オーディオ・マニアは音楽ではなくて、音そのものを聴いている……とよくいわれる。音そのものを聴いて悪いわけではないし、それが幸せならばそれでよいとも思うのだが、ただ、つくづく勿体ないと思うことはある。ひどい時には気の毒な気もする。時にはそれを通り越して腹立たしいことがある。
ずい分前のことだが我家を三人の客が訪れ、レコードを聴いていた。ジャズの好きな人達だったので、デューク・エリントンのアルバムから、僕の大好きな、ジョニー・ホッジスのソロによる「アイ・ガット・イット・バッド」を演奏した。短いエリントンのピアノ・ソロのイントロに続いて、登場するジョニー・ホッジスのアルト・サックスのソロは、ほんの二分程の短い演奏なのだが、心気充実した名演で、凄まじいばかりの魂の燃焼の聴かれるものである。
きわめて美化された音楽的な昇華でありながら、そこには、いささかも黒人の雄叫びのエネルギーが希薄化されることはなく、リピートでは軽くフェイクしながらもストレイトにメロディを吹く毅然としたジョニー・ホッジスの姿がある。そのソロを助けるハリー・カネイのバリトン他のサックス・セクションの分厚いハーモニー、そして、クーティ・ウィリアムスやキャット・アンダーソン他のトランペット・セクションとローレンス・ブラウン他のトロンボーン・セクションが一体となっての演奏の密度の高さは〇・一秒の弛緩も許されないテンションと高揚のもたらす感動の世界であり、二分後には僕の顔が極限まで紅潮する思いのする演奏なのである。
アルバム・タイトルは「ザ・ポピュラー・デューク・エリントン」(RCA RJL−2515)という、エリントンの有名な曲ばかりを十一曲、作曲者兼演奏者として録音したレコードだ。メイジャー・レーベルのRCAだからTザ・ポピュラー……Uというタイトルをつけたのだろうが、僕はいつも、このタイトルが気に入らないほど、このレコードの芸術的価値に心酔しているのである。一九六〇年代半ばのステレオ録音である。
このレコードを手にした当時、僕は、くる日も、くる日も、これを愛聴して止まなかった。そして、このレコードで、当時、マルチ・アンプ化した僕のJBLの3ウェイ・システムの調整をしていた。ジョニー・ホッジスがやや柔軟になって毅然とした姿勢が薄れたり、少々神経質になったり、ハリー・カネイのバリトンの深い響きに揺れる僕の腹の皮の程度の差に一喜一憂して、微妙な音色の千変万化の様変りの中から、僕の求めるオプティマム・バランス……つまり、一点しかないバランス・ポイントをさぐり続け、僕の頭の中にある理想的鳴り方に近づける努力を続けていたものだ。
この頃は、クラシック音楽からはやや遠ざかり、ジャズに夢中になっていた時期ではあったが、ジャズのレコードでの調整に迷い込むと、クラシックの愛聴盤を引っ張り出してくる……というパターンであった。それはともかく、この日、このジョニー・ホッジスが鳴り終った時に、三人のうちの一人は、まさに顔面を紅潮させ、頭を深くたれて「うーん、凄いジョニー・ホッジスだ……。この気迫……」と明らかに音楽的感動を示したのである。その言葉を聴くまでもなく、僕は、ジョニー・ホッジスが数小節吹いたころからの彼の身体の微妙な動きから、その反応を見てとってはいたのだが……。
「中音が凄いですね。ウーファーともよくつながっていて……。はじめのピアノがちょっとびったようですが、あれは録音のせいでしょうね。それにセパレーションが凄い。音像の大きさが、大き過きず……」と、もう一人が明るくいい放った。
こういう時である、僕が頭にくるのは。何をぬかす! とひっぱたいてやりたいくらいの気持になるのである。冷水をざあっと浴びせられたように白け切る。しかし、彼は一生懸命ほめてくれているのであるから、怒るわけにはいかない。かといって、そこで相槌を打つ気にもなれないのである。しかし、よく考えてみれば、この日の前日まで、僕が装置の調整をしていた努力からすれば、中音とウーファーがよくつながっていて、ピアノのびりつきは装置のせいではなく、レコード自体の問題だという的確な判断まで下してほめてくれた人の発言こそ、喜ぶべきだともいえる……。三人目が発言した。
「JBLって本当に凄いですね。カートリッジは何ですか?」
三者王様のT凄いUというほめ言葉であった。一人目はジョニー・ホッジスが凄いといい、二人目は中音が凄いといった。そして、三人目はJBLが凄いといったのだ。
三人そろって一人前のT凄いUになる……といいたいところだが、まだ一つ足りないものがある。つまり、録音もT凄いUのである。これら全部がそろってこそ、今のジョニー・ホッジスの凄い演奏が実在するのである。
