列車が田圃の中の小さな駅に停車している。周りの物音が何も聴こえないほどの静かな夏の午下り。窓にはジリジリと太陽が照りつけ、もうじき食べようとしている弁当の経木の独特の匂い。ぼんやりと眺めながら、半ば眠気をもよおしている私の目に、外の景色が、はじめはそれと気がつかないほどゆっくりと、ゆっくりと、動き始めて、あ? いつのまに発車したのだろう、とおどろく間もなく、やがてコトン、コトンと軽快な音を立てて汽車は次第に速度を上げてゆく。
 蒸気機関車(SL)が客車を牽いて走っていたころは、こんなふうに、いつ動き始めたのか気づかないくらい、静かに、見事に発車させる名人級の機関手がいた。天皇陛下の乗るお召列車の運転手は、チョーク(白墨)を何本も立てて、それが一本も倒れないように運転できるように技術を磨くのだ、と、あれは誰が教えてくれた話だったか。ほんとうかどうか知らないが、それが嘘には思われないほど、見事な運転をする機関手が、昔は珍しくなかった。しかし考えてみれば、あれは大変な名人芸であったにちがいない。
 汽車のような巨体を、こんなふうに、まるで自分の身体の一部を動かすように自然に操る人間を見ると、私はもうやみくもに感激して憧れてしまう。飛んでいって握手したくなる。
 汽車のような、プロでなくては動かせない機械ばかりではない。ふつうの乗用車、カメラ、オーディオ……およそ私たちをとり囲むあらゆる機械を、身についた自然な動作で、自分の身体の延長のように扱うことが、私の理想だ。
 カメラについて、私の知るかぎり最もその扱いの見事な人は、故人となった木村伊兵衛先生だった。写真に凝ったあげく「ライカ倶楽部」の会員の端くれに入れて頂いた私にとって、木村先生は雲の上のような存在だったが、その木村先生のカメラさばきの見事さについては、いくつものT伝説Uが残っている。だが、それを最もうまく言いあてているのは、「まるで呼吸すると同じように」カメラを扱った、という大倉瞬二氏の表現だろう。木村伊兵衛氏が写真を「撮っている」ところを、しかと見た人は少ない。つまり、カメラを「構えた」という感じを周囲の人にまったく気づかせない。首からぶら下げたライカが、時折、顔のところまでスっと引き上げられ、スっと元のところにおさまる。居合抜きもかくやという雰囲気で、確かにそれはもう、呼吸すると同じくらい、身体の一部になってしまっていた。
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 機械、というより道具はすべて、人間の身体の一部の延長として、人間の能力を助けて仕事をするためにある。だから、機械を前にして、あちこちとボタンを押しまちがえたり、ギクシャクと扱っている人をみると、その人にとってその道具は、逆に仕事の邪魔をしているのではないか、とさえ思えてしまう。
 オーディオの機械類を扱う、というより自分の器官の一部と思えるまで使いこなすことに、私が少々ムキになるほど夢中になるのも、レコードを聴く道具、逆に言えば耳の延長としてのオーディオ装置という道具を、できるかぎり自分の身体の一部のように思えるほど自然な形で溶け込ませて、オーディオ装置の介在を忘れてレコードから純粋に音楽を抽き出したい、と願うからだ。
 いわゆるオーディオマニアが、音のよしあしばかり気にして音楽を聴かない、などと悪口を言われるのは、道具の介在が聴き手の邪魔をしているからだ。出てくる音の質や、たくさんのスイッチやノブ類が、自分の身体器官と同じように、その存在を意識しなくなってしまえば、あとは音楽だけが確かに聴こえてくる。
 だが、オーディオは実はここからが始まりといえる。ここまでは、いわば呼吸法を身につけるまでの基本であって、オーディオの楽しみは、私は、音の味覚学だと思う。同じレコードを、いかに、より美しく、より楽しい音で聴くか。言いかえれば、オーディオの愛好家は、音のぶりあ・サヴァラン、音のエスコフイエであるべきだ。
 女性のオーディオ愛好家はきわめて少ないと言われる。だが、食いしん坊の道にかけては、ナミの男は女性たちにかなわない。あなたがたがそれほどまでに美食家に徹するのなら、そして、音楽を嫌いな女性が少なくないのなら、ぜひとも、音楽のグルマン、音のガストロノミーたる、オーディオの楽しみを、味わってみてはいかがなものだろうか。