器も味のうち
 器も味のうち、というのが以前からのわたくしの持論である。盃が変われば同じ酒の味も微妙に変わる。上等のスコッチ・ウイスキーのあの独特の風味と香りとこくを味わうには、どちらかと言えば小さな、握りしめたら割れてしまいそうなふちの薄い上質のクリスタル・グラスでなくてはならないとわたくしは確信しているが、残念ながら今日まで、理想にかなうグラスにめぐり会えずにいる。チェコ製の繊細なカットグラスも好きだが、これもなかなか気に入るものが見当らない。
 去年の暮、チェコ製のブランデーパイプなるものを偶然みつけて手に入れた。握るとちょうど手のひらに入ってしまうほどの小さな、どことなく昔の金魚鉢を思わせるとぼけた形のガラスの壺の底から、長さ一〇センチあまりのパイプが急な角度で生えていて、壺の底には、テーブルに置くこともできるように小さな脚が三方にひらいている。壺の中にブランデーを入れて掌に収めると、親指がちょうど壺の口に蓋をする格好になり、そうして次第に温まってくる中の液体を、細いパイプから少しずつ吸って味わうというのである。
 ブランデー・グラスについてはひとつの理想があって、それはしかし空想の中のものではなく、実際に手にしながら逃してしまった体験がある。もう十年近い昔になるだろうか。銀座のある店で何気なく手にとった大ぶりのブランデー・グラス。その感触が、まるで豊かに熟れた乳房そっくりで、思わずどきっとして頬に血が上った。乱暴に扱ったら粉々に砕けてしまいそうに脆い薄手のガラスでありながら、怖ろしいほど軽く柔らかく、しかも豊かに官能的な肌ざわりだった。あんなすばらしいグラスはめったに無いものであることは今にして思い知るのだが、それよりも、当時、一個六千円のグラスはわたくしには買えなかった。ああいうとりすました店で一個だけ売ってくれは、いまなら言えるが、懐中が乏しいときにはかえって言い出せないものである。いまでもあの感触は、まるで手のひらに張りついたように記憶に残っている。
 そういうグラスとくらべれば、去年買ったブランデー・パイプなど、どちらかといえば邪道なのだろうが、この、吸口と三本の脚と壺の口のところが青いガラスの変てこなパイプは、ブランデーのまた別の味わいを教えてくれて楽しい。煙草というものが大嫌いなくせにパイプの似合う人をうらやましく思うわたくしには、このパイプは、仕事の手を休めたときの格好なおもちゃになってくれる。
 レコードで音楽を聴くことに行き詰まりを感じたら、スピーカーでもアンプでもカートリッジでも、あるいはリスニングルームも含めて、ともかく再生装置の一部を変えてみるのは、意外に新鮮な刺激になる。むろん、こういう言い方にたいへんな危険があることは承知している。しかし、オーディオに限らず、何かの道具の介在によってひらける趣味の世界では、道具を変えてみるというのは、ときどき必要なことのように思われる。しかしそれは決して、次から次と装置の遍歴をくりかえせという意味ではない。
 ある写真家が、創作に行き詰まったときはカメラを変えてみるのもひとつの方法、と語っている。これもまた誤解されやすい危険な言い回しだが、いまのわたくしには痛いほどこのことがわかる。酒は器で味わうものだ。器は同じ酒の味を別もののように変える。それなら、自分にぴったり合った器にめぐり会えないで、どうして自分に合った酒の味わい方ができるか。そうして、自分に合う器とめぐり会うためには、結局、あれこれと器をくらべる遍歴をくりかえさなくてはならない。しかもうっかり通り過ぎた器の中に、あのときのあれが自分の求める器だったと後から気づくことがある。これがもし、相手が人間だったら、どれほど辛い思い出だろうか。幸いなことに、工業製品は大量に作られるだけに、そういう辛い思いを比較的しないで住む。もう二度とめぐり会えないなどということは、工業製品についてはあまりあてはまらない。
 むかしたった一度聴いただけで、もう再び聴けないかと思っていたJBLのハーツフィールドを、最近になって聴くことができた。このスピーカーは、永いあいだわたくしのイメージの中での終着駅であった。求める音の最高の理想を、鳴らしてくれる筈のスピーカーであった。そして、完全な形とは言えないながら、このT理想Uのスピーカーの音を聴き、いまにして、残酷にもハーツフィールドは、わたくしの求める音でないことを教えてくれた。どういう状態で聴こうが、自分の求めるものかそうでないかは、直感が嗅ぎ分ける。いままで何度もそうしてわたくしは自分のスピーカーを選んできた。そういうスピーカーの一部には惚れ込みながら、どうしても満たされない何かを、ほとんど記憶に残っていない――それだけに理想を託しやすい――ハーツフィールドに望んだのは、まあ自然の成行きだったろう。いま、しょせんこのスピーカーの音は自分とは無縁のものだったと悟らされたわたくしの心中は複雑である。ここまで来てみて、ようやく、自分の体質がイギリスの音、しかし古いそれではなく、BBCのモニター・スピーカー以降の新しいゼネレイションの方向に合っていることが確認できた。(註)
 器も味のうち。そのT器Uに対して、こういう求め方を、わたくしはする人間である。要するに趣味というものを比較的厳格に考える。ものごとをとことんまでつきつめて考え、実行するところに、ほんとうの楽しさを見出すのが趣味の極地だと考えている。
 こういう形での物事への接し方を、まるで日本人だけの悪い特性であるかのように言う人がある。しかしそれなら、とわたくしは反問したい。たとえばSMEのアームが、どうしてイギリスで生まれたか。マッキントッシュは、なぜアメリカで生まれたか。ハッセルブラッドがスウェーデンで、ライカがドイツで、パテック・フィリップは、なぜ、スイスに生まれたか。ポルシェは? ロータスは? ダンヒルは?……。