それはともかく、よく注意して、もう一度、三人の発言を考えてみると、一人目は「ジョニー・ホッジスは凄い」という発言とはニュアンスがちがうのである。「凄いジョニー・ホッジスだ」といったのである。つまり、彼は、今、ここで鳴ったジョニー・ホッジスが凄いといったのであって、ジョニー・ホッジスの凄さがよく再現された……という意味を含めているようにもとれるのだ。
二人目の発言「中音が凄い」というのは、もう全く、ジョニー・ホッジスだろうが、アート・ペッパーだろうが、渡辺貞夫だろうが、そんなこととは無関係で、アルト・サックスの音域を中音と表現したといえるであろう。たしかに、この時のスピーカーのクロスオーバー周波数は500Hzと7kHzであったから、アルト・サックスは、ほとんど、その間、つまり3ウェイの真中の帯域を受けもつ375ドライバー・ユニットから出ていたといってもよいだろう。しかも、この二人目は、ウーファーとのつながりもよいと指摘しているように、こちらのユニット構成や調整の努力も含めて凄いといったようである。
それに対して三人目は、スピーカーのブランドを凄いといったのであって、それに続く質問もカートリッジは何か? といったところからして、すべてT物Uに焦点がいっている。
勿論、たったこれだけの発言で、三人の内容を決めつけてしまうというのは早計過ぎるし、相手に失礼ではあるが、僕は直感的にそう感じたものだ。そして、その後、二時間ほど、レコードを聴いたり、話しをしたりする中からも、この判断はほぼ間違いないことがわかったのである。
一人目は大変なジャズ・ファンで、そのジャズに関する造詣の深さは僕などの及ぶところではなかった。よく聴いている。オーディオは勿論、他にも広く豊かな教養と趣味の持主であった。ただ、あまり、機械には強いほうではないらしかった。二人目は大変なオーディオ・マニアで、自宅に4ウェイのホーン・システムをもち、録音マニアでもあってSLには大分こっているようであった。自作派だ。三人目は、一番年長者であり、終戦直後から米軍のキャンプなどでベースを弾いておられたそうだが、その頃は事業で成功しておられたようだ。
この三人の来客は、いろんな面で、オーディオ・ファン、レコード・ファンのもっている特質を象徴しているように思える。今、仮りに、一人目の方をA氏、二人目をB氏、三人目をC氏と呼ばせていただこう。
A氏は人間、文化、芸術の理解者である。しかし、いろいろ話しをしていると、かなり、機械には無知で、どんな道具でも使い手次第という少々片寄った考えの持主であることがわかってきた。そのためだと思われるが、機械や電気に対して関心が薄いというよりも、むしろ、非友好的で、自分ではオーディオに数百万円もお金をつぎ込む価値観はもっていないようであった。僕の手前もあって、自分は、それほどの道具をもつ柄ではないと強調していたが、それは謙遜で、それだけのお金があれば美術品のほうにまわしてしまうというところから察するに、機械好きではないらしい。A氏の話しを聞いていると、どんな機械でも、一通りのものならば音楽が聴けるはずだというフレーズが度々とび出してくるのであった。そこで意を決して僕はA氏に聞いてみた。
「あのジョニー・ホッジスに感激されたようですが……、機械の性能が全く関係ないと思われますか」
「いやあ……そうですね、駄目ですね。うちじゃ、ぜんぜん、こんな体験したことないですね……。うちのは機械が悪過きるのか、僕に伎倆がないのか……多分、両方だと思いますが……。なるほど、そういわれると矢張り機械も大切ですね」
C氏が待ってましたとばかり口を開いた。「そりゃJBLじゃなきゃあ、こんな音、無理でしょ。矢張りJBL買おうかな……」
C氏は、友人がタンノイの信奉者で、タンノイでなければ音にあらずという強い信念の持主に影響されて、レクタンギュラー・ヨークを使っているという。そして、僕にこう質問した。
「タンノイとJBLはどっちが上ですかね。JBLを使っておられる方に聞くのは愚問でしょうが……」
「どっちが上ともいえませんね。まるでちがうスピーカーだから。タンノイの音が御不満ですか?」
「いや、不満というわけではないんですが、人に聞くと、タンノイはジャズは駄目だっていうんでね……」
「そんなことはないと思います。タンノイにはクラシック・ファンが多いし、JBLにはジャズ・ファンが多いかもしれませんが、僕の考えでは、そうした音楽のジャンルというよりも、その人の嗜好ではないかと思いますよ。僕はタンノイでジャズが素晴しく鳴ったのを聴いたことがありますし……」
