レコード音楽の歴史はすでに1世紀以上になる。私がレコードに親しむようになってからでさえ、もう半世紀以上が過ぎた。この間レコード音楽とオーディオは、世界各国で目覚ましい発展を遂げ、文化、経済の両面で果たした社会的貢献度は、はかりしれないほど大きい。にもかかわらず、レコードとオーディオへの理解と価値観が、その発展にともなって高まっているとは思えない。それどころか、むしろ逆に低下しているようにさえ感じられるのである。レコードやオーディオ機器を広く普及させることは良いことだが、いっぽうにおいて、安易に低品位な音や音楽を大量にばらまくことが、あまりに日常的になり、その価値を下げることにもなっているのは困ったことである。
そこで、ここにレコード音楽とオーディオの本質を再考することで、あらためて、この現代のメディア・アートの認識と価値観へのご参考に供したいと思うのである。
ところで、はじめから、少々下世話な話で恐縮だが、世間一般では同じ現代機械文明が生んだメディア・アートである写真の制作者を写真家と呼ぶようになって久しい。いつのころからかは記憶にないが、たぶん、第2次大戦直後のころからであったろう。しかし、レコードの制作者は、今でも録音家や録音制作家、あるいはレコード制作家などとは呼ばれていない。
かつて、ステレオサウンド社が、クラブ員に頒布するために制作したステレオサウンド・リファレンス・レコード第6集、第7集を「名録音家シリーズ」と題し、フィリップス・クラシックスの制作者であるウィルヘルム・ヘルヴェックとオノ・スコルツェ、そしてフォルカー・シュトラウスの録音作品を特集したが、この「録音家」という耳慣れない言葉に不自然な感覚をもたれたという読者がおられた。わが国では録音技師、ミキシング・エンジニア、あるいは簡単にミキサーなどと呼ぶのが一般的であることはご承知の通りである。昔、私が録音制作を本業としていた1960年頃、音楽に直接影響のあるこの仕事が電子工学系の専門職とされている考え方と感覚が問題だ、と発言して周囲から顰蹙をかったことがあるが、当時は音楽家の中にも録音技師を電気工夫などと陰で呼ぶ人もいたほどで、こう考えたのは私だけではなかったはずだ。もう4半世紀以上も前のことである。写真家が光学系や精密機械工学の専門家である必要はまったくないし、事実、そういう人達の専門職ではないのに、録音の世界は、なぜこうも電気機械技術偏重で、音の感性や音楽を軽視するのか? 私にはどうしても納得がいかなかったのである。
これを、ただの社会的慣習による職業名として片づけるのは簡単だが、録音再生音楽への不当な価値観と誤認識の端的な現われと言えるのではないだろうか。現在では、だいぶ状況が変ってきているとは思うが、しかし、この仕事の専門家を「録音制作家」「レコード制作家」と自他ともに呼ぶ人は残念ながらまだいない。
これにはレコード、放送、映画などの音響技術や産業の発展過程の長く根深い歴史的理由がある。その概略にだけでも触れておかないと誤解を招く危険性があると思われる。
今もその傾向はあるが、昔のように技術や産業のプリミティヴな発展段階にあっては、特に、各企業は録音機器設備に関して独自の設計や改造とメインテナンスによって少しでも品位の高い音質を得ることを最重要視していた。録音設備も今では想像できないほど大がかりで特殊なものだったし、当時の最先端技術でもあり、専門技師以外の手に負えるものではなかったのである。一般の生沽の素朴さと考え合わせれば、それらの機器を使うということが、いかに特殊な専門職であったかは想像していただけるであろう。そして今のように、ソフトのエンジニアとハードのエンジニアというカテゴリーは無論のこと、その区別の概念もなく、レコードを制作するということはこれらの機械を操ることであった。いわば、制作ではなく、製作、製造と書いたほうが適していた時代が長かったのである。