネスト、細かいものをバーズアイといっている。これが全面をバーズアイという角度で、大きな根っ子からパイプのボウルをとるということも稀には可能なことだ。
 そのような木目のすばらしさも貴重な稀少価値として存在するし、現実に素晴らしく美しいものである。しかし私自身は、木目が美しいにこしたことはないが、木目のパーフェクトさよりも、人間の造形の魅力の方に価値を見出す。ただどんなに造形的にきれいで魅力があっても、木目を無視したようなパイプには興味がない。しかし自然のものであるので、どこかに乱れがあることは仕方がないだろう。できるだけ木目の美しさを生かしながら、しかもその人間の個性が十分に出たパイプが好きである。
 デンマークにパイプ作家の素晴らしい人たちがいる。私はブライヤーのパイプに興味をもってから、幸いなことにその人たちと大変親しくなることができた。現在の一番の大御所として、シックスティーン・イバルソンという人とその息子のラルス・イバルソンという人がいるが、シックスティーン・イバルソン氏とはずいぶん親しくさせてもらっている。また女流の作家でアンネ・ユリエという人がいるがこの人とは親しい親戚づきあいをさせてもらっている。そのパイプ作家たちといろいろな話をして得たことは非常に大きい。一つのものに秀でた人からは、私の仕事にも通じることがたくさん聞けるものだ。ブライヤー・パイプはハンドクラフトでつくるものだが、いまのものは量産が多い。イギリスのダンヒルをはじめ、アイルランドのピーターソン、デンマークのスタンウェルやイタリアのサビネリやフランスのコモイなどのいろいろなメーカーがあり、かなり合理的な量産システムでパイプをつくっている。もちろんその中にもいいものはあるが、量産といえどもデザインまでを機械がやるわけではなく、人間がプロトタイプをつくるのはもちろんだ。量産が必ずしも悪いとは思わないが、私にとってもっと興味があるのは、名匠の手造りパイプである。また、そのような人たちとの交流を通して、その人たちの個性の滲み出たパイプを、その人たちとの想い出とともに使うことにもたまらない魅力と愛着をもつ。
 木というものは生きているので、どんなに素晴らしいパイプでも使い方が悪ければ一度でだめになってしまう。そのかわり使い方がよければ何十年でも素晴らしい状態を保つ。むしろ新しいときよりもどんどん素晴らしさが増していく。ブレイクインがすんで、つまりブレイクインがすむということは、ボウルの中にきれいに適量のカーボンがついているということであり、その状態を保持して、いい状態で使いこんでいったパイプは、本当に素晴らしいものだ。
 パイプをただの道具として考えて、手入れもしないで、中の灰を出すときにはコンコンと灰皿に叩きつけてしまうような使い方をするかぎりは、パイプは不便で、やっかいなものだと思う。しかし、いま私が申しあげたように大事にパイプを使っていけば、そこに趣味の世界を発見できるであろう。
 私のところには、古いものでは二十年近いものもあるし、新しいまだまったく火のつけていないものもあるが、すべてのパイプに対して愛情をもって、たとえ一瞬のフレイバーであっても、その素晴らしい感動の一時を得るためにも、慎重にブレイクインして、手入れをしていくということを心がけている。このことはいいスピーカーを慎重に鳴らし込んで、五年、十年と使いこんでいくことに似ている。私はJBLのシステムを十五年使いこんできて、JBLの既製のシステムでは出ない音だと自負しているが、それにはそのJBLのスピーカーに愛情があったからできたわけだ。パイプもまったく同じである。
 それだけ愛情をかけて、じっくり長く使おうと思うから、最初にいいパイプであって欲しいわけだ。安価な、量産パイプでも素質がよくて、愛情をこめればよくなるとは思うが、やはり持つ人間に対してその気にさせるほどの魅力のあるパイプであれば、自然に可愛いがることになる。私が現在もっている中で非常に気にいっているパイプは数本しかない。その数本のパイプは、何年間もの間愛情をこめて使い、いい状態に保ったものだ。
 このように一つのものとつきあいながら育てていくという楽しみにはえにいわれぬものがある。シガレットを攻撃するのは悪いが、火をつけてそのまま捨ててしまうのでは、愛情をもつ余地がない。またシガレットの葉を紙をはいでパイプにつめて吸ってみたがひどいものだ。シガレットを吸っている人には悪いが、あれならば吸わない方がいい。つまり健康に悪く惰性で吸っているケースが多いので、充実した嗜好品としての次元の高いフレイバーはないと断言してもよい。嗜好品というものはなくてもすむものだ。タバコの場合は健康に害があるのだからむしろない方がいい。しかし、それでもなおかつ吸うというのは、人間の幸福な喜びのために吸うということになる。そうであるならばいい加減な代用品で間に合わすということは好ましくない。名前からしてシガレット、つまり簡易シガーということだ。そんなものならば、私は嗜好品としてはやらない方がいいと思う。やる以上はパーフェクトなものにすべきである。
 日本ではパイプを吸っていると生意気だという風潮があるようだ。会社づとめの人は生意気に見えるらしく、現実に上司から注意を受けた人もいる。それも喫煙として注意を受けるのではなく、どうもパイプは生意気に見えるということだが、このような考え方は情けない。私はタバコを吸うからには、もともと害があるものなのだから、最高の楽しみを得なければ意味がないと思う。だからタバコを吸うのであれば最高のパイプを楽しみなさいといいたいのである。シガレットはオーディオの世界でいえばラジカセのようなものだろう。ところがラジカセは害がないからいいが、シガレットは害がある。できれば昼間は吸わないで家に帰ったときだけパイプを楽しむというような、本当の嗜好品に徹したほうがいいのではないかと思う。
 私はリスニング・ルームで、自分の思ったとおりの音が出て、自分の大好きな音楽を聴くときにどうしても吸いたくなる。そのようなときにかぎってタバコがうまく吸える。詰め方もきちんとやり、火をたっぷりつけて、ゆったりと吸うときの幸福は何ともいえないものだ。人間というのは、二度とない人生の瞬間を豊かに生きることが大切であるし、嗜好品文化をエンジョイすることは、人間に与えられた大切な喜びである。そのような形で味わうことはいいのではないかと、禁煙ブームの中で、一人でがんばって毎日パイプをくゆらせているわけだ。
 私はいままでにずいぶんと、期間を区切って禁煙している。たとえば一日禁煙したり、長いときには半年とか一年ということもあるが、これはタバコをやめようと思って禁煙するのではない。白紙に帰して、あの初心のおいしさを味わおうということで禁煙するわけだ。音楽でも同じだが、常に飽和状態にしておくことはよくない。やはり飢餓状態にしておくことが必要だ。朝から晩まで音楽を聴いていては感受性がにぶってしまう。食物でもしかりだ。だからタバコがマンネリになったと思ったらやめて、それもできるだけ長くやめる。何についても自己規制は必要であり、自分の感受性のゼロバランスを戻す努力をすべきだと思う。
(一九八二年)