 例をあげればきりがない。SMEもマッキントッシュもハッセルブラッドもライカも、それぞれ、最初は、制作者が自分のために手造りで作り上げたメカニズムである。趣味の極致から生まれ、年月をかけてねり上げられ改良を加えられた製品、こんにち、それぞれの分野での最高峰としてそびえている製品をみれば、趣味の極み、洗練の極みを求める心は、洋の東西を問わず、およそ人間の文化の究極の形をとって現われてくることがわかる。これを単に物質文化とかたづける人は、優れた製品は優れた人間の精神の所産であることを知らない人たちである。
 ものを創るでも選ぶでも味わうでもいい。文学でも美術でも、何でもいい。人間の生み育てた文化どれひとつとりあげてみても、ひとつの物事をつきつめて考えたり味わったり選び分けたり創造したりしてゆくプロセスに真剣であれば、必ず、ある種の狂気に似た感情を経験するので、またそういうところを通り抜けた人にだけ、物は、ほんとうの姿をみせてくれる。永い年月の積み重ねと暗中模索と失敗のくりかえしが、それを教えてくれる。本ものを創り、選び、使いこなすのは、そういう体験を経た人に限られると言っても言いすぎではないだろう。しかしそれはいかに努力の要ることか。
 土門拳氏が、おもしろい話を書いている。戦争末期のある時期に、土門氏は、金森徳次郎博士の部下として働いていた。土門氏が写真家であることをある日知った金森博士は、吐き捨てるように言う。「写真なんてくだらないよ。男子一生の仕事に値しないよ。わたしは三年半というもの、写真を夢中でやった。撮影、現像、引伸、押入暗室で、それこそ夜を徹してやったものだ。しかし三年半続けているうちに、写真というものがすっかりわかった。しょせんこれは芸術ではないとね。それでプッツリやめた。写真なんて下らないものだよ」。部下であった土門氏は上司には反論できず、その忿懣をあとになってこう書いている。「しかしわたくしは言いたい。金森氏は写真はすっかりわかったというが、何がわかったというのか。写真は金森氏がプッツリやめたところから、本当にはじまるのである。金森氏が写真を見捨てた遥か先に本当の写真が、あったのである。」(以上「ニッコールレンズ読本」六七/六八年版より引用)
 人間、理に傾けば情がおろそかになり、情に頼れば理にうとくなりやすい。この点で人間のキャパシティというものには大きな差がないように思う。金森博士ほどの学者が三年半を夢中になっても、所詮、土門拳氏の足もとに及ばなかった。それでも三年半を夢中になったところは、わたくしなどにはうれしい。それにくらべ、自分でやってみもせずに、まして凝ってみもせずに、ものに凝る人間の心理など少しも理解せずに、音キチは音しか聴かないの、レコードを買わないの、音楽を知らないのなどとしたり顔でこき下ろすエセ知識人、エセ文化人が近ごろ増えてきたのは嘆かわしい。
 生活の中の音楽、だとか、消費者のためのステレオ知識、だのという話は、つまり趣味とは別の実用の領域での話であり、それはここに書こうとしていることとは無縁の話である。
 むろんわたくしだって、実用としてのステレオや実用としてのレコード音楽の存在することは認めている。むしろ、多くの場合、ステレオは単にレコードやFMやテープによって音楽を楽しむ、それも日常生活の中で音楽を鳴らすための実用の道具であるほうが重要だろう。そしてわたくしも日常は、フィリップスのRH493という小型のスピーカーでFMを流したり、ちょっとレコードを鳴らしたりということが少なくない。それはそれで楽しい音楽の聴き方で、そういうスピーカーから鳴る音楽の質が、JBLの3ウェイやBBCモニター・スピーカーから出てくる音にくらべて劣るなどとは全然考えたこともない。けれどそれは趣味としてのオーディオではない。わたくしにとって、趣味とは、あくまで日常の生活の流れを一切断ち切った所から始まるすばらしい虚構の世界、なのであって、そこはすべてを忘れて没入できる無我の世界であるべきなのだ。そして、洋の東西を問わず人種を問わず、およそ文化のあるところ、人間の趣味の極め方に本質的な違いは無いと、わたくしは信じている。そういうすばらしい世界こそ、趣味というものの極み、いや、おそらく人間の作り出した物事すべての究極なのだろうと思う。そういう話を、わたくしはオーディオについてだけしか、語れないが、おそらくそれは土門拳氏の語る写真の世界と、本質に於てまったく同じであろう。

 オーディオの趣味とは、しょせんメカニズムとそこから得られる音
 オーディオのメカニズムをあれこれいじり、そこから出る音を改良する。その結果、音楽もまたよりよく聴こえるようになるというが、それは嘘だ。音楽そのものは、音質のよしあしとは直接の関係がないものだ。音質が音楽を良くするなら、フルトヴェングラーの古いモノーラルの感銘をどう説明するのか。オーディオの趣味は、メカニズムとそこから出る音の改良、にとどめを刺すのである。
 だが現実に――と反論が出る筈だ。あるスピーカーではピアノが金属的に聴こえ、 オーケストラの内声部が聴きとれない。そういう状態では音楽は聴けない、と。しかしわたくしは、音質が悪くてもかまわないなどとは言っていない。それだからいま、実用と趣味とをはっきり分けたので、ピアノがまともに鳴らないというのは、しょせん実用の世界での、しかも論外の話なのである。はっきり言わせて頂くが、いま市販されているコンポーネントのパーツの大半は、およそ趣味の領域のしろものでなく、つまりは生活の中の音楽のための、いわば実用の製品である。実用ということを、趣味に比較して高いとか低いとか言おうとしているのではない。わたくし自身が、むしろさきに書いた実用の装置の方で、音楽をより深く楽しむことが多いのだから、実用のステレオというものを軽視しようというつもりは毛頭もありはしない。たとえば洗濯機がいかに汚れをきれいに落とすか、とか、クーラーがどれほど効率よく冷やすか、というのと同じように、実用としてのステレオは、音のレンジとか歪率とか微妙な味わいという面を抜きにしてでも、ピアノがピアノらしいバランスで聴こえるか、オーケストラのパートのバランスをいかに正しく再生するかという面で判断されるのであって、そういう意味では、コンポーネント用として作られた大じかけなスピーカーよりも、カーステレオや、ときにはテレビ、ラジオ用の何でもないスピーカーの音の方に、よほど音楽の本質をとらえた製品があることは、日常体験するとおりである。そして、世間の大半の人たちが、そうした実用としての音響機器によって、深い音楽体験を持つ。