「ああそうですか! タンノイでジャズもいいですか? しかし、このJBL聴くとこっちのほうがいいなあ」
そこでB氏が口を開いた。
「JBLだからっていうことじゃないですよね。アンプやプレーヤーとの相性もあるし、部屋の問題もあるしね……。それに調整が難しいんですよね。Cさんのところは床に問題があると思うな。太鼓の音がしまらないよね。あれが上のほうへも影響してると思うよ」
B氏はこと細かにオーディオの技術的な問題だけを口にする。決して間違ったことはいってはいないのだが、どうも、音楽の話しにのってこないところからも、音そのものに御執心らしいことがわかる。僕への質問もそれに終始した。そして、僕がそれほど大したことをしていないのが不思議そうでもあった。
「床は補強されているんでしょ」
「いいえ何にもしていません」
「床鳴きがありませんね。低音がボンつかなくて、ヌケがいいですね」
「そうですね。あまり不満は感じていませんから、別になんにもしていないんです。僕は、レコードとオーディオ装置っていうのは、家庭の生活の中で楽しむことが当り前の前提だと考えているんで、よほどひどい場合は別として、特に大げさなことをしないで、機械のほうでそういう対策を出来るだけすべきだと思っているんです。だから、トーン・コントロールやイコライザーは積極的に使う主義なんです」
「だけど、どこかの雑誌で、音の鮮度が大切だという意味の記事を書いておられましたね」
「ええ。それは出来るだけということで、バランスを犠牲にしてまで鮮度を保つことだけに気をとられるのは間違いだと思います。レコード音楽というのは、所詮、一つの仕掛けであって、矛盾と妥協で出来上っていると思うんです。録音から再生までのトータルで見て、全体を考えながら、いい意味での妥協をしていかなければまとまらない仕掛けたと思います。技術的にあるポイントだけを突込むのは研究としては大切だし、意味もあると思いますが、音楽表現ではマイナスのことが多いようですよ」
「音楽表現上のマイナスというのはどういうことですか?」
「一言ではいえませんが、まず、レコード以前に完成されている音楽、その典型がクラシック音楽だと思いますが、その実際のコンサートは矢張り、オーディオにとっての一つのリファレンスだと思うのです。それから、自分が馴染みのある楽器の音や、人の声の音色感もリファレンスですね。ただ、それと単純に比較するというのは研究の手法としてはともかく、イリュージョンという人間の聴覚と知覚の上に成立っているオーディオ・システムの機能と必らずしも一致するものではないと思うんです。ですから、そうしたリファレンスたり得る音や音楽に接することで得られた自分のイメージとの比較というのがとても大切だと思っています。そういう、いわば現象のイメージと、音楽という人間表現のもつ、こちらの心象への働きかけの大きさとか強さといったものの総合が、僕のいう音楽表現上という意味になると思います」
B氏がだまってしまったので、A氏が交代して、話しが続いた。
「そうですね。よく、実演さながらのとか、そこに演奏者がいるようなとかいうことがいわれますが、そうしたイメージを求めているんですよね。さっきのエリントンのレコードなんか、ジョニー・ホッジスがそこにいましたよ。たしかにいた。凄かったなあ」
B氏が再び口を開いた。
「あれはオン・マイクだからリアルだったんでしょう」
今度はA氏がだまってしまった。C氏は、ただ、煙草をくゆらせながら、みんなの話しにうなずいたり、首をかしげたりしている。僕が話しを続ける。
「それもありますね。しかし、オフ・マイクだって、そこに彼がいるという実感が伝わらないわけではないと思いますよ。そんなことより、僕は、やっぱり、どんな演奏がそこでおこなわれたかのほうが大事だと思うんです。さっきAさんがいわれた、実演さながらのとか、そこに演奏者がいるような……というのは、誤解される危険もありますが、二つの意味があると思うんです。一つは、それが、どんな演奏であるかという、聴く人の心象に働きかける力で、もう一つが、いわゆるオーディオ的要素に左右されるものだと思うんです。つまり、録音再生上の問題ですね。だから、僕が思うには、まず第一に、演奏に力がなければ、そうした録音再生上の力も十分威力を発揮しない。いいかえれば、僕にとっては、どんな音であれ、こちらの心の動く演奏でなければ音をよくする目的が見出せないのです。どう音をよくすればいいかもわからないし、よくなったか、悪くなったかもわからない……僕の感覚と情緒が眠ったままですから……。これは少々極端ないい方で、僕もオーディオ・マニアですから、周波数帯域が広いとか、凹凸がないとか、ダイナミック・レンジが広いとか、ひずみが少ない……などの判断は出来ますが、でも、これは知的判断であって感性的、情緒的判断という面は希薄ですよね。それだったら、今の水準でも測定器のほうが正確でしょう」
