長年現しんだビクターの電蓄は、遂にわが家から消えた。父の友人の家に引きとられていったのだ。老朽化が激しかったので、あちらこちらの部品を交換し、キャビネットも塗装しなおし、お嫁入りということになった。2A5シングルの、この愛しい電蓄は、ちょっと見には新品のように光り輝いて再婚先の家に運ばれていった。以後、僕の再生装置はすべて自作のマニアックなバラック装置(できるだけきれいに仕上げたつもりだが)に変った。その第一号機が、先に書いたコロムビアRG83のキャビネットをコピーしたコンソール型電蓄である。
 この頃になると、レコードも結構な枚数になっていた。父のコレクションに加えて、その後、僕が集めたものが同量ぐらいになっていたと思う。もっとも、その出資源は父のスネをかじっていたから、これも正確には父の所有というべきだろう。時折、アルバイトをして買ったものもあったけれど。そういえば、この頃の思い出で忘れられないものが一つある。それは今にして思えば、父の厳しい教育の一例であった。
 たまたま、ある晩、機嫌のいい父に、僕はシューベルトの弦楽四重奏曲《死と乙女》ロート弦楽四重奏団演奏の五枚組アルバムが欲しいので、お金をもらえないかと切り出した。一週間ほど前から、中野の名曲堂に、新品同様のアルバムがあるのを見つけていたのである。家には、この曲の、最も有名な第二楽章の主題と変奏曲の部分だけをレナー弦楽四重奏団が演奏したものがあったが、全曲盤はなかったのである。このレコードをすり減るほど聴いていた僕は、全曲アルバムを見つけた時に、何としても、この全曲を聴きたいと思いつめた。ロート・クヮルテットという団体はそれまで聞いたことがなかったけれど、悪いはずはないと一人で決めていた。ブッシュ・クヮルテットの全曲盤も以前に見つけたが、盤が真白に見えるほど摩耗し、アルバムも破れかけていて、とても買う気になれなかったのである。
 よほどタイミングがよかったのであろう。父は首を縦に振ってくれた。
 翌日、学校が終ると早速、中野の駅前の名曲堂へ飛んでいった。入って左側の棚の中央の上から二段目に《死と乙女》はあるはずだった。ところが、どうしたことか、それがない。ない、本当にないのである。どきどき胸が鳴るのを抑えながら、僕は冷静をよそおって、店内を隅々まで見て廻った。しかし見つからない。遂に、顔馴染みの親父に聞かざるを得なくなった。
「あのお…、ロート・クヮルテットのシューベルトの《死と乙女》、あそこにあったと思うんだけど?」
「ああ、あれ、昨日売れたよ」
「……」
「そういえば前に、ブラームスのピアノ・コンチェルトの《二番》、ほら、ルビンステインの欲しいって言ってただろ、あれ、入ったよ」
「本当ですか?」
「程度、最高! HMV盤だよ!」
「うわー、凄いな! でも、高いでしょ?」
「うん。でも、ロートのアルバムと同じでいいよ。まだ店へ出す前だから」
「え? じゃ、それ下さい」
 アルテュール・ルビンステインのピアノ、アルバート・コーツ指揮ロンドン交響楽団の演奏であった。渋い焦茶のアルバムに、あの美しいHMV盤のレーベルが魅力的な調和を見せていた。ブラームスのピアノ・コンチェルトの《二番》は、ラジオでしか聴いていない。あの時の演奏が、このレコードだった。ホルンの開始から僕は魅せられっぱなしだった。第三楽章のチェロの歌などは、頭にこびりついて離れなかった。演奏会もなく、ラジオではその後聴く機会もなく、同じ中野にあった名曲喫茶クラシックにいって、一度だけ聴いたが、それも、四時間も待った揚句であった。もう、僕の頭の中には、この曲の、あちこちのメロディが飛び交っていた。第四楽章フィナーレのロンド的な、あの軽快なテーマに、いつのまにか僕の全身は躍動していた。
 しっかりとアルバムを抱え込んで帰ってきた僕は、真直ぐ電蓄のところへ直行し、スイッチを入れて聴き始めたのはいうまでもない。アルバムのレザーの色のように、このレコードは全体に渋く重厚で、くすんだような音色の中に、時折、キラキラと輝かしいピアノの高音を響かせた。もう、《死と乙女》は頭の中から消えてしまっていた。
 その夜、帰宅した父に、僕はこのアルバムを見せたのであるが……。
「これ、今日、買ってきました。ありがとうございました」
「うんうん。おい。何だ? これ、シューベルトじゃないじゃないか?」
「うん。シューベルトの《死と乙女》は売れちゃっていたんだ。それが、このブラームスが、運よく入ったばかりでね。これ、前から欲しかったんだ。ルビンステインの」
 父の顔がけわしく変った。
「駄目だ。断りなく他のものを買ってくるとは何事だ! 返して来い!」