 それに対して、趣味としてのオーディオは、究極、オーディオのメカニズムとその鳴らす音の魅力に尽きると思う。メカニズムの魅力と音の魔力にとらえられて、つまりは音キチに徹することが、オーディオの道楽そのものだと言ってしまってよいように思う。
 しかしいままでは、この、実用と趣味の区別がはっきりしていなかった。音楽が好きで、それをレコードやFMやテープで聴きたくて、そのためにオーディオ装置を揃えたいと思う。そしてパーツを物色する。そういう人たちがみずからオーディオ・マニアになったと勘ちがいし、われわれもそれをオーディオ・マニアの仲間だとうかつにも誤解したところに、こんにちの混乱が生じた。費用にくらべて少しでも良い性能の機械を手に入れたい。これは何もオーディオでなくたって、テレビでも冷蔵庫でもクーラーでも変わりはない。あたりまえすぎる話だ。おびただしい数の商品の中から、選択の目安とするための商品テストや製品のガイドが雑誌の記事になる。これもあたりまえだ。むしろあたりまえでないことは、そうした実用としての性格を帯びたパーツやそれによって組み立てたコンポーネントが、即、趣味の領域へのパスポートであるかのように思い込む誤解である。くりかえして言うが、わたくしは、そうした実用の面がいまや重要であることを十二分に認めている。その上で、実用と趣味の区別を、いま、ここで明白にさせるべきだと考える。少なくとも、この小文を、そのきっかけにしたいと考える。
 では実用と趣味とは、何が、どう、違うのか。

 腹が空いたから食べるのか、味わうために食べるのか
 古代ポンペイの貴族たちは、飢えのためにではなく、味覚のために飲み、食べた。それはかなり徹底したものだったと伝えられる。貴族の食堂の隣りには吐き室とでもいう部屋があって、彼等は、腹がふくれるとその部屋に行って胃袋を空にしては、また食べつづけたというのである。若い貴婦人が吐いている図というものを、現代のわれわれはもはや美的に想像することができないが、たぶん彼女は、きわめて優雅な身のこなしで軽々とそれをやってのけたにちがいない。おそらく、便意を催すよりもそれはよほど上品な、貴族のたしなみのひとつだったのだろう。
 下って十八世紀のフランス人に、ブリア・サヴァランという、ガストロノミー(美味学)を提唱し、それについて一冊の分厚い書物を認めた食いしん坊がいる(日本語訳=「美味礼賛」関根秀雄訳・白水社)。ポンペイの貴族たちにもブリア・サヴァランにも、その他のもろもろの食いしん坊たちにも共通していることは、彼らは腹をふくらませるために食べるのでなく、酔うために飲むのでもなく、ただひたすら、自らの味覚を満足させるために、飲みかつ食らうのである。むろんポンペイの優雅な風習が失われたこんにちでは、飲食の結果として当然、腹がふくれざるを得なくなる。食いしん坊はそこで仕方なく、胃の中の食物がこなれるまでの数時間を、じっと我慢するのである。
 わたくしの身のまわりにも、この手の食いしん坊が多い。たとえば知人のH氏。この人と晩餐を共にするときには、わたくしにとって最も楽しいひとときなのだが、そのとき出る話題のひとつは決まっている。彼の説によれば、自分が衰えのない確かな感覚で晩めしを味わうことのできるのは、あと三十年だろう。数にしてざっと一万回あまりだ。そして、今夜この食事が済めば、残りは九九九九回になってしまう。しかも残りの九九九九回の中で、ほんとうにうまいと思える食事が、三分の一もあるだろうか。どうも十回に一回ぐらいのように思われる。すると君、うまい晩めしは、一生のうちに、あと九百回しか食えないんですよ。一大事ですよ、これは。
 たとえば外出先で食事時間になると、そわそわして落ちつかないという人がよくある。これもまた、まかりまちがってまずい食事で腹をふくらませようものなら、その日一日不機嫌という人種である。ひとりの友人は、そばとカレーが大好物のくせに、おもて向きはそのどちらも、いちばん嫌いな食べ物だということになっている。
「だってそうだろう。そばとカレーは、どこでも気軽に出前してくれるんだぜ。会社の昼飯どきに出前でとってくれるようなそばやカレーに、うまいのがあるかってんだよ」
 しかし食いしん坊という人種は、常にうまいものばかり選んで食べているわけではない。きょう日、そんなことしていたら一日が暮れてしまうほど、うまい店は少なくなっている。たったいま、最上級の料亭で食事を済まして表に出ると、暗い通りに鯛焼きの提灯がみえる。はいよっとのれんを分けて、おお熱っ、と鯛焼きを頬張る、というのが本ものの食いしん坊なのだそうだ。その話をしてくれたのは、われわれ仲間でも食いしん坊の横綱で有名な山中敬三という男である。
 もう二〜三年前、上野の文化会館で何かの演奏会の始まる前のことである。文化会館の食堂というのは、食事がうまくないので有名だ。だからわたくしは、コーヒーにアップル・パイか何かで一時しのぎをしていたのだが、ひょいとみると二〜三卓向こうのテーブルで、スプーンに大盛りの炒飯をひょい、ひょい、と口に放り込んでいる男があって、それは食べているというよりも、まるで汽車の罐炊きがボイラーに石炭を放り込むといった様子で、思わずあっけにとられたが、それが山中敬三氏だった。よくあんなまずい飯が食えるなとわたくしが下らない質問をすると、彼いわく、なに、味なんかわかるもんか、腹をふくらましただけさ。
