僕も映画やビデオは大好きなので、少しVの話しをAがらみでしてみよう。
Aのリスニング・ルームとVのビデオ・ルームは別に独立させるのが理想だが、現実はそうはいかない。そこで、ビデオ系の機器とオーディオ系の機器とをドッキングしてスムースに切り換える機器や、個別の効果を独立して果せる機能が必要となるだろう。完結したオーディオ機器がそのまま映像用として適するものではなく、映像と音像との自然な融合や、その効果のための音の演出には、独自の工夫と機能を必要とする場合が多いのである。
映像の大きさと、音のスケールとの関係は中でも、もっとも重要な要素といってよい。この場合の音とは、音量、立体感(効果)そして音色までをも含む複雑な要素が関係すると思われる。
家庭用のビデオの映像は、現在のところブラウン管が中心で、一部、そのプロジェクターによって、より大きな映像画面も実現出来る。ブラウン管ではスクェア・タイプの28インチが現在のところ最大のものだが、プロジェクターなら、100インチ以上の大画面も可能である。ただし、画質は大分劣化するといわざるを得ない。僕が体験した範囲では、ベルギー製のバーコというメーカーのものがベストだが、それとても、フィルムの投影は勿論のこと、ブラウン管からみるとかなり解像度が悪いし、色調も劣る。ただし大画面による効果は、その劣性をカバーしてあまりあると思う人もいるようだ。
しかし、いずれにしても、この画面の大きさと音との関係は十分マッチングをとらないと、小さい画面がより小さく感じられたり、せっかくの大画面の効果が半減したりするのである。そして、もっとも大切なことは、ステレオ音像の定位と音場の拡がりのスケール感を、映像とバランスさせることである。
ブラウン管にしても、プロジェクターによるスクリーンにしても、その両側にスピーカーを置くのが基本だが、よほど考えないと、映像と無関係の位置から音が聴えてきたり、ステレオ感があり過ぎて、映像はまるで小窓からのぞいているシーンのようなアンバランスを生じるのが普通である。端的にいえば、ステレオ感と画面とをマッチさせ最大の効果を上げるには、画面の幅と両スピーカーの間隔の差が少ないことが原則だと思う。
そして、ステレオ装置の再現するステレオのスケール感は、リスナーとスピーカーの距離にもよるが、普通はリスナーから左右それぞれのスピーカーへの角度が六十度ぐらいを標準とする。つまり、リスニング・ポジションと左右のスピーカーで正三角形を作る位置関係が理想的である。ステレオ録音の拡がりや定位は、ほぼ、これを標準にしてミキシングがおこなわれているものだ。
したがって、今、かりに19インチ程度のブラウン管で見ることを仮定すると、その両側にスピーカーを置いた場合、聴取最適位置は六十度の角度を守るとなると、両スピーカーを結ぶ線上……つまりブラウン管の面から、約60〜70cm程の距離ということになる。これではいかにも接近し過ぎるし眼にも悪い。
そこで、普通、19インチ程度のブラウン管を見るのに適当な距離と思われる2mを優先させるとすると、その位置から六十度の角度を保つ左右スピーカーの間隔は約2・5mということになり、ブラウン管サイズとバランスしたステレオ感を上廻ってしまう。この程度なら一般に大きな異和感はないという意見もあるだろうが、映像と音との条件によっては違和感も生れる。例えば三人の歌手が歌っている時、中央で見れば、センターの一人だけは映像と音像の位置は一致する。しかし、左右の歌手はそうはいかない。
映像ではセンターの歌手のすぐ隣り、つまり19インチのブラウン管内での実寸では数センチしか離れていないのに、その声は、約1mも離れた左右から聴こえてくることになる。当然、映像と音像の位置は全く無関係となる。中央の視聴規定位置をはずれると、三人共、映像と音像の位置関係はずれてしまうことにもなる。これは録音でセパレーションを考えて、その映像用に調整することも可能ではあるが、小さな画面を意識し過ぎるとせっかくのステレオ効果が薄れる難しさがある。場合によっては、結局モノーラルが一番自然だということにもなりかねない。
また、再生時に、このセパレーションを調整することも可能で、広い部屋での本格的なオーディオ・システムの中に、ブラウン管をドッキングさせる時、必要な手段といえるだろう。さもなければ、ビデオを見るたびに大型スピーカー・システムを動かさなければならない場合もあるからである。
少々、細かい話しになり過ぎたが、現在のオーディオ・システムのステレオフォニックな臨場感と、ビデオの小型映像とでは、このような単純な例からも、そのままドッキングさせるのには問題が多過ぎるのである。
より大きな画面には、また、それなりの難しさが生れる。プロジェクターによる大画面のビデオ・ディスクやテープを、しばらく我が家で楽しみながら、いろいろ実験したのだが、小画面とはちがう新たな問題を感じたものだ。第一、ほとんどの家庭用のビデオは、ブラウン管による小画面を想定して制作されているので、影像の演出自体に不自然さが生じることがある。音との関係は、小画面よりうまくいく場合が多いが、それでも、いろいろ工夫をしないと、よい相乗効果は得られない。
