上野駅から上越線新潟行列車に乗った。父の会社の小使いさん(今、この言葉は使ってはいけないらしい。用務員さんというべきなのだろう)で鳥井さんという小父さんが、佐渡までつきそって行ってくれたのを覚えている。戦争中とはいえ、まだ汽車はちゃんと運行されていたのだろうか? 窓の大きな、青い帯が車体に描かれた二等車に乗りこんだのを覚えている。
 何もしらない弟妹たちは、この一家連れだっての旅に、キャーキャーはしゃいでいたが、僕はさすがに一抹の不安を感じていたようだ。母もきっと心細かったことと思う。
 新潟から信濃川下流の佐渡汽船の発着所に停泊するおけさ丸という船に乗って佐渡の両津港へ行くというコースは、今も変らない。ただ、今はそこをもっとスピードの速いジェットフォイルが使われているし、航海時間は三分の一に短縮されている。また、急ぐときには飛行機でも飛べる。当時のおけさ丸は、三時間半ほどかかったはずである。
 新潟の宿に一泊し、翌日おけさ丸に乗ったようだ。宿に泊ったのははっきり覚えている。子供にとって、家以外の所で寝るというのは格別印象的であるらしく、鎌倉のホテルでの一夜と並んで、この新潟泊りも、僕は明確に覚えていて、今でも早朝聴いた山鳩か仏法僧かは定かではなかったが、あの不思議な鳴き声を、そのときの時間と空気とともに生き生きと想い出すことができる。
 茶色い信濃川の下流の水は、日本海へ出てからも、しばらくはにじんだ混濁を残していたが、やがて深い紺碧の潮を純白の泡波で切り裂きながら、おけさ丸は北上し始めた。五〇〇排水トンぐらいの船だとは思うが、なかなか立派な船であった。赤い絨毯の敷かれた二等船室に一家は席をとっていたが、僕はデッキに出て潮風に吹かれているほうが気持よく、何も見えない北の海の向うに、これから行く島を想像し、学校のこと、人のことなど、漠然と考えながら、子供っぽい感傷に浸っていたように思う。
 夏の日本海は、台風でもこないかぎり、静かで穏やかだ。船べりは、自らが押し分ける波が大きいが、海全体はまるでなめらかな鏡のように、ギラギラと照りつける太陽を一面に受けて反射していた。ときどき走る船にそって、すいーっと飛魚が飛んでいた。
 空と海とが一つになる、ずうっと向うの水平線に、なんとなく見えるような、見えないような、うっすらとした陸地が見え出したのは、所要時間を半分ほど経過したころだっただろうか。それは、刻一刻、色の濃度を増し、輪郭を鮮明にしていった。大きい。いや、想像していたよりはるかに大きい島だぞ。これが佐渡を初めて見たときの印象であった。
 船室へ駆け降りて「佐渡が見えた! もうはっきり見えるよ!」と大声で叫ぶ僕の声を、睡眠中の人を憚ってか、母は大きくうなずきながら「シーッ」とたしなめた。妊娠中の母は、あまり動きたくなかったのか、デッキへ上がろうとはせず、船室の丸窓から外をのぞくそぶりをしたが、そんなところから見えるほどの距離でも、角度でもなかった。「沖ちゃん、みんなをデッキへ連れて上がって見せてあげなさい」といって、また横になってしまった。
 この航海中の僕の心境は、何だかわからないが責任重大だぞといった気持であった。会社の鳥井さんは、佐渡へ着いたらすぐ引返すということだし、子供の中で一番上の僕が頑張らなくっちゃといった自覚があったのだろう。そういうと、えらく恰好よく聞こえるが、たしかにそんな意識はあったようだ。あったようだが、しかし、その後、その僕が、母にもっとも苦労させることになるのである。だから、あまり威張れた話ではないのだが、僕の子供時代で初めての、責任感の意識であったことだけは事実である。
 ついに船室の丸窓からも佐渡が見えるほど、船は目的地に接近した。水津という小さな漁港で、松の木や岩肌が美しく、水は透明であった。その景色を眺める母の横顔を、今もはっきり覚えている。母としても、感慨深いものがあったのだろう。自分の両親の生地であり、多くの知人の出身地でもあるこの島を初めて見るわけだし、しかも、これから先、ここで六人の子供とともに新しい生活を始めなければならないのだったから。どんな生活が、そして、この先、どのくらいの期間、ここでの生活が続くのであろう。絶海の孤島としてのイメージしかもっていなかった母は、この時の不安な気持を後で僕に話してくれたのだった。