 趣味と実用との、極端な例をあげたにすぎないが、まあ食事などというもの、たいていの場合、この両極の中間でどうやら妥協しているというのが実情だろう。  さて、オーディオの趣味はどうか。
 メカニズム、と音、と簡単に二分したものの、わが身をふりかえってみても、オーディオの楽しみは実に複雑かつ多岐に渡っている。随時友人達にも登場ねがいながら、以下、アラカルトふうに綴ってみる。

 メカニズムを選ぶまでの楽しみ
 菅野邦彦というジャズ・ピアニストをご存知だろうか。レコードもあまり無いし、派手なことの嫌いな人だから、それほど人に知られてはいないだろうが、日本には珍しく美しい音を持って、実にリリカルでファンタジックで、何とかこの人の演奏をもっと残したいと考えて、最近になって会員制の限定盤で、すばらしいアルバムができ上った。名前からご想像のつくように、われらの友人菅野沖彦氏の令弟である。したがってむろん録音は沖彦兄、制作はオーディオ・ラボである。しかしこのレコードの宣伝をするのが目的ではない。
 ジャケットの裏の沖彦氏の解説からも窺われるように、沖彦氏はこの令弟のピアノに惚れ切っている。そして、そういう兄の口から、弟のうわさ話を聞くのがわたくしは楽しい。
「あいつは変わった奴でね(――これが枕詞みたいなものだが――)、何か欲しいものができると、それが手に入るまで何枚でも絵を描くんだよ。いまのサンダーバードを買ったときだって、買えるまでは毎日絵だよ。おんなじ絵を、いろんな角度から何枚も描く。それを枕元にうず高くつみ上げて寝やがんの。ものが手に入るころには、ざっとこんな高さ(彼はそこで二〇センチぐらいを示す)になるんだ」
 わたくしにも同じ性癖がある。グッドマンのアキシオム80、マランツの7型プリアンプ、JBLの175や375や075や、そしてSG520やSE400や、EMTやアンペックス440や、あるいはライカM3や、それらの欲しくてたまらなかった品々を、入手できるまではずいぶん絵に描いた。とても邦彦氏の分量には及ばないけれど。
 絵を描くといっても、たとえばプリアンプ一台描いてみると、スイッチやツマミの形やプロポーションや、その機能までを詳細に描くためには、その製品についてのくわしい知識が無くてはならないことがわかる。現物のあるものは、そのディテールを頭にたたき込むまでウインドーを覗きに通うし、現物の無いものは、雑誌やカタログをできるだけ数多く集めてきて、不鮮明な印刷の写真から、少しずつイメージを修整する。むろん、パネル表面ばかりでなく、背面の端子類の並び方も、調べられるかぎり調べる。回路図も入手できれば調べるし、むろんスペック(規格)はすべて暗記してしまう。それらを自分の手で書き直すことによって、細部の記憶はさらに確実さを増す。
 何カ月も、ときには何年も、そんなことをくりかえすのだから、ようやく現物が手に入ったころには、もうすっかり使い馴れたという手つきでスラスラと扱えるようになっている。あるカメラの場合がそうだった。初めて手にとるのに、いきなり馴れた調子で自在に扱うものだから、「前に使っていたことがあるんですか」とカメラ屋の主人が言う。どういたしまして、実物大の絵をいろんな方向から何枚も描いていれば、手にとったときの感触まで、ありありと想像できるようになっているものなんだ。
 買うまでに、雑誌やカタログで、活字や写真や図によって研究する。他人の評価も、その製品がどういう性格を持っているかの解説だと思って楽しんで読めば腹も立たない。読んで腹を立てるのも楽しみのうちかもしれないが。
 そして読み、考え、比較検討する。この段階でイメージが十分でき上ったら、いよいよ店頭へ眺めに出かける。最初は見るだけ。次の日は触ってみる。そこで試聴に移る。しかし試聴はわたくしの場合あまり重要ではない。というのは、先に書いたような時間をかけた比較検討をくりかえしているうちに、実用の範囲を出ない、つまり趣味としてこれから手もとにおいて長く使いこなし味わうに耐えられない製品は、たいていの場合、紙の上での比較、店頭での実物の比較の段階ですでに落第するものだから。
 良い製品は必ず良い形をしている、という。ルックスとかカッコいいという類の浅薄な話でなく、永いあいだ眺めるに耐える、言うに言われぬ味わいを持っている。ウインドーで毎日のように眺め、毎日のように比較をくりかえしていても、飽きのこない深い美しさを持っている。オーディオに限った話ではない。ほんとうに優れた精神が作りあげた製品には、中から美しさがにじみ出てくるものだ。美しい精神を、外観が覆い隠しておける筈がない。一流の製品がみな美しい形をしていることが、それを証明している。廉価な製品は内容で手いっぱいで、外観にまで手が廻らないというのは言い逃れにすぎないので、くりかえして言うが器もまた味のうち。
 製品の内容に誇りを持っている設計者が、粗末な外観を許すわけがない。たとえ素材に金がかけられなくとも、その枠の中で精いっぱいくふうするのが知恵というものだ。目先をチラチラ飾ろうとするから、かえっていいものができなくなる。外観を華美に飾っても、精神の貧困は必ず形に現われる。そういう製品を、まともな判断力を持った人が、長い年月、手もとに置けるわけはない。
 オーディオ・パーツの楽しみの中でも、この、眺め、触れる、たとえ音を出さないでもメカニズムの美しさだけで満ち足りるというような、いわば音の無いオーディオの世界というのは、これだけで独立した楽しみなのだ。
 眺める、という言い方では不十分かもしれない。それなら、音楽家がいかに楽器を大切にするか、職人がいかに道具を大切にするか、を考えてみればいい。自分にとって、ほんとうに良い音を鳴らしてくれるこれらの道具を、いとおしく思わずにいられる筈がない。
