昭和十四年四月一日に小学校へ入学した僕は、相変らず、学校から帰ってくるとレコードが聴きたくて聴きたくてしかたがなかった。しかし、これも相変らず自由にいじることは許されず、それがますます僕の気持を募らせるようであった。
小学校で友達になった青木君、久下(くげ)君、前田君という三人のことを、今もって忘れることはできない。青木君は金持ちの息子で、小さくて茶目っ気のある奴。久下君はどちらかというと、それほど裕福な家庭ではなさそうだったが、大変頭のいい、勉強のできる奴。そして前田君は、身体の大きな、おっとりとした奴で、大きな家だったから、やはり金持ちだったのだろう。
このうち青木君は、僕が大学の頃に、どういうことでこちらの住所がわかったのか、手紙をもらった。こと細かに当時の思い出を綴ってくれて、とても懐しかったが、その後、音信不通である。久下君は、やはり大学時代に連絡をくれ、その後、ときどき手紙のやりとりをしていたが、大変な音楽ファンになっていた。前田君とは小学校二年の二学期から全く連絡は途絶えている。つまり、この大阪の小学校は、二年の一学期までで、二学期からは父の転勤で、僕の家族は鎌倉へ移転してしまったのである。だから、青木君、久下君と、その後連絡がとれたことのほうが不思議なぐらい。たった一年半足らずしかの子供のつきあいが、そんなに長く続くはずもない。
ところで、青木君の家へ初めて遊びに行った時のショックは忘れない。何だか凄く大きな家で、庭には大きな木がたくさん生えていた。盛夏だったと思うが、小さなわが家とちがって大変涼しかったことを思い出す。
驚いたことは、そこにあった大きな蓄音器と扇風器であった。蓄音器は何であったのか全く記憶はないし、だいたい当時の僕に、そんな知識はない。ただ、大きかったことだけは忘れない。しかし、それは手巻きであった。わが家の電蓄からすれば旧式のアコースティック蓄音器であった。ひょっとしたら、例のRCAのクレデンザかなにかだったのかもしれない。僕が羨ましかったのは、その蓄音器を彼が堂々と自分のもののように操っていたことである。今から思えばきっとその家の主、つまり青木君の父親にとっては、その蓄音器はそれほど大切なものではなかったのにちがいない。当時、金持ちの家には、ピアノと蓄音器が調度品としてあったものらしいのである。そして、何枚かのレコードは、お定まりのクラシックであった。西洋音楽が、教養主義のインテリのアクセサリーのようになっていた時代だったのだろう。青木君の家のレコードと蓄音器は、なんとなくそんな風情であった。
僕が蓄音器にばかりかじりついているので、青木君は不満そうであった。シャリアピンが歌ったムソルグスキーの《のみの唄》と《ボルガの舟唄》のカップリングされたレコードをかけてくれただけで、彼は興味を失ったらしいのである。僕はもっともっと聴きたかったのだが。彼は扇風器に指をあてて、ブルブル、ビーンビーンと羽音をたて鳴らすことのほうに夢中になっていたのをおぼえている。
この青木君は、しかし、針を指で支えて、レコードを引っかいても音が出るという不思議を僕に教えてくれたのである。僕にとって、これは大きな体験であった。家ではそんないたずらの機会がなかったから、ついぞ知らなかったことなのである。この時からなんとなく、もう一歩、レコードと蓄音器の仕掛けがわかったように感じられたのだから、子供のいたずらも馬鹿にならない。
チキチキ、チャーッと小さな蚊の鳴くような音だったが、一応、唄らしきものが聴こえる驚きは大きかった。音の大きなところはちゃんと抵抗が感じられ、その部分を見ると激しく溝が左右にぎざぎざ曲っている。指先には、ビリビリとヴァイブレーションが伝わってくる。ハハアーン、ナルホド、というような気になって、僕はますますレコードと蓄音器が好きになった。そして、扇風器の羽に紙片をあてて遊んでいる青木君の行為に、突如同じようなものを感じたのである。彼は自動車の音を模して楽しんでいたようだが、スタートしてスピードをあげていく様子が、羽の回転速度と一致しているという、馬鹿みたいに当り前のことに気がついたのだろう。僕はすっかり興奮してしまったようだ。
扇風器だ、蓄音器だなどと、読者にしたらばかばかしい話だろうが、これは当時の機械文明の最先端である。しかも、扇風器などというものは、現在のクーラーよりも普及率が低かったのではないかと思う。大変な贅沢品であった。もちろん、掃除器や電気冷蔵庫などは影も形もない時代だ。かろうじて、ラジオがなんとか普及レベルになったといえる時代だから(もちろんAM、それもきわめてプリミティブなゲルマニューム鉱石ラジオに毛が生えた程度のもの)推して知るべしである。機械は大変高価なもので高級なものであったのだ。