したがって、録音機器の設計製作と、それを使う制作という仕事が同じ技術分野として認識されていたとしても無理はないかもしれない。当時は演奏家と技師でレコード創りの仕事は成り立っていて、音楽性までとやかくいう余裕はなかったとも思われる。その後、技術の進歩で徐々に音質改善が進み、録音の音楽的側面や効果などが問題になりはじめ、仕事も複雑多様化するにつれて、録音の仕事は専門分化していく。商品企画面や音楽的な側面の担当者が技師と組んで仕事をするようになるが、これが今のプロデューサー、ディレクター、ミキサー(最近ではバランスエンジニアともいう)などと呼ばれるようなレコーディングスタッフ制に発展する。オリジナルレコーディングの完成後はエディティング、マスタリングなどのスタッフもいることは本誌の愛読者なら先刻ご承知の通りである。録音エンジニアリングにおけるハードやソフトの概念が広く定着したのは、ここ15〜20年ぐらいのことであろう。25〜30年ぐらい前までは古い体質であったのも仕方がなかったかもしれない。
しかし、急速な機械文明の発展が、今や十年一昔ではなく一年一昔の時代と言われるほど加速した。当然、レコード音楽とオーディオにも旧態然とした観念は通用しないようになる。ところが、いまだに世間一般ではカン詰音楽などと言われた昔の観念のまま、レコード音楽をせいぜい実演奏の追体験か疑似体験としか考えていない人が多いのは嘆かわしい……。
この認識の誤りを演劇の世界にたとえれば、劇映画を舞台の追体験や疑似体験と考える非常識さに通じるものだと思う。無声映画時代ならともかくも、今日、映画に関して、こんな無知蒙昧が通用しないことはいうまでもない。だが、残念ながらレコード音楽に関してはこれが普通の理解、つまり半世紀も前の常識のまま定着しているのではなかろうか? これはメディアを原作の複製としか考えなかった時代の古い思想である。当時としても、これが正しい考えであったかどうか? 私は疑問に感じるのであるが、その固定観念と既成概念から、今も一歩も出ていないのは不思議なことである。ほとんど現実に目を瞑ったままであり、不勉強過ぎる。残念なことに、関係者や専門家の間にさえ、これ以上の認識と価値観を持つ人が少ないことを感じるのである。すでに述べたように、長年にわたり原音の忠実な記録再生という技術的目標だけを価値判断として発展し続け、機器やテクノロジーに支配され続けてきたことが、旧態然とした観念の続いた理由の一つであろう。
しかし、こうした問題意識の遅れの底辺にある根本的原因は、一般の人々の音に対する聴覚的な美感覚の問題だろう。つまり、大多数の人は、視覚の対象である具象に較べて、聴覚の対象の音という抽象には無意識で無関心なのである。認識能力の点で、抽象は具象より弱いために聴覚的感性が洗練されないという、大方の人間の属性のためと思われるのだ。色に対する一般の人々の日常的関心や理解の程度と音へのそれを較べてみれぱ、このことが明確に現われていることが解るであろう。
さて、どんなに優れた機器や物理特性も、それはトゥールと手段にすぎないことは今さらいうまでもない。優れた録音にとって肝心なことは、制作者の知的感性と豊富な経験、そしてセンスである。音楽作品と演奏への理解と解釈に基づく録音思想、そして、体験を積むことによってのみ培われる熟練の技である。トゥールと手段は目的に対する的確な手法によらなければ活きないし、逆効果の危険性もある。高価で高性能なカメラやアクセサリーさえ使えば、即、優れた写真が撮れるわけではない。だが、意外にも世間では、こんな、あまりにも単純で幼稚な誤解が、いつまでたっても一向に改普される様子がないとは思われないだろうか? 表面では解っているように見えても、その実、使用機器の物理特性や銘柄だけで作品の価値を判断する専門家やアマチュアのいかに多いことか!