これも、それぞれのジャンルの固有現象の問題であって、個々のジャンルの固有現象を独自のものとして生かしてこそ、そのジャンルのもつ特質が発揮されるものだろう。せっかく独自のものとして存在している二つのジャンルを無定見に結びつけ、いたずらに矛盾や質の低下を招くことにつながる考え方は愚かであるといわざるを得ないのだ。固有現象という言葉の概念については、もう一度、前項を読んで考えていただきたい。
ヴィジュアルについて詳しく書くのが目的ではないから、このぐらいにしておくが、AVの実体は大体こんなところである。しかし、ビジネスとしてのAVは、今後大きな発展が見られることだろう。つまり、それほどシリアスな理屈抜きの、エンターテインメントとしてなら、ヴィジュアルは誰もの興味を引くものだし、TV以外のプログラム・ソースを自由に見れるシステムはあってよいからである。特にヴィジュアル感覚で育った若者たちの間では、彼らが、ネアカ、ケイハクなら、音だけのオーディオなんてつまらない……といい出すことは想像に難くない。そして一方、趣味の対象としてのビデオ・テープやビデオ・ディスクによるホーム・シアターの発展は今後に大いに期待出来るし、僕も、技術の進歩を注意深く見守りながら、ある時期がきたら、ホーム・シアターと呼べるようなヴィジュアル・ルームを持ちたいという夢は持っている。今は21インチスクエア・タイプのブラウン管と、小型ブックシェルフ・スピーカーで結構楽しんでいるが、オーディオのリスニング・ルームには置いていない。
しかし、この調子で技術が進歩すると将来のプログラム・ソースには、音だけを記録するものがなくなるかも知れない。少なくともハードウェアの能力としては十分考えられることである。だが、ソフトウェアとしては、これは大問題であって、絵を立てれば音が立たず、音を立てれば絵が余計物……というジレンマを抱えるのである。だから、絵には音を従わせ、音は独立させておくべきだ……と強く主張したくなるのである。現状はこれを誤解していたり、混同していたりする状態で、ソフトウェアもハードウェアも混乱の最中なのである。
ところで、オーディオとビデオが混在していることが、一般の人々にとって、やたらと複雑なハードウェアの方式の乱立として映り、何を買ってよいのかわからないという現象をも生んでいる。考えようによっては、業界全体として、こんな馬鹿な話しはない。技術的リーダーシップをとるのと商売に熱心なあまり「我社の新方式が最高です」と、勝手に宣伝し過ぎて、ユーザーに難しい印象を与えすぎ、売れなくしているとも見えるのである。
VHSとベータ(β)ぐらいはなんとか理解されてはいても、ビデオ・ディスクとコンパクト・ディスクとなると、そろそろ怪しくなる。CD、LD、VHDを明確に区別認識している一般の人は多くはない。そして、オーディオのディジタル・プロセッサー(PCMプロセッサー)はビデオ・テープレコーダーを使うので、これと、同じようなビデオ・テープレコーダーのハイファイ・ビデオが混同される。
ハイファイ・ビデオの音声がディジタル式だと思っている人も少なくない。そして今度は8ミリ・ビデオの登場である。これはディジタル式のテープ・レコーダーとしても使えるものだ。また、そのうち規格が決まれば従来のコンパクト・カセット・デッキとの競合が必至の本格的な小型DAT(ディジタル・オーディオ・テープ)の登場だ……あるいは、書き込み可能なディジタル・ディスクの登場も控えている……という具合に混乱は拡がる一方である。
ヒステリックとも思えるほどの技術開発と性急に過ぎる商品化とはいえないだろうか? どう考えても、ユーザーの利益として、これは好ましくない。一年経ったら旧型、三年経ったら旧規格なのである。宇宙開発ならいざ知らず、コンシューマー用の製品がこれでよいのだろうか? この目まぐるしさでは、ユーザーのほうは商品知識に追つけず、その技術情報の洪水に無感覚になり、身近かな商品としてではなく、それこそ宇宙開発技術の進歩に対するような感覚で唖然としているのが実状ではないか、数万円、数十万円という商品であれば、それなりの価値観をもって持つ喜びも味わいたいだろうに、それがメーカー自身によってどんどん叩き落されてしまうのだ。それでも頑張って買うユーザーもいるから成立っているのだろうが、ようやく買ったまではよいが、その月払いが済む前に旧型になり、同じ製品が半値で安売りされていると怒る人もいるはずだ。製品によっては1/3以下の値段で、新品が市場に出回わっている。
僕達が昔、あれが欲しいと憧れて、それが手に入るまで、お金が貯まるまで、カタログを眺め続け、絵まで画いて、長い間、胸をときめかせ、ようやく買った喜びと、それを持つ誇りなどは、今は全くあり得ない。
