技術的に詳しく述べることが目的ではないが、一般にCDに対する過小評価と過大評価が混沌としているように思えるので、もう少し僕自身のCD観について話しを進めようと思う。
 まず、CDを過小評過していると思われる面についてであるが、その意見の大半は感情論ではないかと思われる。CDはまだまだ多くの熱心なオーディオ愛好家から半拒絶状態の姿勢をとられている。「あんなもの」という扱いをする人が少なくない。その気持は僕にもよく解るのだ。
 そういう人達のほとんどが、大型再生装置の持主で、長年苦労をして、紙一重の音質改善に一喜一憂しながら努力を続けてきた愛好家である。そして、あたかも自己を音に投影するかの如き、その人らしい音で、音楽が奏でられる域に達したオーディオの道を極めた人達にとって、まるでカセット・デッキかチューナーのような、ブラック・ボックスから、指先一つでスイッチを押すだけで音が出てくるようなCDプレーヤーは、玩具としか見えないのは当然であろう。
 おまけにCDはプラスチックのペラペラな、ピカピカの円盤で小さくて軽くて……というCDの特徴はネガティヴにしか働かない。大きくて重い……というプラス領域の価値観の世界に真向から逆行するのみである。
 さらに、それがディジタル録音技術という、聞くだけで鳥肌が立つような刺激的で冷たい音ときては、とても音楽表現の感動など味わえるはずはないと頭から決め込みたくもなるだろう。これこそ、浅はかな現代の機械文明がもたらした公害であるという先入観に結びつくのである。自分が生き甲斐としてきたオーディオが、こんなものにとって代わられるなんて考えただけで腹が立つ。
 少々大げさな表現だが、事実、僕はこういう人に何人もお目にかかっている。ある愛好家の場合など、実際、そこへ持参したCDプレーヤーをつないで音を出させていただいたのだが、出た音はひどかった。しかし、それには理由がある。仮りにF氏としておこう。F氏宅に初めて伺った時に聴かせていただいたのは、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの演奏するマーラーの「第四交響曲」であった。
 僕もこのレコードは持っているし、よく知っている。それが、かつて聴いたことのない素晴しい音で鳴ったのだ。豊潤で、しなやかな質感のよく出た音であった。F氏はこのレコードが大好きで、このレコードをいかによく鳴らすかに、まさに心血をそそいで装置の調整をされていたのである。F氏にとっては、このマーラーの「第四交響曲」が心の支えであり、生活のオアシスであったのだ。
 F氏の装置は極端ないい方をすれば、このバーンスタインのマーラーの「第四交響曲」のための楽器であるかのようで、今でも、あの音の世界の美しさと感動は忘れ難い。それだけに、F氏の装置は、失礼ないい方だが、オーディオの約束事からは大幅にはずれていたことも否めない。
 周波数帯域特性としていえば、中高域の2kHz〜4kHzが大きく凹んでいるようだと僕には推測できた。つまり、このレコードをフラットな装置で再生すると、その辺の強調感が気になったからである。さらに、ハーモニックス領域の高音域、10kHz付近から上も、かなり押えられていると察しがついた。そして多分、中域、400Hz〜600Hzはかなり盛り上っているらしいということも……。そこへ、20Hz〜20kHzまでフラットなCDプレーヤーをつないでCDを鳴らしたらどうなるか? 結果はいうまでもないことだ。実は、僕にしてみれば、こういう結果になることを十分予測してのことだった。F氏の世界をぶち壊すようで気はとがめたのだが、F氏の陥っているオーディオの落し穴から救いたかったのである。
「聴かせていただいたマーラーの音は大変素晴しい音でした。あなたの美学がよく解るような……音でした。しかし、オーディオの正しい音という範疇からは大きくはずれた装置だと思うんです。……つまり、今の状態は、特定のレコードにしか対応しないと思います。他にも多くのレコードをお持ちですが、他のレコードでも満足していらっしゃいますか?」
 F氏は不満そうな表情であった。
「他のレコードはあまりよくないですね。みんな録音がおかしい。だから、それぞれのレコードには、ちがうカートリッジで聴くんですが……。それで多少はよくなるけれど……」
 といって、他のレコードのジャケットに、それぞれ指定のカートリッジの型番が記録されているのを見せて下さった。その熱心さには頭が下がる思いであったけれど、反面、大変お気の毒な気持になって、あえて残酷なCD試聴を敢行したのであった。CDを聴き終って僕はF氏にいった。
「このCDは最高のものとは申しません。しかし、一つの標準たり得るものだとは思います。この装置の音が正しい音の範疇からはずれていると申し上げたのは、このCDの音のデリカシーや質感の好みはともかくとして、バランスの面で、こういう非常識とでもいえるような音になることの意味を御説明したかったからです。僕も今のCDに決して全面的に満足しているわけではありません。しかし、少なくとも、バランスはまともです。このメータ、ニューヨーク・フィルのCDの録音も、バーンスタインの第四より、正しいバランスの録音だと思います」
 この一件以来、僕はF氏とすっかり親しくなったのである。その後F氏は、装置を大幅に改善され、多くのレコードが広く楽しめるようになったと感謝されたものだ。さらにF氏は、最近では、CDも導入され、このところ新しく買うレコードはCDのほうが多いという一大変化が起こってしまったのである。
 しかし、あの初めて聴かせていただいたF氏のバーンスタインのマーラーの「第四交響曲」の音は永遠にこの世から消えてしまったわけで、一抹の淋しさを禁じ得ない。レリ・グリストのソプラノの歌う可憐なT天国の喜びUは、同じレコードを家でかけても、絶対にあの響きで聴こえてこない……。
 この話しは、オーディオのもつ本質的な複雑さを象徴しているのだが、ここではCDが熱心なオーディオ愛好家に受け入れられ難い理由の一つと、F氏のように深い情緒的なオーディオ・ロマンティストにも、機会があれば受け入れられるだけの優れた音楽媒体であることをいいたかったのである。
 CDならびにCDプレーヤーは操作性の点でADとは比較にならない便利さをもっている。オプトエレクトロニクスの応用産業として、その先陣を切ったものの一つであって、現代のテクノロジーの最先端をいくものだ。だが、しかし、それゆえに音という抽象によるイリュージョンやイメージを、無限にふくらます豊かな情緒世界との接点が、求め難い面も持っている。便利なるがゆえに軽視される面もある。人に頭脳と肉体の労力を行使することを要求しない機械というものがもつ宿命かもしれない。