こんなわけで、私が、かつて顰蹙をかった30年前の発言は、過渡期にあたる時期であったからともいえるであろうが、明らかに映画や写真などの世界より制作という意識が低かったのである。そして、それらがいまだに尾を引いているのを感じざるを得ないことも、残念ながらまた事実なのである。この一文に共感していただけるならば、録音に携わる人間は明日から誇りを持って「録音家」を自称、あるいは目指し、問題意識と高い理想、そして誇りを持ってていただきたいものである。
ところで、ここ20年間、私は昔のレコード制作に代えて、評論の仕事を中心にするようになり、以前にも増して、レコード音楽再生の世界に没頭するようになった。必然的に、レコード音楽とオーディオの諸問題についてあらためて考え直した結果、「録音は再生によってのみ完結する」というごく当たり前の命題の中に、再生の自由と責任の大きな意味と、レコード音楽のメディア・アートとしての特質を明確に認識するに到ったのである。以下に述べる「レコード演奏家論」は、録音制作の仕事をしていた時代の問題意識がヒントとなって生まれた、現在の私のオーディオ観である。お断りしておくが、ここで私が使う「レコード」という言葉はCDなども含めた一般ユーザーが音楽鑑賞に使う記録メディアあるいは再生装置のプログラムソース全体の総称であって、LPレコードなどの特定のブラックディスクだけを意味するものではない。「レコード」という言葉は、CDに押されて徐々に使われなくなっているようだが、本来「録音」という意味の一般名詞からきたものであるから、CDなどといういわば登録商品名より本質的な言葉として普遍性があり、時代や流行を超えて広く通用すべき言葉であると考えるものである。
さて、ステージのコンサートで、1000人の聴衆が同時に聴く音楽と音響には、千人千通りの感受性による知的感性的理解があると思われる。もちろん、それら個人差による違いを確認する方法はないが、もし仮に、各人の頭の中に響いた音と音楽を正確に再表現してもらうことが可能だとすれば、1000通りの音と音楽が鳴り響くはずである。愚にもつかないような想像だが、これを馬鹿らしいと一笑にふされる方はこれ以後は、お読みいただくのは無駄である。
ほとんどの録音制作者は、演奏家の音と音楽を忠実に録音しようと心がけているはずである。そしてオーディオ愛好家も、プログラムソースを忠実に再生しようとしているはずである。生の音のすべてを収録すべく、あるいはレコードに入っている音のすべてを細大洩らさず再生するために、双方ともに、より優れた機器を求め、最大限にそれらを活かす使い方に腐心しているはずである。では、双方にとって、はたして、音と音楽の忠実な録音再生は、どの程度可能なのであろうか? 物理的な音の忠実性はどう確認できるのだろうか? レコード音楽の理想的な録音再生とは、どうあるべきなのか? その実態はどうか?
たしかに、レコード制作の現場では、録音再生の時空との隔たりが小さいので、厳密な意味でなければ、生音との比較も可能だ。また、共通のモニタースピーカーとモニタールームで、瞬時切換による録音前と録音後の比較も可能だから、変換伝送系全体を含め、音の近似性を確認することがある程度は可能である。
しかし、家庭でのレコード再生は、そうはいかない。この時空の隔たりが無関係といってよいほどだからである。そして、いうまでもなく、この時空の不一致は動かし難い現実であるとともに、これこそが録音再生機能の存在基盤であり、メディア・アートの特質そのものである。
録音再生の物理的忠実性の論理は、録音再生空間の双方を、あるいは少なくとも再生空間を完全な無響空間と規定する以外には成り立たないのである。録音空間だけが無響空間である場合には、再生時に再生空間の響きが加わるから忠実性の論理は成立しない。また、時空の隔たりの小さい同一空間での録音再生でも、そこが有響空間であれば間接音が重なるので、相乗効果が問題となり、論理は不成立なのである。
