子供のころからレコードで育ったせいか、音楽を聴くということは即レコードをかけること、みたいな感覚があって、それでモーツァルトについてでも何か書こうとすれば自ずらレコードについて語ることになる。モーツァルトにかぎらずレコードを集中的に聴いたのは昭和二十年代の後半から四十年代の前半にかけてで、それからあとはレコードの買い方もひどく気ままになってきて系統的な集め方をしなくなってしまったから、これからあげるレコードも大半は少し古い演奏になりそうだ。

 K525
 本所・深川一帯の大空襲の時まで、母の実家が木場にあって、その広い家の二階に小型の電気蓄音機が置いてあり、叔父たちの誰かが、いつもレコードを鳴らしていた。そうした幼い記憶の中でまっ先に蘇るのがK525で、それをアイネ・クライネ・ナハトムジクと呼ぶよりは昔通りに、「小夜曲」と呼ぶ方がいっそう懐かしい。ブルーノ・ワルター指揮のコロムビア青盤で、いわばこれが私のモーツァルト初体験、あるいは幼い日の淡い初恋とでも言えそうである。
 自分の小遣いで電蓄を組み立ててレコードを買うようになって、SPのワルター盤のレーベルを中古レコード店で探し出したときの、昔住み馴れた家の門前に戻ったときのような何とも言えない気持がいまでも忘れられない。
 そしていま手もとにあるのは、やはりワルターが、しかしステレオになってからコロムビア交響楽団で入れたアメリカCBS盤(MS・6356)だが、古いSPのウィーン・フィルの音色をほうふつとさせる響きに身をまかせていると、いまでもすぐに、深川の二階のあの、陽当りの良い座敷と木場特有の材木の匂いが浮かんでくる。この曲を、弦楽四重奏にコントラバスを加えた五重奏で聴くのも好きだが、しかし私にとっての「小夜曲」は、ワルターによる原体験の域を、どうやら一生抜けきれなさそうだ。

 K516
 日本人のモーツァルティアンが、おそらく一度は通り抜けなくてはならなかったのが小林秀雄の「モオツアルト」で、この名著に対しては改めて何も言わないが、おそらくそこに引用されていた譜例と、アンリ・ゲオンの名言《疾走する悲しみ》に惹かれて、このレコードを買ってきたはずだ。アマデウス四重奏団にセシル・アロノウィッツのヴィオラの加わった演奏は、はじめアメリカ・ウエストミンスターのモノーラルLPで入手した。これはすばらしいレコードだった。第一楽章の最初の旋律から、どこか思いつめたような表情があってそれはまさしく《疾走》していた。終楽章まで聴き終ると、もうその日は他のどんな曲も聴きたくないという気持になったものだった。それでいて妙なことに、そこでもう一度第一楽章から走らせてみたくなる。もっともこういう感じはK516ばかりにかぎらないで、モーツァルトのほかの曲、たとえばK421などでも同じようにしたくなるのが不思議である。
 これだけの名盤を、ステレオ化されたという理由から手放してしまったのが、いまとなってはひどく悔やまれる。独グラモフォンの新盤(SLPM138057)を買うためには、下取りに出さなくてはならないほど金がなかった。しかしこれは失敗だった。ステレオになってからの演奏からは、モノーラル時代のあの思いつめたパトスが聴こえてこない。むろん、これはこれで良い演奏にはちがいないが、私の耳の底では古い演奏の方が鳴っている。それでどうにもあきらめきれず、のちになって、ABCパラマウントに吸収されてからのウエストミンスター盤を買い直してみたが、カッティングが全く変わって、妙に不自然なエコーがふんだんにかけてあって、気持が悪くて聴いていられなかった。むろんすぐに手放した。どこかに旧盤がないものだろうか。それとも、もっと優れた演奏が出てこないものだろうか。
 まったく別のいきさつから手放したことを後悔しているレコードに、マルセル・メイエルのピアノ、モーリス・エウイット管弦楽団によるK466や、フランソワ・エチエンヌのクラリネットと、同じくエウイットによるK622(いずれも仏ディスコフィル・フランセ原盤、アメリカ・ハイドン協会のモノーラルLP)がある。このレコードを教えてくれたある人との間に気まずいことが起こって、その嫌な記憶を消すために売り払ってしまったのだが、何年かを経れば、苦い思い出よりも大切なモーツァルトを失った後悔だけが残る。