 昨年の初夏、あるツアーで木村伊兵衛氏とドイツへ旅したとき、移動するバスの中で、時間があれば木村氏は愛用のカメラをていねいに磨いておられた。それは、長旅のたいくつしのぎというようなものではなく、ほんとうに隅から隅まで、やわらかな布で、いかにも慈しむように磨くのである。わたくしはそこに、木村伊兵衛氏の写真の秘密を見たように思った。
 どうも、聴く、ということそのものが重要でないようなふうになってきたが、人一倍音にうるさいつもりのわたくしが、音などどうでもよいなどと言うはずはない。ただ、店頭やショールームでの比較は、単にダメ押しの意味での確認にすぎないと言いたいのである。
 市販されたばかりの製品、或いは初めて入荷した輸入品ならいざしらず、情報の豊かなこんにちでは、ほとんどのオーディオ・パーツの音質の傾向は、数多くのオーディオ誌の紹介やテストを通じて広く知られている。そしてその中のいくつかの代表的な製品の音を、友人のセットを聴くとか店頭やショールームで聴くなどしていれば、まだ聴いていない製品の音の傾向は、活字を通してでもだいたいのところは想像できる。むろんわたくしは原則論を言っているので、現実の紹介記事の中に、そういう特徴をはっきり掴めない文章があるといったことは、また別の問題である。
 いずれにせよ、あれこれ迷いながら、パーツを選ぶまでというのは、オーディオの楽しみの中でもかなり重要な部分を占める。パーツを物色し買うまでのプロセスには、雑誌を読みくらべ、カタログを比較し、パーツに触れ、眺め、音を聴きくらべ、それを友人たちや専門店の係員と論じたり語り合ったりする、いろいろな楽しみがある。オーディオばかりでない。あらゆるものすべて、実際に手に入れてからよりも、入手するまでのプロセスの方が、えてしておもしろいというのがほんとうのようだ。

 使いこなしの楽しみ
 仮に、店頭やショールームや、さらには友人の家で時間をかけ、ひとつのスピーカーの音をよほど聴き込んだつもりになったとしても、そしてそのスピーカーを自分も買ったとして、しかし自宅で鳴る――自分で鳴らす――音は、それまでに聴いてきた音は別ものの筈だ。また、そういうぐあいに鳴らすべき筈のもので、それを指して、その人の音、などと言う。物理的には、鳴らす部屋が違い、置き方に独特のくふうがあり、彼自身のレベルセットや音量や音質のコントロールがあり、アンプやプレイヤーが違い、彼のプログラムソースがあれば、同じ音はふたつと無いことぐらい簡単に理解できる。がしかし、そういう違いをずっと越えたところに、よくは分らないが、その人の鳴らし方、その人の音、というのが微妙に現われてくるように思われ、そういうところまで鳴らし込んではじめて、パーツを使いこなした、と言えるようになる。そんな音は、つまりは店頭や友人の家での試聴からは予想もつかないものなので、むしろもっと飛躍して言えば、あるスピーカーの音をどんな環境で聴かされようが、自分の心に訴えかけてくる音は必ず探し出せるものであり、さらに、そのスピーカーを自分ならきっとこういう音質に鳴らしてみせるという直感のようなものさえ生まれてくる。つまりやがて鳴るであろう音が、現実にそこで鳴っている音に重畳して頭の中で鳴り始める。そうした直感を誘発するのは、極端な話、実際に音を聴こうが聴くまいがそんなことには関係のない場合が多いので、心に響くときはカタログの数字からでも音は聴こえてくる。断っておくが、そういう直感は、先にも書いたある狂気の体験をくぐり抜けてこないと培われないもので、やはり失敗のくりかえしから生まれてくるもののようだ。
 自分がよく音を知り尽くしているつもりのスピーカーを、たとえば友人がまったく違った、しかもよい音で鳴らしているのを聴いたときのショックは大きい。スピーカー・エンクロージュアを自作せざるをえなかったころは、こういう体験がよくあった。エンクロージュアの設計と作りの成否は、スピーカー・システムの成否であり、装置全体の成否でもあった。
 いかに失敗をくりかえしても、性懲りもなく、まだ鳴らない音を頭に浮かべて音の遍歴を続けてゆく。つまり、スピーカーから出る本ものの美しい音にはそのくらいの魅力がある。あるいはそういう体験の積み重ねによって自分の音のイメージが次第に固まって、いつかはその音が自分のこの部屋で鳴るという予感は、後戻りできないような魔力があるのだろう。一度でもいい。ステレオの左右のスピーカーの中間に、ふわりと音像が浮かび、部屋の壁がとり払われて向こうにズラリとオーケストラが並んだプレゼンスを体験してごんなさい。そのときから、あなたのオーディオ観、レコード観は一変する。

 音を聴く楽しみ、聴かせる楽しみ
 いま、はからずも書いたように、ステレオのスピーカーからの音の鳴らし方に、やはり一人一人の癖がある。ひっそりと静まりかえった部屋の中に、音がしっかりと充満し、やがて演奏者の息づかいを感じるほどの演奏の気配を再現する。そういうプレゼンスを再生音に求めるのは、わたくしの聴き方の癖である。音質は、やや細め。むしろシャープで潔癖なほど澄明で、楽器のどんな細かな音も解像して鳴らす音――。
 全然逆の人もある。解像力よりは積み重なった音の厚みを、気配よりも圧倒される迫力を、シャープさよりも腰のすわった分厚さを、求める人がある。
 音量だけとっても、思い切りパワーを上げる人。反対にどんなフォルティシモでも会話のじゃまをしないくらいに絞った音量で鳴らす人。こういうところに、意外に隠れていたその人の性格が現われる。どんな鳴らし方をしても、その人の心が写し出されると知ってくると、自分の性格も心もおそらくそっくり写し出しているであろう自分の装置の音を、やたらな人に聴かせるのが怖くなってくる。