つまり、論理的に忠実な録音再生音が成立するには、変換増幅系の物理特性とは別に、時空的条件が必須であり、録音条件より再生条件が重要な意味をもつことが解る。そして、その必要最小条件は、既に述べたように再生空間が完壁な無響空間であることである。しかし、無響室とまではいかなくても、それに近い条件の部屋でさえ、残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることはいうまでもない。とても音楽を楽しめる空間ではないし、日常の生活空間でもないことは、万人の認めるところである。そして、言うまでもなく、レコード音楽鑑賞やオーディオの大前提は家庭での音楽鑑賞であるから、録音再生音の物理的忠実性が論理的にも現実的にも成り立たないことは、これで明白であろう。
次に音楽的忠実性についてだが、録音制作の現場では、制作者はもちろんのこと、演奏家の確認を得ることが出来る。モニタースピーカーとモニタールームにおいて録音制作家と音楽演奏家が同時に再生を聴いて、両者のコンセンサスで決定されるのがレコード制作の普通の姿である。しかし、うるさい演奏家の中には、コピーを持ち帰り、自宅で判断するとして、答えを保留する人もいる。これが厄介で、演奏家がオーディオに無関心であったりすると、自宅のラジカセかミニコンで聴かれるのである。これは演奏上のチェックなら出来るかもしれないが、音質やバランスとなると、再生装置の問題が大きく影響することは当然で、これが音や音楽の総合的な印象の違いとならざるを得ないことは読者がよくご存じの通りである。しかし、これはメディア制作家当事者たちによる再生演奏であるから、鏡で自分を見るようなもので、この際大きな問題はない。自己陶酔型と自己嫌悪型に分かれるのが面白いが、いずれにしても自己責任の問題だ。これは余談であるが……。
さて、これが個々の愛好家による再生音楽の場合では、演奏家も制作家も全く関与出来ないのが普通であるから大問題となるわけだ。結論は、再生する人の解釈次第ということになって、望むと望まざるに関係なく、ここにこそ、レコード音楽の独自性と特質が在在することになるのである。そして、先に述べた千人千通り説により「再生の音楽的忠実性は責任ある自由であり再創造である」と言わざるを得ない個性的解釈による演奏の世界が生まれることになり、再生音楽芸術の創造的領域として認識せざるを得ないことになるわけだ。そして、この録音再生音楽の不可避な物理的非忠実性を否定するのではなく、これを、新しい独自性をもった音楽芸術カテゴリーとして肯定的に捉え、考え、再創造行為として価値を認め尊重したいと考えるべきではないだろうか。「レコード演奏家」と呼べる人々は既に大勢存在するが、これは、その実証論でもある。
以上のことからも、レコード音楽愛好家としては「忠実な録音再生」を「美しい録音再生」と考えるほうが自然で意義が深いと考える。ただし、それは決して勝手気ままな独りよがりの再生をもってよしとするものではないことは言うまでもないことだ。あの哲学者のカントがいうように、芸術であるからには、ただの感性の遊びではなく、そこに悟性的秩序の存在がなくてはならない。好き勝手な感性の遊びだけに終始しているものを彼は芸術とはいえないといっているのである。そこで私は考えた。カントのいう悟性的秩序にあたるものとして、現代科学をもって当てることでは不足であろうか? と。レコード音楽にとってのオーディオ・テクノロジーとその体系的知性をそれに当てるのは無理であろうか? 「レコード演奏家」の音響学理論に基づく技術と物理特性尊重の姿勢は、ただの感性的遊びとは違うのではないか? と。オーディオは個人の好き勝手の嗜好だけではなく、この秩序が保たれてこそ、豊かな趣味の花も咲くであろうし、メディア・アートのアイデンティティが確立するはずだ。ことのついでに言及させていただけば、この悟性と感性という条件を相互的に満たす道具としてあるべきものが真のオーディオ機器と呼べるものだと考える。ただ、音が出る粗雑な安物にはその資格はあり得ないと言いたいのである。音やデザインなどの感性は大切だが、それのみに偏った遊びだけでは軽薄である。