A氏が身を乗り出していった。
「そうです、そうです。その通りです。そこなんだ。僕のいいたかったのは。オーディオ・マニアの耳って、測定器みたいなんだよね。僕にいわせりゃ、一体、お前ら何を聴いてるの? っていうところなんだよ。そうですよね。それに、ほら、メーカーだって、そんなことばかりいっているし、高い機械っていうのは、そういう特性がいい機械なんでしょ……」
長らくだまっていたC氏がいった。
「特性のいい機械、つまり、優秀な機械なら、今、なんか難しいこといっていたけれど、その……音楽の表現っていう奴をよく出すわけでしょう。一流の名器っていうのは、そういうものでしょう」
「とは限らないですよね。使いこなし次第で変るんだよ。僕なんて、今迄に、どんな苦労をしたかわからない。ホーン鳴きをとめるのにね。石膏でかためたり、ベタベタしたの張りつけたり……苦労してるんだ……」
B氏が吐き出すようにいった。三人共コックリ、コックリ、うなずいている。しばらく沈黙が続いたあとで、A氏がこういった。
「さっきの、音楽の力があってこそ、オーディオの力も発揮できるというのは本当だなあ。そのオーディオの力っていうのは、そうすると、録音にあるし再生にもあるわけですね。録音の機械や再生の機械の性能だけじゃなくて、なんといったらいいか……、つまり、演奏にも技術と表現力という二つの面があるようにですね。オーディオにも二つの面があるということでしょうね。機械の性能だけじゃどうにもならないっていう面も……。僕は機械に弱いから、いつも人間のほうに関心がいってしまうわけですが、今日は機械の凄さもよくわかりましたよ。僕は今、ロクハンていうんですか、16cm口径のスピーカーで聴いてるんですが、自分では十分、聴けていると思っていだけれど、これを聴いたら、そうじゃないことがわかりましたね。ましてや、人様が僕の家で聴いたら、もっとひどいだろうな……。あれは僕にしか通用しないんだろうな。その僕だって、今日ここで聴くと、わあ! ジョニー・ホッジスこんな演奏してたのかってね。はっきりちがうんだものね。でも、これ、やっぱり、菅野さんの力じゃないのかなあ……」
「いやいや、僕だって、ロクハン一発で、この音は出せませんよ。でも、ロクハン一発には、それなりのよさもありますがね。それに、よくいうでしょ。オーディオって人に聴かせるもんじゃなくて、自分が聴ければいいんだって……。だから、AさんにはAさんの音があっていいと思うんですよ」
「いや、そうかもしれませんが、やっぱり、ここまでいきたくなっちゃいますよ。こういうの聴くと。うーん。えらいことになってきたぞ」
これは、もう二十年も前のことである。僕も、まだ三十歳そこそこの頃だったし、オーディオの技術レベルも、今ほどにはなっていなかった。しかし、今、想い起こしてみると、あの頃はオーディオのベル・エポックだったようにも思えてくる。ジャズ自体も素晴しかったし、オーディオも燃えていた。レコードも、機械メーカーも、愛好家達も情熱的だった。世の中も、今のように資本主義社会の末期的症状のようなひどさではなかった。この日、僕達が話し合った音楽の力とオーディオの力というバランスは、残念ながら、あれから二十年経過する中で、決して好ましい方向へは来ていないように感じられる。それどころか、ますます、オーディオが一人歩きをしている感じがするのである。
A氏のような音楽の聴き方より、B氏のようなオーディオ的聴き方が蔓延しているとはいえないだろうか。後でも書くが、僕は、そういう趣味も悪いとはいわない。あってもよい。それがなければ、オーディオではないといってもよいほどだ。しかし、そこにとどまっていると、やがて、オーディオは飽きられる危険性がある。また、一方では、オーディオの力という魅力を人に気づかせないような、使い手次第で驚くべき力を発揮するような潜在力のない、小器用にまとめられた、中途半端なオーディオ商品が蔓延し過ぎてもいる。それらが、オーディオ機器のような顔をして普及することは善し悪しである。
人には、それぞれの考え方と人生がある。人の考え方や生き方に干渉する余裕は誰もが持つべきではないが、人の考え方や生き方を学ぶ余裕は誰もが持つべきだ。誰の言葉だったかは忘れたが、僕はこの言葉が大好きである。この言葉をよりどころとして、オーディオに関して少々勝手なことを述べさせていただくことにする。