 K――氏というオーディオ研究家は、自分の装置の音を五分以上聴かせないという伝説があった。といって客人を五分で追い返すわけではない。独特の、人を惹きつけるような話題で二時間も三時間もおもしろい話が続く。客はいい加減しびれを切らし、おそるおそる、ひとつ音を、とお願いすると、選り抜かれたレコードの聴かせどころだけ、さっと鳴らして、はい、おしまい。この人の装置は、ちょっと類のないひっそりと美しい音なのに、それをこういう聴かせ方をすると、いやが上にも美しく聴こえる。腹八分目どころか、口をつけたかつけないうちに皿を下げられたよう。もの足りないが、かえって印象が深く刻みつけられる。オーディオ屋さんに変わりものが多いが、この人など、ことさら変わり種と言えようか。自分の音に自信のない方、真似してごらんなさい。
 N――氏の鳴らし方は、これとまったく対照的だった。人に聴かせるレコードのメニューが決まっていて、フルコース、ひと通り聴かせなくては客を帰さない。ピアノはこう、弦はこのとおり、管はこう、これがヴォーカル、はいコーラス、次はオーケストラ、そしてピアノコンチェルト……と延々と続くのである。これなどは、どちらかといえばいわゆるマニアの典型、といえるだろう。
 いずれの聴かせ方にしても、やっぱりオーディオ・マニアといわれる人種、自分の嫌いでないお客には、音を(あるいは話を)聴いてもらうのが大きな楽しみのうち、じゃないんだろうか。ただし、わたくし自身に関して言えば、ひと様に聴いていただいているときの音楽は、まあ上の空。やっぱり自分一人で気ままに聴かなくては、音楽は耳に入ってこないようだ。

 パーツを集める楽しみ
 オーディオ道楽も何年か続くと、スピーカーもアンプもカートリッジも、グレードアップのために交換する機械が増える。おもしろいもので、そうなると本質的にコレクター的性格の人がはっきり際立ってくる。
 わたくしの友人では、菅野沖彦氏はコレクション趣味のあまり無い方の型と言えそうだ。古いパーツ、使わなくなったパーツを惜しげもなく捨ててゆく。いろいろな分野を眺めると、どうやら、本質的にクリエイター的な性格の人には、コレクター趣味が無い場合が多いらしい。常に前向きの姿勢で、新しいものに目を開いていることが、クリエイターのひとつの条件であるなら、とうぜん古いものは切り捨ててゆく姿勢になる。
 これと対照的に、ディレッタント的性向の人は、古いパーツを大切に慈しむ。山中敬三氏は、ここ数年のあいだにこの傾向をあきらかにしはじめて、われわれ古い友人をあきれさせている。彼の部屋は、訪れるたびにコレクションが増えて、このまでゆくと、やがて彼自身の坐るところが無くなってしまうだろうというのが専らのうわさである。
 オーディオにかぎらず、時計、カメラ、自動車などには、中古品を売ったり買ったりという楽しみがある。むしろオーディオがその面では遅れていると言ってもいい。カメラや自動車や、時計その他の道具類は、中古品売買のマーケットが確立している。オーディオも、アメリカあたりではかなりしっかりした中古市場があって、雑誌一冊分ほどの中古相場表が毎月発行されているほどだが、日本ではまだこれからというところで、もっぱら新品販売店の下取りセールとか、雑誌の交換欄などがその目的にあてられている。
 中古品の売買には三つの目的がある。
 第一にはコレクション。かつて自分が欲しいと思いながら入手し損ねた品物、そしてもう製造されていない品物を中古市場に求めるというもの。美術・骨董はその最たるものだ。
 第二は、自分のパーツを手軽に交換できる楽しみ。うまくゆくと、大きな現金を用意しないでも、気に入ったパーツと交換できるというメリットがある。
 第三は、新しいパーツに買ってみたいものができたとき、不要になったパーツを売り払って、新品購入の足しにしようという、まあ実益本位の目的。
 中古市場、などと大げさな場でなくとも、オーディオ・ファンの仲間同志、けっこう手近なところでパーツを行ったり来たりさせて楽しんでいる例は、近ごろことに増えているようだ。これもまた、オーディオの楽しみのうち、であることは、自動車やカメラの場合とまったく同様である。

 改造の楽しみ
 オーディオ・パーツは、機械工学と電子工学の産物だから、機械の専門家、電気の専門家からみると、ことに多かれ少なかれ妥協の結果である商品をみると、その方面にくわしい人ほど、欠点が目について、それを改良してみたくなるらしい。実のところ、アマチュアの目から見た欠点というものの大半は、製品としてのバランスという広い視野からみると、必ずしも欠点であるとは限らないのであるが、或いはまた、欠点を知って手を加えてみると、それが実は重要なひとつの性格であってかえってめちゃめちゃに原形を壊してしまうこともあるのだが、改造すべきだと確信を持った本人にはそんなことは一切無関係。やってみるまで気が済まない。
 むかしわれわれも、ラジオ雑誌の記事を頼りにスピーカーのダンパーを切りとって木綿糸で吊ってみたり、エッジを破り捨ててネルの布に張りかえたり、ホーン・トゥイーターをバラして樹脂の振動板の代りにアルミ箔のダイアフラムを自作したり、およそ手を加えられるあらゆるいたずらを経験した。もちろんいまと違ってパーツ自体の性能も不十分だったから、ある場合、改造は有効な手段となった。けれど、あらゆる事物、メリットのうらには必ずデメリットあり、の鉄則どおり、フラフラに改造したスピーカーは耐入力が悪くなり、ピックアップの振動系そのままでダンパーを削れば高音域にピークが生じ、というように、多くの場合、完成品に手を加えることは、かえって逆効果だった。
 ただひとつ。自分がひとつの技術体系で勉強して、自分なりの確信を持って改造すると、その結果の第三者の評価は別として、改造の手を下した本人には、必ずそれが前よりも良い音になったように聴こえるものである。