物理的忠実性は、芸術制作における純粋と謙譲という概念とは矛盾しないと私は考える。そして、人が芸術の再創造において、対象に忠実たらんと努力すればするほど、その人の感情移入と感性が投影される結果、個性が発揚されるものだとも信じている。軽率に恣意的に何かを独断的になすことは、決して謙譲でも純粋でもない。楽譜に忠実たらんとする演奏家の努力のように、音楽の教養とオーディオの技術知識のバランスを培い、理想を追及する謙虚な姿勢が大切だ。その姿勢が鋭い洞察力と判断力を備える審美眼(審美耳というべきか?)と相俟って、正しく美しい再生音を実現し豊かな音楽表現を可能にすると実感している。
あえて誤解も覚悟の上でいえば、このような考えと姿勢を前提として、真摯にレコードを演奏する人にとってのプログラムソース(アナログディスクやCDなどのメディア)は、クラシック音楽演奏家にとっての楽譜に限りなく近い存在である。楽譜もレコードも記号や信号の記録物で、それ自体は音楽ではない。そこから音楽の生命を蘇生させるのは、これを音に変える演奏家によって可能になる。演奏家が楽譜を忠実に音に変えるべく、技術の錬磨に努力することはもちろんだが、正確な演奏であるだけでは人を感動させることはできないものだ。私が今までに逢った名演奏家と呼ばれるほどの人たちは、皆、楽譜を通して作曲家の精神までを洞察し表現することに努力するべきだと語った(ステレオサウンド誌118号の拙稿、現代モニター論中、87頁の記述を参照願いたい)。そして、真摯な「レコード制作家」は、最高の演奏が生まれ得る環境と物理的な条件を整え、その演奏家の音色や音の造形はもちろんのことであるが、その心までをも伝えようと努力するものだ。そしてまた、真摯な「レコード演奏家」も、最高のレコード演奏が生まれ得る環境創りに努力することが生き甲斐の趣味人であるし、そこに留まらず、作品の魂に触れて感動することを求めてレコードを演奏する人達である。
また、従来からのスピーカー楽器論とは違う意味で、レコード制作家にとっての録音機器とレコード演奏家にとっての再生機器は、音楽家にとっての楽器にもたとえられる存在であろう。私は、過去、楽器に無関心で「弘法筆を選ばず」を決め込んでいるプロの演奏家という人には出合ったことがない。同じように「レコード演奏家」がオーディオ機器にこだわるのは当然なことであろう。
頭からレコードは嫌いだというのならまだしも、自分は音楽的イマジネーションで聴くから機械はどんなものでもいいなどと、得意げにいう人がいるが、実際は、自ら、音に無知無関心、無感性の証明をしているようなもので、恥さらしな発言であることを自覚して欲しい。
作曲家が、一度楽譜を出版すれば、そのすべてが時空を越えて無数の演奏者の手に委ねられるように、レコードはすべてのレコード演奏者の手に委ねられるのである。誰がどこで、どんなスピーカーで、またどんな音色や音触、そして、どのくらいの音量でその音楽を奏でるのかはまったく解らない。再生機器の種類だけでも千差万別である上に、音量、音色、バランスという音楽にとって重要な表現要素さえも、再生時に自由にコントロールできるのが現代のレコード演奏である。
演奏会の聴き手にとっては、そうはいかない。ただひたすら受け身の姿勢で静粛に音楽を聴くだけである。だからこそレコードは嫌いなのだ……好き勝手な音で聴かれてはたまらないではないかという、生の演奏至上主義の人々も当然いる。しかし、そういう人々、特に演奏家や制作家の場合は、その了見は狭過ぎるし傲慢過ぎると私は思う。そんなことを言うのなら、作曲家のことを考えてごらんなさい。先に述べたように、作曲家にとっては、初演する人ぐらいは解っても、後世、誰が演奏をするかは、皆目解らないのである。そして、もし、そういう了見の狭い人自身の演奏が、仮に作曲家に否定されたらどうする? 作曲家の自作自演がベストであり、それ以外の演奏を否定することにも通じる貧しい考え方であることを知るべきである。ここで、こういう考えを持っている人々に是非、お読みいただきたい逸話をご紹介しておこう。
