昔話をするようになったら、人間おしまい、なんてよく言うね、だとするとオレもオシマイなのかなァ、なんて思ってみる。けれど、こんなことを書いているほんとうの目的は、回顧談をすることじゃなくて、ほら、よく言うでしょう、『温故知新』。古きをたずね新しきを知る、って。二十年、三十年という単位でその時代をふりかえってみると、何だい、いまごろオレ、何やっているんだろう、っていうような反省の材料がいっぱい出てくるもので、そういう反省から、また新しい方向を見つけだすことができる。とぼくは思っている。
そういう意味を込めて、あのころ、いったい何を考えて何をやっていたか、自分の歩いてきた軌跡を、ここいらで反省してみよう、と思うわけ。
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というわけで、鉱石ラジオから始まって5球スーパーを作ったところまで進んできた。今回は昭和二十二年以降の話。
ラジオの組み立てを始めると誰もが一度は、短波放送の受信に熱中する時期がある。これをSWL(ショート・ウェーヴ・リスナー=短波放送を聴いて楽しむ愛好家)と呼ぶ。世界中の放送局やアマチュア無線の出す電波が、円い地球をぐるっと廻ってこの日本にまで到達し、それが四六時中自分のまわりを取巻いて飛び交っている、というのは何とも神秘的な魅力だ。それを正確に、安定に、受信するためには、自作の受信機の感度、選択度、安定度を増してゆくほかない。そしてその結果は、間違いなく、イギリスの、オーストリアの、フランスの、有名な放送局やハムの電波の受信という確かな成果に現われる。
オーディオのアンプを改造しても、音質が向上するかしないかという点では、半分は主観的な問題であって多分にニュアンスの話になるわけだが、SWLは電波が受かる受からないかという絶対の基準があるという点は気持がいい。むろん、受信できたというそのつぎには、安定度、明瞭度、音質の良さなどの問題が出てくるし、オーディオだって音のニュアンスを論じる以前の最少限度の基準はあるにはちがいないが……。
もうひとつSWLの楽しみは、ベリ・カードと呼ばれる受信証明カードを集めることにある。たとえばイギリスのBBC放送を受信できたとする。すると、受信した日時とそのときの放送の内容、そして受信状況その他をリポートしてBBCに送る。放送局がそれをチェックして、確かにその人が間違いなく当局を受信した、と認めると、その証明に、絵ハガキ大の美しいカードを送ってくれるのだ。カードには放送局のコールサインや、その放送局やその国を象徴するいろいろなパターンや色が図案化されて、貴殿が確かに我が局を受信したことを証明する、とかなんとか、いろいろ書き込んである。これを一枚でも多く、ことに珍しい放送局や、めったに受信できないことで有名な外国のハム局(たとえば南洋の小さな島のハム局なんか)のカードを集めると、仲間うちでも幅が利くようになる。
こうしてSWL熱が昂じてくると、とうぜん自分でも電波を出したくなってくる。しかし昭和二十二〜二十三年ころの日本はまだ被占領国だったから、個人が電波を出すことは許されていなかった。太平洋戦争以前からライセンスをとっていた先輩のハムたちも、したがって不本意ながら一SWLでわずかに我が身をなぐさめている状況だった。海外のハムたちが楽しそうに交信しているのを傍受しながら、口惜しい思いを噛みしめていた。
……と書いてきたものの、実を言うとぼく自身は本格的なSWLにも、ましてハムへの道も進まなかった。
だいいちの理由は、まだ英語を深く習っていない。だから外国の局を受信しても、ベリ・カード請求のリポートが書けない。そんなものはカタコトでも良いんだが、当時のぼくはものすごい内気で引っ込み思案だったので、ついに手紙を出す勇気が出なかった、というのが真相。だからベリ・カードなるもの、ぼく自身は一枚も手に入れていない。したがって、当時どこそこの局を受信したと証明する物件ひとつも無し。だからこういう話を書いても、残念ながら、もうひとつ迫力に欠ける。もっと勇気を出して、カードを集めておくんだった、と後悔しても、こればっかりはどうにもならず。だから諸兄よ、もしもSWLを志すなら、必ずベリ・カードを請求すべし。
