これまでの調子で延々と書いていたら、ぼくのオーディオ歴と同じくらいの時間がかかっちゃうので、この辺で一挙にダイジェストしてゴールインしてしまうことにする。
LP渡来
雨降りのようなスクラッチ・ノイズと、片面五分足らずの短い時間と、落とせば割れてしまうシェラック製の七十八回転盤に皮って、塩化ビニール系の合成樹脂製で、三十三1/3回転の長時間演奏のLPレコードが出現したのは、昭和二十三年のことだった。アメリカCBSのピーター・ゴールドマークがそれを完成させた。けれど当時は、海外で新しいものが発売されても、日本にすぐ渡ってくるわけでなく、日本コロムビアから初めてLPが市販されたのは、それから三年もあとのことだが、幸いに、友人がアメリカ人のハウス・ボーイとして働いていた関係から、日本発売以前に、アメリカCBSのLP(ロジンスキー指揮の「くるみ割り」)を自宅で聴くことができた。
そのときの装置はハークの普及型の一六センチ・フリーエッジを樫の木の密閉箱に収めたスピーカー。2A3シングルのアンプ。そしてプレイヤーは、七十八回転用のガヴァナー・モーターのブレーキを思い切り利かせて、かろうじて三十三回転を出し、パーマックスのSP用マグネチック・ピックアップのアームのお尻に、ダイヤル用の鉛のフライホイールをくくりつけて、友人がレコード一緒に持ってきた使い古しのサファイア針をつけて鳴らした。それでも、初めて聴くLPの音の、なんと弾力のある美しい音色だったろうか。
初めての雑誌投稿
やがてプレイヤーは、日本で最初にLP用として市販された小林理研(リオン)のクリスタル・ピックアップ(P140L)と、アカイのC3型フォノモーター(アカイはモーター屋さんだったんだよ)になり、アンプは2A3PPにNFをかけたものを自作し、スピーカーがダイヤトーンのP100F(二五センチのフリーエッジ・フルレインジ型)を、ラワン材の大型コーナー・バッフルに収めたという、当時としては進んだタイプになっていた。
このときの自作アンプとチューナーを、「ラジオ技術」に投稿したら、それが採用されて、生まれて初めての原稿が活字になった。昭和二十七年の一月号。《十六才・学生》なんて書いてある。あれ? トシがバレちゃった。それ以来、「ラ技」誌のレギュラー執筆者にされちゃったんだから、もう二十五年も原稿書きをしている計算になる。
ウィリアムソン・アンプ以後
イギリス・フェランティ社の技術者D・T・ウィリアムソンが、大量のNFをかけるために独特の回路構成と、複雑な巻線技術を駆使した広帯域トランスによるアンプの記事を発表したのは一九五〇年(四十九年だったかもしれない)ごろで(英ワイアレス・ワールド誌)、日本でも北野進氏によって「ラジオ技術」にいち早く紹介されたが、当時のトランス製作技術と粗悪な鉄心では、ウィリアムソン・アンプに使える出力トランスが作れなくて、アマチュアの手によって多少とも作られるようになったのは昭和二十七年に入ってからのことである。しかしそれ以後は矢つぎ早に、チャイルズ、ウルトラリニア、リニアー・スタンダード、シングルエンデッドPP、OTLが、こんちにのトランジスター・パワー・アンプの基本回路として生き残っているが、多段にわたる深いフィード・バックの発達は、ウィリアムソン以後発達した技術といえる。
ぼくも、それらのアンプをひととおり自作した。回路が変わるたびに、音質が向上するのが楽しかった。いったいいままで、ひとに頼まれて作ったアンプを加えたら、何百台のアンプを組み立てたかしれない。回路設計の基礎知識から始まって、トラブル対策に至るまで、知らず知らずに身についてしまう道理だ。
けれどぼくの興味は、どちらかというとパワー・アンプよりも、プリ・アンプの方に傾いていた。それと同時に、アンプをただ性能本位にこしらえるのではなく、シャシーの構造や外装にもくふうを凝らして、いかにもアマチュアの自作ふうの、苦戦のあと歴然というのでなく、むしろ自作離れした、メーカー製のようにリファインされたアンプを作りたいと、いつも心がけていた。しぜん、パーツを買いに行っても、ビスの頭の仕上げひとつまで気になって、できるだけ良いパーツを選んだ。結局は、良いパーツを選ぶことで、良い性能のアンプを作ることにもなった。このころから、機械ものをデザインする楽しさが身について、それが後になって、インダストリアル・デザインを職業に選ぶ芽生えとなっている。
立体放送
FMもテレビもないころ、NHKがAMの第一、第二放送の二つの電波を、同時に使って、ステレオ放送するという実験をした。昭和二十七年の十二月のことで、ステレオ・レコード発売が昭和三十三年だから、これは画期的な事件である。
そのころ、アメリカのオーディオ界はすでに隆盛をきわめていて、アルテックやJBLや、エレクトロヴォイスやスティーブンスやジェンセンが、高級スピーカーを次々と世に送り、マランツやマッキントッシュのアンプ、フェアチャイルドやピッカーリングのピックアップなど、後世に名を残す高級パーツが一斉に花咲いていた。