 これは、創造できる人間に許された美しい錯覚だろう。そしてそれは、改造より一歩進めて、パーツの自作に成功したときにいっそう感動的なものに高められる。
 改造というと思い出すのだが、中には、ほんとうの変人が居て、これはもう音響学や物理学の理論ではなくて、ふつうの頭では理解できないようなT改造Uをなさる。
 ある人、そういう自称オーソリティに装置を作ってもらった。どうという変哲もなかったのだが、何かの拍子に、スピーカー・エンクロージュアの中で何やら妙な物音のすることに気がついて、怖る怖る裏蓋をあけてみたらば、中からどういうわけか、松ぼっくりと煙草の銀紙がしこたま出てきたのだそうだ。オーソリティ氏がいかなる考えのもとにこのT改造Uをしたのか、いまでもわたくしたちのあいだで、思い出したように笑い話になる。そして、松ぼっくりは吸音材で、タバコの銀紙は反射材のつもりだったんだろうね、という結論になって、大笑いして別の話題に移るのである。オーディオ界というところ、いろいろと不思議な人が現われるもののようだ。
 まあ、こんな例は極端としても、買ってきたパーツのどこか些細な一部でも、何かしら自分の創意工夫で手を加えないと気の済まない人が、確かにいる。その逆に、元封主義というのか、店頭で一度でも梱包を開いたものは絶対に買わないという人がある。どちらも一種の軽微な神経症なのかもしれないが、これが趣味の世界には意外に多い。

 自作の楽しみ
 わたくしのオーディオの仲間たち、ほとんどが、少なくとも昭和三十年代の半ばごろまでは、アンプは自作するのが常識だった。中にはスピーカーもアームもカートリッジも作った男がある。3モーターのテープデッキも、作らなくては手に入らなかった。
 決して売ってなかったわけではない。一九五〇年代、すでに欧米には、いまでも一線で通用する高級なオーディオ・パーツがいくらも作られていた。ただ、いまと違って輸入品にはきびしい制約があった上に、ひどく高価で、たとえば大学卒の初任給が数千円台の時代に、タンノイの一五インチのユニットだけが十五万円とも二十万円とも言われた時代だから、学生や若いサラリーマンのオーディオ・ファンには、高嶺の花、なんていうものじゃない、まったく無縁。
 一方の国産品の性能は、いまからみればおそろしく水準が低い。中にいくらか注目すべき製品があっても、当時の小遣いや給料からみたら買えるという実感が湧いてこない。また、スピーカーはユニット売りでユーザーがキャビネットを自作する形が大半だったし、(このことが、キャビネットの重要さを知るためにどれほど永いこと障害になっていたか計り知れない)、アンプは完成品などほとんど無い。
 だから、アンプは自作するのがあたりまえ。自作したいからしたというより、そうしなくてはアンプを入手することはまず不可能だったのである。レコードが好きで装置に凝る一般の人の場合でも、アンプは大半がアマチュアの作品だった。オーディオ・ファンだということは、アンプを作れるというのとほとんど同じことだった。自作するために、好むと好まざると理論と実際の勉強をせざるをえない。言いかえれば、電気や機械や音響の知識が多少とも無いかぎり、そして、ある程度手先が器用でないかぎり、オーディオの道を深めることは困難をきわめた。ほとんど例外的に、一部のレコード・ファンが、アマチュアのいわばパトロンのような形で再生装置を作らせ、聴いていたという状態である。いまの人たちには想像もつくまいが。
 こんにち、自作する人はすごく減ってしまった。なまじの自作よりもよほど優秀な性能のオーディオ・パーツを、当時からみたらよほど安い価格で自由に選択できるのだから、その意味からは自作する理由が稀薄になっている。しかし、オーディオの楽しみの中で、この、自作するという行為は、非常に豊かな実り多いものだと、わたくしはあえて申し上げたい。それがプレイヤーでもアンプでもスピーカー・システムであっても、その一部を自分の創意で作り上げる喜び、その満足感は、同じ音でも別もののように良く聴こえる。
 むかしはすごい人がいた。加藤秀夫氏の名を知る人はもう少ないかも知れないが、氏は機械工作の名人で、それこそ、ピックアップのカートリッジもアームもターンテーブルも、マルチチャンネル・アンプも、ホーン型のスピーカー・ユニットも、それらを収容するキャビネットやエンクロージュアも、すべて自分で設計し自分で造り上げた。知らない人には信じられない話みたいだが、おそらくいまでも、古いオーディオ・ファンの中に、加藤秀夫氏の製作の精密なホーン・トゥイーターを愛用している人を見かけるだろう。
 こうした体験を踏んだ人は、仮にレディー・メードの装置が故障しても、簡単に分解して修理してしまう。山中敬三氏のように、アンペックスのプロ・マシーンの中古品を、パーツを入れ替えて新品同様に更生してしまう男がいる。

 テープ党、ディスク党、FM党
 テープとディスクというふたつの素材は、一見近い親戚のようでありながら、ある面ではまったく相容れない部分を持ち合わせているように思う。たとえばレコード(ディスク)というソースは、本質的にウェットだ。漆黒の円盤、間接的ながら音が溝の形で眺められ、それを細い針が辿ってゆくところは具体的だ。
 テープはドライだ。どこにか何の音が入っているのか、外見からはわからない。強音でも弱音でも、テープ自体は絶対に表情を変えない。つまり抽象的な素材だ(録音した部分から色の変わるテープ、またはそういう仕掛けを発明したら、一生食うに困らないだろう)。そしてディスク・プレイヤーにくらべて、テープ・プレイヤーはもっとメカニックである。そこで、テープ党とディスク党におのずから分かれてゆく。われわれの仲間にはディスク党が多いが、テープ一本やりで有名なのは浅野勇先生だ。氏のお宅のディスク・プレイヤーには、ホコリが一〇センチも積もっているとか、ターンテーブルに錆びの花が咲いたようだというのが消息筋の怪情報……?