こういう時代に少年時代を過したというのは、幸せなことだったと思っている。生れた時から、クーラー、掃除器、TV、ステレオ、電気冷蔵庫等々が当り前のごとくあれば、ことさら好奇心も起きないだろうから、見てやろう、知ってやろうという気が薄くなるのは当然であろう。いきなりコンピューターじゃ、並の頭脳では手に負えない。ついつい、ひたすらただオペレーターということになりやすい。原理も仕掛けもわからぬままに使っているのは当然だ。それはそれで素晴らしいことで、頭を別の方向に使っていくことになるのだろう。
とにかく、僕の生れ育った時代には、何故? 何故? の連続で、その気になれば、なんとか理解のいく単純なメカニズムとエレキの世界であったから、今思えば、つまらないことに猛烈な情熱と時間をかけたように思うのである。
ところで、僕も並の少年であったから、人並に外での遊びにも興じていた。いや、むしろ、手に負えない腕白小僧であったらしい。
今度は、前田君との思い出に移ろう。前田君の家は、先に書いたように大きな家で、家の裏は広大な原っぱだか、畠だか、とにかくまったく自然の草ぼうぼうの空地であった。ある初夏の日、僕と前田君はとりもち竿をもって、とんぼ捕りに出かけた。当時は、今と違って、いたるところに、とんぼ、蝉などがいて、それも関西と関東では、種類が違っていたようだ。僕たちが「ジャンジャン」と呼んでいた熊蝉などは、東京ではあまり見かけなかったようだが、大阪にはやたらといた。大型の蝉で、胴は真黒、羽は透明で、文字通り「ジャンジャン」と鳴く。
とんぼも、大型の鬼やんまというのがたくさんいたようだ。まるで戦闘機の空中戦よろしく、無数のとんぽが大空を飛び交っていたのを思い出す。塩からとんぼ、麦わらとんぼ、赤とんぽなどが数では多かったが、鬼やんまの勇姿は、一際、こちらの捕獲意欲をあおったものだ。
指につばをつけながら、ベトベトのとりもち(あれは何で出来ていた接着剤なのか? 多分、膠質のものだったと思うが…)を竹竿にぐるぐるとねじりつけ、これでとんぼをひっつけるのである。前田君の庭で準備を終えた僕たちは、これを突き立てて裏の空地に突進した。数匹捕獲しているうちに、僕たちはかなり空地の奥深くへ入り込んでいたらしい。身体の大きい前田君のほうが、僕より十メートルほど先を走っていたようだ。
オッ! 来た来た。一匹の大きなやんまが僕の頭上を飛んでいる。僕は夢中になって、そいつを追う。上を向いてまっしぐら、全速力で追った。ついに、やんまにとりもちがベタッとついたという確かな手応えを味わったか味わわないかの一瞬、僕の足下がグラッと揺らいだ。あっと思った次の瞬間、僕は何かの穴へ落ち込んでしまった。身体中で受けたその感触は、今もって忘れられない。ズブーッ、ネチネチ、ヌメヌメ……。肥え溜めであった! 今の人は知らないだろうが、当時は、畠のそばの空地に穴を掘り、家々の便所から汲みとってきた糞尿を溜めて、肥料として使ったものだ。そのままでは生だから、肥料として使えないのだろう。しばらく肥え溜めで寝かせて使ったらしい。こともあろうに、地面から何の突起もなく、そのまま掘り落しの穴になっていたものが多い。このほうが汲み出すのに便利だからだろう。蓋もない。表面は乾いてバリバリになっているが、中は完全に粘液状である。
これへ、はまり込んだというわけだ。おそらく、走っている勢いで飛び込んだという形だったのだろう。ズボッと全身、頭までのめり込んだのである。その時は何が何だかわからず、夢中でもがいた。アップアップ。辛いの! 苦いの! 思わず呑み込んだらしい。目は痛いし、よく見えないし、手足は重くて自由に動かない。相当深いらしく、小学校一年の僕の背丈では底へ着かなかった。
急に僕がいなくなったことに気がついた前田君が、僕をそのいまわしい穴の中に発見するには、大して時間がかからなかったらしい。夢中で突き出す僕の手をがっちり把えて、引っ張った。しかし、重い。僕の方も、どこかへ足がかりをつけようとするのだが、ただヌルヌルと滑るばかり。悪戦苦闘とはこのことだ。さらに一口二口、呑みながら、もがきにもがき、ようやくのことで引きずり上げられた。全身ベトベトの僕と前田君は、思わずしっかり抱き合って、二人ともワァーとばかり泣いてしまった。「助かった!」
きたないことも、くさいことも全く感じなかった。前田君もベトベト。泣いていた僕たちは、やがておかしくて、泣き笑いに変っていたようだ。
前田君宅の井戸端で、頭から何杯水をかぶったか。冷静になって考えてみると、物凄い臭気と目の痛さ。医者へ連れていかれ、消毒。家へ帰って風呂で徹底的にクリーニング。それでも臭いはとれなかった。夜、帰宅した父から、僕はあわれにも「くさや」という仇名をつけられる始末。一週間ほど、わが家には悪臭が漂ったということだ……。
前田君、君は僕の命の恩人です。