 僕には父が何をいっているのかわからなかった。シューベルトの《死と乙女》がブラームスの《ピアノ・コンチェルト》に変ったから駄目だというのは、一体どういうわけか? せっかく、幸いにして、HMV盤が同じ値段で買えだというのに。シューベルトが、流行歌に変ったり、食い物や、他の玩具に変ったというのならともかく、僕にはどうしても父の怒りが理解できなかった。
「HMV盤がなんだ。とにかく、断りなく、勝手に違うものを買ってくるというのは許せん。一度、返してきて、許可をもらって買いなおすんだ」
「そんなことしてたら、また売れちゃうかもしれないよ」
「その時はその時だ。しょうがないじゃないか。人の金でものを買うということはそういうものだ。目的を無断で変更するというのはとんでもないことだぞ!!」
 もう、頭から湯気を出して怒るのである。話を聞いていた母も、父のいうことが無理難題と感じたらしく横からいった。
「いいじゃありませんか、同じ曲じゃないらしいけど、悪いものじゃないのでしょうから」
「馬鹿野郎! お前までが、そんなことだから子供が駄目になるんだ! とにかく返して来い!」
「そんな無茶な」
「無茶じゃない! 意味がわからんのか、大事なことだ!」
 なんたるわからずやの親父だろう。よほど今夜は機嫌が悪い。何か嫌なことが会社であったにちがいない。これが僕の精一杯の理解であった。シューベルトが好きで、ブラームスは大嫌いというほどの音楽ファンではないはずだから、買ってきたレコードに文句があるわけではないであろう。この父の剣幕では、これ以上やり合えばやり合うほど悪くなる。僕は意味のわからぬまま、引き下ることにした。
「すみませんでした。明日、返してきます。でも、明日、断って、明後日、これをまた買ってきてもいいですか?」
「そんなことはわからん。とにかく返していらっしゃい。そして、一度、お金を返しなさい。その後のことです」
 僕には父の意地としかとれなかった。なぜ、そこまで意地を張るのだろう。昨夜は、あんなに機嫌よく、《死と乙女》を買ってくれることになったのに。
 自室に引揚げてから、あれこれと考えた。返しにいくのも気が進まない。名曲堂だって良い顔をするわけはない。第一、僕はどうしてもこれが欲しい。なんという無駄な手続きをしなければならないんだ。馬鹿げている。お金を父に返して、これをあきらめてしまえば一番さっぱりするが、それじゃ損だ。そうだ。名曲堂が引き取ってくれなかったことにしようか。いや、どっちにしても、そんな芝居は嫌らしいし、後味が悪い。このレコードを聞く度にすっきりしない。音楽を聴くのに、そんな気持がついて廻ったのではたまらない。仕方がない。その通りにしよう。明日、返しにいこう。でも、欲しいなこのレコード。
 あれこれ考えているうちに、問題は、父のいったことを理解することであることに気がつき始めた。理由をいって、借りたり、もらったりしたお金を、それ以外のことに使ったというのが父の言わんとしたことだろう。なるほど、それなら、ただ、レコードといってもらえばよかったわけだが、それじゃ、父はお金をくれなかったろう。《死と乙女》がブラームスに変ったというのは、結果としては父も許すはずの買物であったのだろうが、通すべき筋を通さなかったのが父を怒らしたらしい。そして、この理解は、翌日、名曲堂へレコードを返しに行って、より明確に僕の頭に染み込んだのであった。
「あのお、すみません。昨日買った、このレコード、返したいのですが」
「え? 何故? 返品は受けつけないから、中古として買うことになるよ」
「はあ? というと?」
「買った値段より安くなるよ」
「そうですか、同じ値段では駄目ですか? 一度だけ聴きましたが」
「何故なの? 気に入らないの? 傷でもある? これ欲しかったんだろ」
「ええ。実は」
 僕は、これこれしかじかの理由でと、父とのことを話した。うん、うん、ほう、へえと聞いていた名曲堂は、
「わかったよ。君のお父さんは厳しい人だね。だけど本当だよそれは。たまたま、それがブラームスだから君にはわからないといえるけど、君のいうようにね、それが、全く別の物に変ることにも通じるわけだよね。教訓だよこれは。いいお父さんだぜ。わかった。お金は返すよ。それでね、このレコード、帳簿にのせる前に君に売ったんだが、しばらく店へ出さないでおくから。お父さんと話がついたらおいでよ。とっておくよ。店へ出すと、この値段より高くなるよ」
 僕は感激した。
「どうも、本当にすみません。ありがとう、よろしく」