以下は、D・ウルドリッジ著、小林利之訳「名指揮者たち」(東京創元社刊)の序文にある往年の大ピアニスト、ウィルヘルム・バックハウスの語った興味深いエピソードのひとつで、ブラームスのクラリネット五重奏曲ロ短調をブラームス自身が聴いた時の話として書かれているものである。
「その演奏は非常に優れたもので彼はすこぶる満足したらしく、友人たちにむかって、これこそ私の意図したとおりの演奏だと言明した。ところが、それからしばらくして今度は別の演奏家たちによる演奏があった。それは前の時の演奏に比べて、まったく異なる解釈を示したもので、たまたま双方の演奏会に出席した友人たちを当惑させたほどであった。しかし、ブラームスはこちらの演奏に対しても歓喜の表情で満足の意を表したのである。驚いたのは友人たちだ。これほど相違した二つの演奏のいずれにもブラームスが満足して、同様に完璧な解釈だと絶賛しようとは考えられなかったからである。
いぶかしげな友人たちの問いに答えたブラームスの言葉はこうであった。どんなに違った解釈であろうと、どちらも最高の出来ばえといえる演奏であり、いずれの場合も、演奏家たちは作曲家の意図を深く洞察し、それを伝達することに心魂を傾けていた。(以下省略、句読点ともに原文のとおり)」
いかがであろう? 私はこのエピソードを読んで、膝を叩いて共感を覚えたものであった。作品とその解釈についての私の考えと、まったく通じるものであったからだ。繰り返すが、ステージ音楽鑑賞とレコード音楽鑑質は、大きく異なるものである。そしてそれは価値の優劣や、良し悪し、好みなどは関係なく、たとえ、それが演奏会のライヴレコーディングであっても、一度メディアになって聴き手に渡ったら、独自の音楽作品として自立するものと考えるべきであろう。レコードとはそういうものである。それを追体験の手段や疑似体験の道具に止めるのは勝手だが、あたかも写真の世界を記念写真の機能に限定するようなもので寂しいことである。
たしかに演奏会には演奏会ならではの、演奏家と時空を共有する音楽的感動と、貴重な至福の一時がある。音楽の美的価値判断の基準としても、私自身にとっても、それは大切な存在となっている。しかし、それだけを「本物の音楽」だとする考えでは、今や寒いし、過去のものであり、狭量過ぎると言いたいのである。今は録音再生演奏が独自の創造的音楽を可能にして、スピーカーから奏でられる時代なのである。伝統的正統性が重んじられるクラシック音楽の世界においても、演奏会より美しい音や、音楽的に理想的なバランスが得られることも珍しいことではない。ステージではありえない演奏の可能性も開ける。さらに、演奏家にとって、聴衆のいるステージだけが唯一最高の理想的な表現の場ではないことは、もう旧聞に属するグレン・グールドの論文、「コンサート・ドロップ・アウト」を例に出すまでもないであろう。むしろ、録音のほうを理想的な環境とする演奏家も増えている。
多くの若い演奏家は、もはや、レコードを演奏会の追体験などとは考えていない。中には、指揮者のチェリビダッケのように、録音嫌いで、レコード音楽を認めないような発言をする人もいるが、それを主張すればするほど、かえって、ステージ音楽に対するレコード音楽の独自性を強調してくれているようにも受け取れる。昔のことだが、指揮者のピエール・モントゥーは、録音は好きですか? という問いに対して「好きだよ。録音はお金がもらえるからね」といって周囲の人々を笑わせていたことを思い出す。このマエストロ一流のおとぼけだ。また、「いくら楽譜を見ていても音楽は聴こえてこないよ」と言いきって、私を驚かせたのもこの老大家であった。こういう、音楽の神様のような人は、スコアを見れば頭の中に音楽が鳴り響くのに違いないと信じていた当時の私にはショックであったが、同時に安心もした。楽譜を見て、脳でイメージする音楽と、音によって聴覚を刺激され、脳でイメージする音楽とは違うようである。私が先に書いたように「楽譜もレコードも音は出ないし、それ自体は音楽ではない」と断言できるのも、このマエストロ・モントゥーの言葉のおかげである。音が出て、空気が動いて初めてそこに音楽が実在する。