 テープ派にも、カセット・オンリーの人、逆に三八センチ2トラック以外はテープにあらずという極論型、両者の中間の穏健派など、いろいろある。そして録音するのが趣味の人、ミュージックテープ再生の人、中には、3モーターのデッキを組み立てるだけが趣味の人……。
 録音の対象も、ナマ録専門、FM専門、アングラ専門……さまざまである。
 FM放送が、テープの普及に拍車をかけたことはもう言うまでもない。いまでは、FMからテープに録音するのは公然のことになっている。FMから録音してみると、デッキの良否は歴然で、しかも、録音してみるとチューナーの良否が明瞭に出てくる……という車の両輪のような関係で両者の性能が著しく向上したのも、オーディオ界にとって収穫であった。

 組み合わせ方に現われるクセ
 コンポーネントのパーツの選び方、組み合わせ方にも、意外に個性というか癖が現われる。大別すると重点型と平均型とでも言おうか。たとえばスピーカーでもアンプでもデッキでも、装置のどこか一部に重点的に力を入れるタイプがある。いまは違うがかつての山中敬三氏はプレイヤー志向型だったし、わたくしはスピーカー重点型だった。アマチュアの中には、テープデッキばかり五台も六台も持っている、なんていう人もある。いずれを問わず、どこか一箇所にウェイトを置く、その重点のかけかたに、個性が現われる。そして、重点を置いた部分は、年じゅう中身が入れ替ってグレイドアップしていることが多い。
 平均型というのはいわば穏健派というか健全型と言おうか、装置各部のグレイドを揃えて、全体のバランスを重視しようというタイプである。このタイプの人には、次の項でふれるインテリア重視型の人が多い。
 統一型というのもある。たとえばオールJBLで揃えるとか、ともかく全部海外製品で筋を通すタイプ。同じ統一するにしても、絶対に国産だけでまとめるとか、大きなメーカーの製品は使わないとか、全部ホーンでなくては気がすまないとか、良くも悪くも、やや形式を重んじる頑固なタイプと言えそうだ。
 このほかにも、年じゅうパーツを入れ替えなくては落ちつかないTとりかえばや型Uだの、何でもいいから接ぎかえたりツマミを廻したり増設したり元に戻したり、いじっているのが好きなマルチプル志向型。二〜三年使うと一度にどかっと新型に替えるT全とっかえ型U、使わなくなったパーツでも全部手もとに置いておくタイプ、要らないパーツは見るのも嫌だという潔ぺき型……。
 自分ではあまりいじらないのに、そうした友人たちのあいだを聴き歩くヒッピー型。その中でもやたらと感心する素朴型、何でもけなさなくては気の済まない一言居士型……。人さまざま、実におもしろい。

 リスニングルームとインテリア
 さまざまな人がいれば、中には器用な人があって、自分一人でコツコツとブロックを積んで、数カ月かけてリスニングルームを作っちゃったという人の話を聞いたことがある。
 こういう例外的な人は別として、いまどき、部屋をいじれるというのは、かなり恵まれた人たちである。むろん中にはマンション住まいで近所に迷惑がかからないよう、やむをえず大がかりな遮音処理をせざるをえないという人もある。わたくしのような道楽ものは、いい年令をして未だに自分の家を持つことができず、古い木造の借家住まいで、リスニングルームには壊れかけた本木造がいちばん音がいい、などとうそぶいている。音は近所に洩れ放題。だから深夜音楽を聴こうとすれば、はじめに書いたような小型スピーカーで、絞って聴くことになる。
 インテリアを美しく整理することは、かなり重要なことだと、わたくしは思っているが、さて自分自身は紺屋の白袴。リスニングルームは、コンポーネントをテストする実験室を兼ねているので、いまや不本意ながらインテリアは二の次。こればかりは残念でならない。
 リスニングルームの音響設計については、ひとつの流行のようなものがあるらしいが、わたくしは、音を聴く部屋だからといってことさらいじるのは好きではない。その中にいて何となく居心地のよい快適な部屋であれば――前記のように遮音の必要のある場合を除いては――ことさらな設計や工事をするのはごめんだ。部屋はできるだけ住居としての自然のままがいい。

 レコードのコレクション
 音楽ファン、レコード・ファンとしてのコレクションはここではふれない。どの道オーディオ・マニアという人種は、どれほど内容は空虚であっても、録音が良い――言いかえれば自分の装置の音を最も良く鳴らす――レコードの一枚や二枚を、必ず持っているのである。
 それが昴じると、S氏のようないわば網羅主義になる。録音の良いレコードがあると、国内盤のほかにその原盤である海外レーベルを、もしもアメリカとフランスで出ていればそれぞれ、さらにオープン・テープ、カセット、エイト、事情が許せば三八センチのマスター・テープまで、同じものをズラリと揃えようというのである。実にオーディオのマニアに徹し抜いた集め方と言えよう。同じ演奏が、テープとディスクでは違って聴こえ、同じディスクでもアメリカ盤とフランス盤とドイツ盤とイギリス盤と、そして国内盤の旧カッティングでは、ほら、こんなに音色が違ってるンだぜ、と、そんな比較をするのは、まあ、オーディオ・マニアの中のマニアしかないだろう。

 オーディオ・マニアと音楽の接点
 メカ・マニア、データー・マニア、測定マニア、回路図ばかり眺めるマニア、設計ばかりして作らないマニア、バラしたり壊したりするのが趣味のマニア、……オーディオは、とにかく変わり種を生む。カメラでも自動車でも、これに似た現象はあるのだそうだが。
 あらゆる趣味がそうであるにしても、ことにオーディオは、その間口の広さ、味わいの深さに於てずば抜けていると思う。これまで列挙してきたような、そしておそらく、わたくしの知らない、あるいはわたくしの想像もできないような楽しみかたをしている人が、世界じゅうには、まだ大勢いる筈であり、そのあらゆる楽しみかたを、この趣味はすべて飲み込んで受けとめてくれる。少なくともわたくしのオーディオ仲間たちが、二十年、三十年の年月をここに注ぎ込んで、まだ、飽きもしないでこの道に遊んでいるという歴然たる事実が、この趣味の広さ、深さを何よりも語っている。そしてしかし最後に言うが、その向こう側に、常に、すばらしい音楽がそびえている。
 音楽は、オーディオがほんとうにその人の手の内のものに消化されたとき、はじめて登場する。いわば、カメラのメカニズムが身体組織の一部のように消化されたとき、そこではじめて一人の作家の作品が完成すると同じ意味合いで、オーディオのメカニズムが、それと意識されないほど、使いこなされたとき、自分の耳の一部のように使いこなされたところに、はじめて音楽とのほんとうの接点があると言えるのではないだろうか。メカニズムを知ってしまった人間への、これが天罰かもしれない。業かもしれない。メカニズムの魅力など素通りしてゆく、オーディオ・マニアでない人は、もっと容易に音楽の道に近づくことができている。なまじメカニズムなどいじった人間は、かえって気の遠くなるような廻り道をしなくてはならなかった。少なくとも、このわたくしがそうだった。

(註) この稿執筆の時点では、まだJBLのスタジオモニター・シリーズは発表されていなかった。その後、わたくし自身はJBL#4343WXを、自分のためのスピーカーとして選び、こんにちに至っている。しかしこの原稿の時点では、アメリカには、真にすぐれたスピーカーはなかった。