 思い当る言葉を片っ端から並べてお礼を言って、お金をもらって帰ってきたものだ。これは、後の僕には、確かによい教訓となった。悪い意味での融通、俗にいう「曲げる」ことを戒めるのが父の真意であった。今でも、ブラームスの《コンチェルト》を聴くと、このことを思い出さずにはいられない。理由なしに金を借りない、貸さない。そして、その金の目的は安易に変更しない。どういうわけだか、こんな不粋な教訓が、ブラームスの《変ロ長調コンチェルト》と僕の中では、その後完全に結びついてしまった。どういうわけだかはこういうわけであって、なんともいたし方ない。もっとも、ベートーヴェンには《失われた小銭への怒り》というロンドもあるぐらいで、しかもこれは彼自身が楽譜に記したほどだから、お金の教訓と、音楽が結びついてもおかしくはないのかもしれないなどと思いながら、今でもときどき、この曲を聴く。というよりも、今は自発的にこの曲を聴くことはあまりないから、何かの機会に、この曲に接すると必ず、この教訓を思い出すはめになるというほうが正しい。一風変った僕の想い出の曲なのである。
 僕は高校一年になっていた。旧制の中学であった都立十中が、そのままスライドして新制高校になったのである。そして、都立西高と名称は変った。
 時は一九四八年、昭和二十三年であるから、考えてみれば、アメリカ・コロンビアが、LPレコードを発表した年であった。それまでの78RPMのSPレコードが、このLPレコードに変ったことは、オーディオの歴史の中でも重要なことである。その名が示すようにLPレコード(LONG PLAYINGの略)は、33 1/3RPMの回転で、単純に考えても、それまでのレコードの半分以下の回転数であるから、収録時間は長くなって当り前。加えて、音溝の幅が約三分の一になったマイクログルーヴだからなおさらのことだ。しかし、私たちオーディオ・マニアにとっては、それ以上に魅力的に思えたのは、音質が飛躍的に向上したという情報である。レコードの材料が、SPのシェラックからヴィニール系になって、雑音が激減したというし、周波数帯域もずっと拡がって、真のハイ・フィデリティ・サウンドの録音再生が可能になったというではないか。
 しかし、このLPレコードに僕らが実際に接することができたのは、これより三年後の一九五一年あたりになってからであった。当然、この頃の僕は、相変らず、竹針をカッターでシャクッと切っては、片面四分のSPレコードを聴いていたのである。しかし、面白いもので、その頃、アンプやスピーカーの音をあれこれと云々していて、僕らの感覚は今とさして変らないのである。誤解されないようにいっておきたいが、音の良さや、美しさというものは、その人間の資質としての感性と、後天的な洗練の対象としての美学の領域であるから、そんなに単純なものではない。しかし、それだからこそ、レコード音楽という、生の音楽とは違う世界では、独自の美的世界がイマジネイティヴに成立つのである。勿論、当時の貧困な物理特性は、今とは比べものにならないほど貧弱な音しか再生し得なかったし、雑音は小枝を燃やしているようにバチバチと凄かった。しかし、その限界の中でさえ、僕達の美しい音への憧れの希求は、できる限り雑音を心理的フィルターでカットし、求め得る音楽の生きた美しさのエッセンスだけでも抽出し、イマジネイションをふくらませていたのである。アンプやスピーカーの性能のよいものは、それなりにちゃんと差をつけて再生していたし、また、必ずしも性能だけではない、その人の感性とアイディアによる鳴り方の差もあった。つまり、その限界の中で、またその年齢なりに、僕達は今と同じようにオーディオと、レコードを楽しんでいたのであって、その楽しみの度合は、ひょっとしたら、今より大きかったようにさえ思えるのである。
「室内楽、オーケストラ、聲楽は云ふに及ばず、特にピアノの再生に至ってはタッチ、ペダルの音すら判然と写し得て、その分離の繊密な點は實に驚嘆の外はない。(以下略)」
 これは、どういうわけか今も僕の机の前の本棚にある、昭和九年発行のレコード・カタログの巻末にある、手巻式のアコースティック蓄音器(定価一五〇円也)の宣伝文句である。宣伝文句だから、多少の誇張はあるにせよ、こういう表現がすでになされていたのは興味深い。冷たくいえば、ペダルの音の判然と聴き分けられる録音は、その後、実に四十九年経た今年、僕はデジタル録音で初めて完全に達成できたことである。ペダルによるフェルト・ダンパーの音は、当時のSPレコードで聴こえるわけはない。しかし、聴き得る人には聴こえたのであろう。笑われるかもしれないがこの集中力と想像力が、レコード音楽の醍醐味を味わわせてくれるのだと思う。