 K476、523
 歌曲「すみれ」と「夕暮の情」である。ほかに「警告」と「隠しごと」の四曲、それにシューベルトからマーラーまでの歌曲を集めた《エリカ・ケート・リートリサイタル》(アリオラ原盤。日本セブンシーズSH5060。現在は廃盤)は良いレコードだ。
 エリカ・ケートがシェラルド・ムーアの伴奏で聴かせる歌のすばらしさは、新譜当時、畑中良輔氏が「レコード芸術」誌の月評欄で書かれた以上には、私にはうまく説明できない。が、エルナ・ベルガーの後継ともいわれるリリカルなソプラノの声の美しさに加えて、上品な色気に包まれた表現の豊かさは、思わず聴き惚れてしまい、ひところは毎日のように聴いていた。すり減ってしまうのがこわくて、テープにコピーしているくらいである。
 エルナ・ベルガーでは、K165(おどれ・よろこべ)ほかを入れたモノーラルのアメリカ・エンジェル盤(カルフ・フォルスター指揮ベルリン・フィルおよび聖ヘドウィッヒ教会合唱団)を愛聴していた。これはのちになって、ブライトクランク(独エレクトローラの開発による人工ステレオ=フルトヴェングラーはじめ古いモノーラルがこれでステレオ化されているが、人工ステレオの中では最も自然な響きで、音楽の美しさを損ねていない)によってカッティングし直された。たまたま入手したのはムジカ・サクラのAM577で、これも私にとって大切な一枚だ。

 ピアノ曲、ピアノ協奏曲
 あえてケッヒェル番号で言わないのは、これが一枚に絞りにくいからで、古いところから並べると、ジャクリーヌ・ブランカールによる四曲のピアノソナタ(K281、283、545、570=ロンドンLL529)はむろんモノーラルだが、およそこれほど無心で純粋な演奏をまだほかに知らないし、同じくモノーラルの、カサドジュとセルによるK491の、暗い緊張感に満ちた名演も大好きな一枚と言える。K491はハスキルも好きだが、それならK466をとろう。しかし演奏は対照的ながら、モニーク・ド・ラ・ブルショルリの二短調も好んで聴く一枚だ。K466には、ある時期ひどく取りつかれて発売されているレコードを片はしから聴いた。その中で印象に残っているのは、古いワルターの自演や先に書いたメイエル、ステレオ以降ではヘブラーや、ごく最近ではグルダも好きで、しかしそのいずれも、少しずつ注文をつけたくもなる。私は「これ一枚」主義、決定盤主義は嫌いだが、それにしてもK466は私にとって目うつりのはげしい曲だ。

 交響曲
 おそらく誰もがあげるト短調を別とすれば、私の最も好きなのはK504「プラハ」で、好きな演奏はヨッフムとコンセルトヘボウのフィリップス盤(残念乍らアメリカ盤PHS900・003)である。ト短調も、フルトヴェングラーのあのおそろしいテンポの早い演奏が好きで、しかし日常わりあいよく聴くのは、カラヤンのデッカ盤(ウィーン・フィル)だ。それともうひとつ、これは知っている人が少ないと思うが、古いモノLP、それも廉価版で出たラインスドルフ指揮のロチェスター管弦楽団というレコード(日本コロムビアYL1001)を、いま聴き直してみても、これは意外な名演奏だと私は思う。もう二十年以上も昔の演奏のはずだけれど、テンポのとりかたなど、むしろ今日的と言いたいほどみずみずしい。

 K626
 最後にどうしても「レクイエム」について書かないわけにはゆかないが、誰に何と言われても私は、カラヤンのあの、悪魔的に妖しい官能美に魅せられ放しでいることを告白せずにはいられない。この演奏にはそして、ぞっとするような深淵が隠されている。ただし私はふつう、ラクリモサまでしか、つまり第一面の終りまでしか聴かないのだが。
 そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。