ところで、この「レコード演奏家論」は私自身の体験と観念のまとめであることはいうまでもないが、この考えの客観的確証となったのは、ステレオサウンド誌の1982年・64号以来、今年で15年目になる連載「ベスト・オーディオファイル訪問」の読者取材で接した200人以上の真摯な愛好家との出合いであった。北は北海道から南は沖縄まで、全国のあらゆる年齢層と職業のオーディオファイルの方々と親しく語り、その音を聴かせていただくという貴重な体験であった。なかんずく、私のこの考えの裏づけとなったのは、多くの方々のお宅で聴かせていただいた、私自身の録音したレコードの演奏であった。沢山の方々が私の訪問を歓迎して演奏してくださったのであるが、その再生音と音楽表現の多彩さには、その都度、新鮮な刺激と発見があって刮目したものである。それぞれが個性的で、まことに興味深いレコード演奏であった。こういう方々に接していると、敬意をもって自然に「レコード演奏家」と呼ばずして他になんという呼称があるのか? という気持ちになったものである。もちろん中には、好ましくない演奏もあった。しかし、録音した本人も納得せざるを得ないような普遍性をもつ素晴らしい再生演奏を聴くこともできた。また、初めは違和感を感じても、聴き進むうちに予期せぬ魅力の虜になった想像を超えた新鮮さを聴かせる演奏もあった。これらの数多くの得難い体験こそが、この「レコード演奏家論」の提唱を、確信をもって私にさせることになったのである。
RECORD PLAYERとは機械を指す英語だが、そのままレコード演奏家と訳しても間違いではないだろう。しかし、それを使う人こそが重要な存在で、今後は、機械と人の両方の意味にしたいものだと考えている。オーディオ愛好家諸兄は、今後、ぜひ「レコード演奏家」を目指して、自認出来るようになって欲しい。
先日アメリカのスピーカー・メーカーのJBLの社長をはじめ、各技術部門の責任者5人にこの考えを話したところ、全員から大いなる共感をもらった。そして、彼らに、レコード演奏家を英語ではなんと訳すのがよいだろうかと質問したところ、それは《Recod
Music Player》だ、ということになった。
終わりに、機械が介在した音楽は、すべて冷たく、非人間的で無味乾燥なものと、頑固に決めつけている人についても一言。ちょっと聞くと、その意見は、機械に振り回される、人と文化に対する痛烈な文明批評とも取れるのだが、よく聞くと、たいていは、無知で盲目的な「食わず嫌い」がアレルギー症状を起こしたようなものである場合が多い。こういう人は、レコード音楽を追体験や疑似体験と決めつける人以下の価値観の持ち主としか言えない。どうも、これが、音楽家や物見高いコンサートゴアに多いことが、まことに残念である。両方楽しめればもっと幸せなのに! こういう人は、早く機械や電気へのコンプレックスを捨てないと、音楽だけではなく、この時代の生活全体が大変不幸になるのではあるまいか。まことにお気の毒だが、21世紀を迎えてもなお、ただ過去に執着して嘆き節を歌っているのでは勿体ない。生きた化石のよう哀れさと、滑稽さを感じてしまうのである。
機械は現代の匠の道具である。どんなハイテクを駆使した機械であろうとも、昔からの、人と道具の関係と本質的にはなんら変ることがない。つまり、人が機械を使いこなすことが大切なのである。しかし、機械を作る側が、技術の進歩をただ軽薄短小と利便性の方向に向けるようでは、道具の使いこなしようがないし、そこから得られるものも限定される。人間の意思に反応せず、能力を反映しない機械は人間を駄目にする。誰がどう使っても、同じ結果しか得られない自動演奏機では、オーディオは趣味性を失う方向に向かうだけである。頭と手と経験が、人との差や違いとして現われないような機械では、現代の匠の道具とはいえないだろう。ハイテクを将来、いかに「レコード演奏家」の主体的で能動的な演奏行為に結びつけて機能させるかが問題で、今後の一大課題であるとともに、大きな可能性をも予見させるものだ。
(ステレオサウンド誌119号に発表された文章に、2002年8月、加筆・訂正していただいたものです。)