オーディオの話をする時に、よく喩えとして引き合いに出されるのが写真である。片や音という姿形のない抽象的なものを対象としているオーディオ、片や映像という明確な具象的なものを相手としている写真。この二つは、この点で根本的に異なるのだが、いずれもが、メカニズムを使って記録再現するというプロセスがよく似ているし、抽象と具象という違いが、かえって抽象を説明するのに、より容易な理解が得られる具象の引用という点で、説明の材料としては好都合ということになるのであろう。
 たしかに、この両者の間には、いくつかの共通点がある。根本的な相違点があるからかえって好例なのだ。映画もそうだ。印刷もそうだ。つまり、これらの作品の世界に共通するものは、全てメカニズムを使ったコピーという点においてである。このコピー芸術と呼んでもいいような独自のジャンルは、明らかに現代の機械文明が生んだ新しい世界であって、多くの興味深い問題を我々に提起している。
 中でも、もっとも認識の遅れたものがオーディオで、録音再生というメカニズムを通した音楽の世界が、一つの独自なジャンルであることが認識されだしたのは、ほんの最近のことであることはむしろ驚きといってもいい。つい数年前までは、音楽畑の人も、オーディオ畑の人さえも、ましてや一般の人たちは、この問題の明確な認識を持っていなかった。そのためにオーディオが、録音再生両面で、どれほど写真や映画からすると遅れをとり、つまらない議論に無駄な時間を費していたかわからないのである。好むと好まざるとにかかわらず、これらコピー芸術の世界においては、そのプロセスを担うメカニズムの特質や性能が、きわめて重要な役割を果たすものである。その存在を無視したり嫌ったりすることは、根本的にこの世界を否定することになるのだから、メカニズムに対する知識や愛情を持つことは絶対不可欠といってもよいのである。
 一方、メカニズムに対する考え方としては、あくまで、目的はメカニズムそのものにあるものではないことを知ることも重要だ。だから、ひと頃のように、音楽は、生の演奏だけが音楽の真の姿であって、機械を通したものはその代用品であるという考え方は、レコード音楽から得られる純粋な音楽的体験を害する考え方であるし、機械の性能に無関心、無知ということは、これまた、レコード音楽を十分に生かしきれないことにつながるから、決して好ましいことではない。ましてや、レコードを評するという立場の人が、メカニズムをいい加減にするということは、根本的にレコードを評する資格がないといっても過言ではなかろう。オーディオの知識をもたずにレコードを評するということは、このコピー芸術というものがもつ特質の理解なしに、レコードと生の演奏を直接結びつけて評するという、きわめて幼稚な短絡を犯していることであり、それは音楽評論(それも重大な過ちを犯しやすい)ではあっても、レコード評論にはなり得ない。その姿勢でのぞむかぎり、メカニズムのプロセスは全てネガティブな要素、あるいは、好ましからざる夾雑物ということになるわけで、レコードを否定する姿勢でレコードを評するという恐ろしい問題ではなかろうか。舞台演劇と映画とを同列に並べて評するのに似た乱暴極まりない話ではないか。実演ではあり得ないことだといって、映画の特殊性による演出や演技を否定するがごときことが、レコードの評には今でもよく見られるのである。
 これはただ、単に批評の立場だけではなく、演奏をする音楽家についてもいえることなのである。舞台での演技を、ただ一ヵ所にカメラを据えて全体を記録することだけがよい映画だという人はおそらく一人もいないだろうが、録音の世界では、そうした考えが今でも堂々とまかり通っているのである。昔、何代目か忘れたが、菊五郎が初めて映画に出演した時の話を何かで読んだ記憶があるが、この歌舞伎の名優は、さすがに「私は映画の世界では大部屋の俳優さんたち以下の素人であった」といっているのである。これがそのまま録音の世界にあてはまるなどという無茶をいうつもりはない。しかし、レコードにはレコードの特質があるのだから、根本的には共通した問題があると思う。オーディオの世界で写真や映画以上に認識が遅かったというのはこのことで、音楽家も、録音制作者も、それを聴く人も、それを評する人までもが、実際の演奏とスピーカーから出る音楽とを恐るべき単純無知と短絡で同一視してきたのである。
 レコードを買って聴く人たちのなかで、オーディオに特に関心の強い人たちは、さすがに、この点について熱意ある姿勢を見せてきたけれど、それでも、ずいぶんおかしな誤認識をしていたようだ。例えば、レコードから生そのものの音が出せることを信じ、ただひたすらに再生周波数を拡大したり、やたらにスピーカーをたくさん使って、元のモノーラルから立体音を得ようとしたりしたのである。レコードというものは、写真に喩えていえば、撮影ずみのネガ・フィルムのようなもので、フィルムを使って焼き付けたり、引き伸ばしたりしてつくる印画紙は、いくら大きくしても、シャープにしても、コピーはコピー、フィルム以上のものにはならない。しかし、一方、いい加減なレンズを使って引き伸ばし、ぼけたピントをつくり出したり、印画紙の選択や現像時間をいい加減にして、せっかくフィルムに記録されている豊富なグラデイションを殺してしまっては、写真が台無しである。つまり、写真はあくまで写真、そして、その写真としての最高の条件を整えて仕上げ、鑑賞することこそ、本来の姿勢があるということだ。いうまでもない、レコードはあくまでレコード。そして、それを再生する条件を正しく整えてこそ、レコードは、そこに収録された豊かでデリケートな音楽の姿を再現し、高度な鑑賞に耐えるものになるのである。いくら素晴らしいフィルムを買ってきても、密着か、時には縮少のような印画紙をつくったり、あるいはピンボケの化物のような大きな引き伸ばしの印画にしたりして、その撮影者や被写体を評価するナンセンスが、レコードの世界にはありすぎる。与えられたネガから、その人が正しい知識と豊かな体験と、優れたセンスと、優れた機械で立派な印画をつくってこそ、そのネガが生きるのではないだろうか。さらにそうして出来上がった素晴らしい風景写真を、現実の被写体となった風景と比較して云々することがなんになるのだろう。くり返しいうが、これはあくまで喩え話だから、そっくりオーディオに当てはめられて、屁理屈をこねられては困る。私が意図していることは、認識への一つのヒントであるにすぎない。音楽の演奏と録音、そしてその再生には写真とはまったく異なる要因や条件がもちろん存在するのだから……。
(一九七四年)