そうしたアメリカのオーディオ界に刺激されて、日本でもオーディオ協会を作り、オーディオ・フェアを開催しようじゃないかという声が、当時のオーディオ界の先覚者たちのあいだで起こり、そのころオーディオに熱心だった中島健蔵氏を会長に、日本オーディオ協会が発足し、昭和二十七年の暮に、第一回の全日本オーディオ・フェアが開催されたのだった。
そして、フェア開催の陰の力になった人たちの熱意と努力がNHKを動かして、フェアの開催に合わせて、定時番組の終った深夜ではあったが、世界にもあまり例のないAMのステレオ放送(当時は立体放送といった)が実験的に電波に乗った。
この結果は大成功で、また非常に好評であったため、その後、NHKシンフォニー・ホールや土曜コンサート等のクラシック番組と、ポピュラー番組やドラマ等、一週間にほんの二〜三時間ではあったけれど立体放送が定時番組に組まれた。受信機を二台用意するという不便さにもかかわらず、愛好家たちはその時間を待ちこがれてむさぼり聴いた。
ハイ・フィデリティ時代
とはいうものの、日本でのオーディオ愛好家の数は、いまと違っておそろしくわずかだった。というのも、立体放送の受信あるいはLPレコードの再生を、多少とも良い音質で聴きたいと思うなら、アンプその他の装置は、海外から取り寄せるか、それとも日本の一部の進んだ研究家に製作してもらうしかなくては、満足なものが入手できなかったからだ。しかも輸入に関しては、いまのような貿易の自由な時代ではなかったから、ほんの一部の限られたお金持ち以外には考えられなかった。おかげでぼくも、アルバイトでずいぶんひと様の装置を作った。ということは結局、ひと様のお金で研究ができたということでもあった。
日本のオーディオ・メーカーが、トランスやスイッチ等のパーツ単売ではなく、ともかくも完成品といえるアンプを売りだしたのは昭和三十年代に入ってからのことだったし、それでも腕の良いアマチュアが作るアンプの方が、メーカー製よりも性能が良いと言う時代が、ほぼ昭和三十年代いっぱい続いたといってもよい。
FMステレオ・ブーム到来
ステレオのレコードが発売されたのは、さきにも書いたように昭和三十三年だが、発売後五年近くのあいだは、ステレオLPを満足に再生できる装置が非常に少なかったせいもあって、普及の速度はきわめて遅かった。LP片面を、音が割れずにトレースできるピックアップがほとんど無かった。
ステレオ・レコードを、どうやらまともに再生できるような再生装置が出揃ったことと、FMのステレオ放送が実験期を脱して本放送化されたことの二つが、こんにちのオーディオ・ブームのきっかけになったといってもよい。それは昭和三十年代の最後のころだが、いまふりかえってみると、昭和四十年の暮から四十一年の初頭にかけて、本格的なオーディオ・ジャーナリズムの台頭する芽生えがいくつかみられる。
たとえば「暮しの手帖」が、昭和四十年の秋号で初めて、卓上ステレオのテスト記事を載せた。あとでわかったことだが、このテストには菅野沖彦氏が協力している。
「科学朝日」が、ステレオの特集をしたのは昭和四十一年の新年号。これには江川三郎氏やぼくも協力している。「ラジオ技術」が別冊増刊号の形で、のちの「ステレオ芸術」の母体になる雑誌《これからのステレオ》を発売。四十年の暮。
季刊「ステレオサウンド」が創刊。これも同じとき。
音楽之友社からは、すでに「レコード芸術」誌がオーディオにかなりのページをさいていたし、「ステレオ」誌も出ていた。また毎年暮には「ステレオのすべて」も刊行されていたが、一般紙をはじめとして、オーディオを専門にする雑誌が本格化したのは昭和四十年から四十一年にかけてであり、そのことからオーディオが特殊なマニアの世界でなく、一般の人たちの趣味として定着し始めたことがはっきりわかる。
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それから十年。いまでは、FM誌と呼ばれる雑誌が三誌も揃っている。昔みたいに自作するよりも、はるかに性能の良い製品がふんだんに出廻っている。なにしろ、オーディオが《産業》と呼ばれる時代だ。
ぼくらがオーディオを始めたころ、自作は《必要》だった。自作しなくては、何ひとつ手に入らなかったし、メーカー品は改造しなくては使いものにならないものが多かった。いまは違う。作ることは目的でなく楽しみのひとつになり、しかもキットという便利きわまりない半製品ができている。ぼく自身も、いつのまにかアンプの設計も製作もやめてしまった。ヘッド・シェルの端子がもぎとれたのをハンダ付けすることさえ、めんどうな気になっている。それほど《便利》な世の中になった。
けれど、アンプ一台を何カ月もかけて作り、一枚のレコードをむさぼり聴いた時代にくらべて、いま、いったいあのころよりもよく音楽が判っているのだろうか。そんな反省を込めて、ちょっとばかり古い時代をふりかえってみた、という次第。