しかしSWLにもハムにもならなかったかわりに、ぼくは割合早くからオーディオの方に入ってしまった。
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当時ラジオを組み立てていると、SWLからハムにゆくか、それともオーディオにゆくか、たいていこのどちらかを選んだものである。そのどちらをやるにも、アンプも送・受信機もアンテナも、何から何まで自作しなくては、敗戦国ニッポンには何ひとつ物が無かった。最近はホントにびっくりしちゃうねえ。専門店のハム・コーナーに行ってみると、何と、コリンズの送・受信機がずらりと並んでいるではありませんか。
当時オーディオでもハムでも、質の悪いアルミニウムの裸シャシー、それも改造に改作を重ねて無駄穴だらけになったみすぼらしいシャシーに、ジャンクや(中古品、軍用の払い下げ品専門店)から漁ってきた汚れたパーツを並べて、音が出ただけでも上出来、ぐらいのころに、コリンズのセットなんていうのは雲の上――いや、月か火星ぐらいの遠い存在で、自分がいつかは買える、なんていう気持は全然起きようはずが無い。そのコリンズがいまや、値段をみれば、あれ? オレにだって買えるんだね、ぐらいの価格でいくらでも並んでいるのだから、もうホントにびっくりしてしまう。
と、また話が脱線したけれど、いまならみんな豊かだし完成品の性能のいいのが楽に手に入るから、ハムとオーディオ? うん、両方やろうじゃないか、ぐらいのことは言えるけれど、当時はみんな貧乏してたから、一方をやろうと思えば他方はあきらめなくては、どうにもならなかった。
どういうわけか、ハムをやる人とオーディオをやる人とは、性格的にもずいぶん対照的だったように思う。オーディオ型の人間とハム型の人間、なんていう分類があったほどだ。
ハムというのは自分から電波を出し、見ず知らずの人と交信し、世界中に目が向いているわけだが、オーディオは逆に、自室にこもる感じでたった一人の孤独な楽しみにふける。だがら内向的で人間嫌いの男が少なくない。そんな人間にハムがやれる道理がない。
が、そういう事情は別としても、ぼくがオーディオをやろう、とはっきり自覚にするには、ひとつのきっかけがあった。
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自分で組み立てたラジオで、いろいろな放送を、ただまんぜんと受信していたある日の話だ。占領軍向けの英語放送WVTRの番組を新聞で探していた叔父が(家が無いころで、母の弟が居候していた)、この番組をぜひ聴かせろ、と言う。ベートーヴェンの「運命」を放送する、というんだ。名前は知っていたが、それを意識して聴いたことはまだなかった。ぼくは別に、聴きたいとは思わなかった。
ぐあいの悪いことに自作のラジオが改造のまっ最中で、仮配線をしてみたものの、まるで蚊の鳴くような落としかでない。放送時間がせまってきて、しかたがないからそれでも無いよりはマシだというわけで、何ともコッケイな話だが、叔父と二人、裸のスピーカーをはさんで畳の上に腹這いになって、頭をくっつけ合わせるみたいにして「運命」を聴き始めた。
あれがぼくの《音楽開眼》だったのだろう。最初のタ・タ・タ・ターンから、何とも妙な気持になっていき、果して全曲をどういう気分で聴き通したのか、細かいことは何も憶えていないけれど、それからというもの、ぼくは音楽――クラシック――を積極的に番組から探して聴くようになった。まさに「運命」がぼくの運命を変えたわけだが、じっさい、多くの音楽愛好家の話を聞いてみると、「運命」によってクラシックへの引導を渡された人は、案外少なくないらしい。やはりこの曲はそういう独特の力があるのだろう。
こうして音楽を聴くことがひとつの目的になれば、やがて、同じ音楽ならもっと良い音で聴きたくなるのがとうぜんだし、放送のあてがいぶちの番組でなく、いつでも好きなときに聴けるレコードも欲しくなってくる。つまりオーディオの道にのめり込み始める。