さらにひどいのは、AVという新語の捏造だ。オーディオが駄目ならヴィジュアルで……という安易な商業的動向である。僕は盲目ではないし、ヴィジュアルの作品やエンターテイメントが嫌いであるわけはない。TVやビデオも、僕のジェネレイションとしては人一倍多く見るほうだと思っている。今年の正月休みは、ほとんど毎日、ブラウン管を見て過した。映画も大好きである。しかし、どうしても、今のAV騒ぎには納得出来ないところがある。
映画あり、TVあり、ビデオ・テープあり、そしてビデオ・ディスクがあるが、これ全て結構なヴィジュアル・メディアであり、それぞれに、ちゃんと音声のついた機能をもっている。その音声をよりよいものにすることは、映像の品位をあげることと共に大切なことだが、何故、そこへ、今までのオーディオをごちゃまぜにしなければならないのだろう? 全てのヴィジュアル・メディアが無声であったのなら、大いにAV、VAといって騒ぐ意味もあろうけれど、今、何故? という気持がどうしてもする。
あたかも、オーディオだけでは限界があるかのごとく、あるいは、時代遅れであるかのごとく、そして、AVという全く新しい創造的世界が出現したかのごとく騒ぎたてる風潮は滑稽ですらある。無理矢理こじつけても、AVとは映像をともなった音楽プログラムというジャンルしか浮んでこない。そして、それはなにも新しい創造的世界というほどのものではあるまい。音楽に全て映像がつかなければならないと考えるのは単純過ぎる。
ミュージカルやオペラやバレエのように映像がついたほうが作品として完結すると思われるものはたしかにある。しかしAV騒動の実態は、どうやらオーディオもビデオも同じエレクトロニクス産業であるところから、オーディオで凹んだビジネスを、ビデオでカバーしようというイージーな商魂の現われであるようだ。映像つきの音楽プログラムはヴィジュアルの中の音楽ジャンルと考えればよい。そしてヴィジュアル・メディア側に音への認識を強くうながすべきで、オーディオをヴィジュアル側に引っ張っていくことはどう考えても不自然だ。
オーディオの世界はヴィジュアルを伴わないところに独自性があると僕は思っている。音という抽象だけの世界であるところに多くの本質的な特長がある。本当にオーディオを愛し、体験した人ならばこの事はいわれなくても解っているはずである。むしろ、オーディオの真価は、有限画面の具象によって、かき消される質のものだといいたいくらいだ。
あのイリュージョン、あの無限のイマジネイションの世界は抽象ならではのものではないか。オーディオのイリュージョンに匹敵する、あるいは、それを助長するヴィジュアルとなると、受け皿のハードウェアだけを考えてみても、現在のブラウン管やプロジェクターの能力は遠く及ばない。しかし、ヴィジュアルを補うオーディオという考え方なら、オーディオの能力はありあまるほどである。
AVについては、あとでもう少し詳しく言及することにするが、T今や音だけのオーディオは時代遅れで、これからはAVの時代である……Uなどと、したり顔でいう人達……ファンやメーカーやジャーナリストは日和り見主義の軽薄短小な人間か、商人か、本来、オーディオの解らなかった連中としか思えない。そういえば、最近しばしば「おや? 彼も本当にオーディオが好きだったわけではないんだな?」と思い知らされたり、「彼は音楽ファンではなかったのかな?」と戸惑わされたりするのである。