 船のPAスピーカーは、《佐渡おけさ》を鳴らしていた。「ありゃ、ありゃ、ありゃさ」。このムードにはまいった。それまで日本の民謡を、意識して聴いたことのない僕であった。大阪の帝塚山、鎌倉、東京の杉並と移り住んだ僕の生活環境には、この種の情緒はなかったのである。
 しかし、この《おけさ》を聴いた途端、僕の体内の血は湧いた。それは、なんとも強烈な刺激であった。強烈といっても、決してパルシヴで衝激的なパンチといった種類のものではない。もっと体内の奥深いところから、ぐぐっと鎌首をもたげるような、そして、そのままそれは体内に停って、決して外へ放出されないような、濃厚さといったほうが適切かもしれない。全く新しい心象の出現であった。
 しかし、明らかにこれは、どういうわけだか、僕の内に在って、眠っていた世界というべきものだった。それだけに、この開眼は初めから大変心地よいものだったのである。この新しい世界は、それから佐渡に生活した二年の間、ますます僕を虜にしてしまうことになる。その二年間は、僕の十三歳から十五歳という、育ち盛りの多感な前青春といってよい時期に当るだけに、僕の情緒の発育にとって、きわめて重要な要素となったはずである。我が人生を語るときに、絶対に無視できない二年間の佐渡時代の体験なのである。
 景色も新しかった。言葉も新しかった。島の人々も皆、僕には新しく見る人たちであった。そう、一言にしていえば、ひどい田舎である。猛烈な野暮といってもよかろう。しかし、僕にとって当時、幸いにもそうした感覚は生れなかったし、その環境に対する拒否反応も起ることはなかった。もともと順応性のある僕の性格は、子供であったことも幸いして、何の抵抗もなく、この佐渡の風土と人情、風習にどっぷりとつかっていったのであった。
《おけさ》はもちろん、《相川音頭》や《両津甚句》そして、他の地方の民謡の数々を、僕はすぐ覚えて歌い始めることになる。それだけではない。多くの流行歌や艶歌も知った。この環境に入ってしまえば、昔のように母も、下品な、といった表現で子供の好奇心を規制することはできなかったに違いない。
 僕たち家族が、半月ほどの旅館暮しの後、やっと落ち着いたところは、その佐渡の中でも、最も田舎といってよい西三川村というところであった。佐渡は、南北の山岳地帯と、それらの山にはさまれた中央の国中平野と呼ばれる平地の三つの部分からなっているが、僕たち一家の住んだ西三川村というのは、その南の山岳地帯の西側に位置する。そして、僕たちが借りて住んだ家は、山が海に迫り、バスの通れる県道が、そこの部分だけ海抜数メートルとなる低地の波打ち際に建っていた。海の風で、すっかり白っ茶けたガサガサの木造の二階家で、入口は県道に面し、裏は波打ち際までせいぜい五メートルといったところだった。もっとも、浜より二〜三メートルは石垣で高くなってはいたようだ。県道沿いに、三〜四十戸ほどの民家が建ち並ぶ、西三川村では最大の町で高崎という地名であった。いかにも高崎の宿といった感じであったが、ここに村役場、郵便局、農協会館などがあったから、間違いなくここは、西三川村のキャピタルであった。それでも、旅館が二軒、そのうち一軒は一日に四〜五便のバスの停留所を兼ね、村人の社交場のようになっていたのを想い出す。この町を西三川という川が流れ、その河口にもう一つ開拓と呼ばれる集落があった。
 この町に一家六人半が到着し、バスの停留所からその借家へ歩くほんのわずかな道すがら、僕たちの姿を見た人のほとんど全員が、好奇に満ちた眼差しでじっと見守り、あちらこちらに遊んでいた着物姿の子供たちは、たちまちぞろぞろと集まって、われわれの後から列をつくって、くっついて歩くありさまであった。妹などはすっかり気味悪がって、すくんでしまうほどであった。
 「惚れちゃいけない他国の人に、末は烏(カラス)の鳴き別れ」という《おけさ》の文句にあるように、この島では、島以外の人は他国の人であった。僕たち子供はともかく、母は一体どういう心境であったろう。この母が驚き、そして困ることは、この後続々と起るのである。