メーカーにとっても、必らずしも利のあることとは思えないのである。新製品は経費がかかる。新開発商品は市場導入を含めてもっとかかる。実利をとる方法としても、もっと商品のライフ・サイクルを長くして、新開発技術をストックし長期的戦略を立てたほうが建設的ではないのだろうか。ジャーナリズムを意識して、世界初の功名心かどうかは知らないが、我先に新技術を発表し、新製品新規格で市場のシェアを占有しようというのかもしれないが、まるで、ブレーキの利かなくなった暴走車のように見えるのである。どうも、業界というのは、視野が業界自体に向き過ぎて、ユーザー不在のうちに内乱を招き、多くの無駄をしているように思えてならない。
ヴィジュアル関連のビデオ産業は、今、その戦乱の真只中にある。この辺で、少しは、企業側にも反省してほしいものだと思う。資本主義社会にあって企業は政治以上に社会を動かす力をもっている面もあるのだから、その社会的、文化的責任は小さくない。良識ある経営者なら思い当るはずだ。今の日本の社会が抱えている問題を認識すれば、企業のあり方が、それらと無関係であるはずはないことが……。返答として鶏と卵論も出てくるだろうし、自社だけの努力では解決しないという言葉も返ってきそうである。それどころか、そんなことを自社だけがやったら、たちまちつぶれてしまい、多くの社員を路頭に迷わすことになる……それこそ社会問題だという返事も聞こえてくるようだ。あるいは、この激しい競争とテンションの中でこそ、素晴しい技術開発が生れ、日本の国際的競争力が高められ、世界の平和と文化に多大な貢献をしているのだ……と胸を張られるかもしれない。多分、たとえ問題を肯定したとしても、自分と我社だけはちがうという捉え方をされるような気がする。今まで、この種の小言をメーカーにいっても、必らず、「全くその通りです。困ったものです。どうにかならないでしょうかね」と、まるで他人事のように僕の意見に同調してくれて終りである。「そういうあなたの会社こそが、その張本人ですぞ」といいたいのだが、あまりにも、あっけらかんとしているので不発に終ってしまうのである。親馬鹿が親馬鹿と思っていないようなものだ。みんなで、現在の子供達の入学試験地獄や、塾通いを批判しながら、それぞれ自分の子供に別の教育をほどこそうとしないのも同じようなものだろう。いうは易し、おこなうは難しで済ましてよいとは思えない。
どこかのTV局が自らの番組で、「TVこそ諸悪の根源である」と大声でわめき、「こんな俗悪な番組ばかりだから今の子供は悪くなる……」などとやっていたが、あれが実態なのであろう。盗人猛々しいにもほどがある! と思う。常識は今や通用しないらしいのである。人気と視聴率にのみに没頭しているTV局が敢えてやったことからして、あれはナウいギャグとして大歓迎されるのであろう。それにしても、自分の局の番組内容が本当に俗悪だと思っていたら、あのギャグを電波に乗せるだろうか? 多少の自覚はしていても、他局よりはましだという自惚れがあってのことではないだろうか。
話しが横道にそれてしまったが、今やメーカー間がサミット会談でも開いて、業界全体のために考える姿勢が必要な時ではないかと思う。メーカー自身の利益のためにも、今のような節度のない状態が好ましいはずはない。どう考えても我先に無駄弾を打ちまくっているように感じられる。それが日本国内だけではなく国際的に入り乱れてのことで、この業界は戦国乱世の観がある。経営者の眼中には、一番大切なユーザーの姿がないかのようだ。
規格とその統一をはかった上での競争というのがメーカーとユーザーの間の厳格なルールではなかろうか。規格で競争することを平然とやるようでは、企業のモラルが地に落ちたといわれても仕方のない社会悪を犯しているのに等しい。
規格と統一というのは、本来不可分のものである。統一の計られない規格は存在の意味が薄くなる。統一が計られてこそ規格といい得るものである。今のように、各メーカーが勝手に規格を唱えて譲ろうとしないというのは、明らかに精神的にも傲慢である証拠だ。
規格の乱立について、某メーカーの幹部は「ユーザーに選択の自由を提供するメーカー側のサービスだ」と発言したのを聞いたことがある。どうやら、この人、今の社会において、選択の自由が行き過ぎて、選択の恐怖になっている実状の認識がないらしい。
統一規格の中に異質のものが数多く存在し、競争することこそが、真の活気を生み、今、アメリカなどで流行している人材ケミカライズ……つまり、異質のものを集め衝突や対立を起こさせ活性化し、そこから新しい進歩や発展を生もうとする化学反応になぞられたいい方……に相当する効果が期待できるだろう。しかし、規格も統一されていない状態ではケミカライズは決して良いほうの化学反応を生み得ない。下手をすると爆発する。
規格の標準化をいい加減な段階で決め、後々で、それが手かせ足かせとなって発展出来ないのも困りものだから、技術競争、論争は大いにやるべきではあるが、それを人前で、つまり、消費者にお金を払わせる商品を武器にやるというのは、戦争に市民を巻き込むようなものではないか。そういうことに最近の企業は感覚が麻痺しているというべきか、モラルが低下したというべきか、少々、非常識に過ぎるように思うのだが、いかがなものであろう。