昭和十一年四月二十日発行の、「電気蓄音機」という本が、いま、ぼくの手もとにある。雑誌「無線と実験」(誠文堂新光社)の臨時増刊号で、当時のベストセラーなのだそうだ。その証拠に、奥付をみるとぼの持っているのには「昭和十六年六月二十五日四十七版発行」と書いてある。なんと五年間にわたって版を重ねているわけだ。【定価貳圓】である。
タネ明かしをすれば、いまから数年前に、この道の大先輩、池田圭先生から頂いたもので、そのときに初版というのを見せていただいたら、色刷りのきれいな表紙で紙質も良かったが、ぼくの四十七版の方は、表紙も墨版一色だし、本文もいわゆるザラ紙で、それもそうだろう、昭和十六年十二月には、日本がアメリカ、イギリスを敵にまわして大戦争を始めた年なのだから、雑誌に使う紙の質も、あんまりぜいたくをできなかったわけだ。しかし考えてみれば、戦争の始まる前からそんな耐乏生活をしなくてはならないほど、日本という国は貧乏だったのだから、勝てるわけがないよねえ。
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『電蓄』っていう言葉も、近ごろほとんど聞かれなくなってきた。いまは『ステレオ』であり『シスコン』であり、『コンポ』になっている。ステレオはまだいいとしても、シスコンだの、コンポだのって、何となく軽薄で好きになれない。なんていうと、歳が知れるかもしれないが。
それはともかく、昔は『電気蓄音機』であり『電蓄』であった。そういう言葉の響きと、それに昭和十一年発行、なんてを聞くと、いったいどんな古めかしい話が載っているのかと思うかもしれないが、これがオドロキなんだなあ。たとえば次のような文章が出てくる。言葉使いはさすがに古いけれど。
『ダイナミック・スピーカーの低音部分に優れた音色に驚きの眼を瞠ってゐたのも、未だ昨日のように思へるのに、ラヂオ界の発達は同時に電気蓄音機の発達を促し、現在で廣域再生高聲器(Wide
rang moving coil speaker)や高域高聲器(High frequency loud speaker)が設計され、二〇サイクルより四萬サイクル程度迄の再生を可能ならしめ、マイクロフォン、ピックアップ、アンプリファイアーの発達も目覚ましいものがあり、世は擧ってハイ・フィデリティの時代になりました。
ラヂオや電気蓄音機を樂しみ、次ぎから次ぎへと新しい機械を組立てたり又直ぐに毀して見たりする我々にも、このハイ・フィデリティーという言葉は非情な魅力を持つものでありまして、少なく共自分の組立てたセットはハイ・フィデリティーだとか、ハイ・フィデリティー・アンプリファイアーの組立てに成功したとか言って見たくなるもので、ここに原音再生(Acoustic
faithful reproduction)の問題が起こるのであります。(以下略)」(「電蓄設計の要素原音再生に就て」上田辰夫。原文のまま)
なんだい、いまとおんなじじゃないか! けれどこれは、いまから四十年前の文章なんだ。
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と、ここまではぼくが生まれたころの話。こんどはぼく自身の話をする。前回の鉱石ラジオにつづいて、ぼくがラジオを作ったりこわしたりしていた、昭和二十一〜二年ごろの話だ。え? オレまだ生まれてねえや、なんていう人がいるものだから、こっちはイヤでも歳をとったことを思い知らされちゃうね。
鉱石ラジオを何十台か作ったり改造したりしていると、さすがに飽きがきて、いいかげんに真空管を使った本格的なラジオに取り組みたくなってくる。乏しい小遣いも少しずつ溜まっていたので、最初に作ったのが三球のラジオだった。6C6、6ZP1、12F……なんて書いても知らない人が多いと思うけれど、これは真空管の名前。6C6が検波・増幅、6ZP1が電力増幅、12Fが電源の整流。これを並三と呼んだ。そこにもう一本、低周波増幅の12Aを加えたのが並四で、これが当時の家庭用ラジオ受信機の標準型、でもあり、また、ラジオの組み立てをする人のための入門コースでもあった。今と違って便利なキットなんていうものは無かったし、ラジオ一台作るにも親切な案内書もほとんど無い。手がかりになったのは薄っぺらな一冊の「ラジオ受信機回路図案」という本だけ。その回路図から、でき上りを頭の中で組立てて、
アルミニウムのシャシーや、電源トランスやコンデンサーや、抵抗器やコイルやスイッチやソケットや、配線に必要な小さな部品まで、少しずつ買い集めてくるわけだ。生まれて初めての経験だし、教えてくれる先輩もいない。だから組み立て始めてからも、パーツの不足に気がついたり、回路図の中でも配線が三箇所、四箇所と集まっているところを実際にはどう接続したらいいのか、なんていう初歩的なことが全然わからない。そういう状態だったから、作ろうと思い立って回路図を手に入れてから音が出るまでに、おそらく二〜三カ月はかかっているかな?
それでも、回路そのものは簡単なものだし、配線がいかにも不手際なのを別にすれば、たいしたトラブルもなく無事に鳴り始めた……ように記憶している。当時の放送はNHKの第一と第二放送、それと、日本を占領していたアメリカ駐留軍向けの英語放送の三つしか入らない。FM放送だの民間放送なんていうのは、もっとずっと後になってできたのだから。
しかし電波が少なかったために、夜遅くなるといろいろとおもしろい電波が入ってくる。モスクワや中国の日本向けの宣伝放送や、関東近郊のNHK,ときには名古屋、大阪などの遠距離局も……。
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遠距離受信のことをDXという。ラジオの組み立てを始めた人間が第一に通過する関門といえる。どこまで感度を上げられるか、どこまで混信や雑音をおさえて、明瞭に、安定に遠距離局を受信できるか……。感度を上げるには、並三や並四には限度がある。次に、高周波増幅一段つきのいわゆるT高1Uを作る。もう一段増したT高2Uになる。三連のバリコンだから、調整も難しい。だから必ずしも高1より感度が上るとはかぎらない。それでも、いろいろくふうしているうちに、熊本だの札幌だの、日本国内の遠距離局が、夜間になると入ってくるようになる。おそらく、空中の状態もいまより良かったのだろう。雑音もほとんどなく、いわゆるT空電Uというあのバリバリという不規則な軽い雑音と、フェージング(音が大きくなったり小さくなったりする現象)の中から聴こえてくる放送に耳を澄ましていると、いかにも遠い地方の放送を確かに受信しているんだ、という実感が湧いてくる。ましてそれが、自分が苦労して組み上げた愛機だもの。
並三、並四、高1、高2、というのが入門者のオーソドックスなコースとすれば、その次にはスーパーヘテロダイン方式に取り組むのが常識になっていた。五球スーパー。この名前を聞いただけでも、何か特別に高級な受信機みたいに思えたものだ。いまではもっとも初歩的な回路だけれど。
いよいよ憧れのスーパーが鳴り始める。同調ダイヤルを廻すと、スーパー・ノイズと呼ばれる独特の、ジャーッという雑音が入ってきて、放送に同調するとそのノイズが無くなる。考えてみれば邪魔なノイズだが、それでさえ、初めて作った受信機がいかにもスーパーだぞ! と言っているみたいで嬉しいのだなあ。
いったん鳴りだしてから、さらにスーパーに特有の調整(トラッキング)を加えてゆくにつれて、感度と分離がよくなって、雑音も増すかわりに遠距離放送もいままでより鮮明に入り始める。
ここまでくればもう当然のように、こんどは短波放送の入るセットを組み立ててみたくなる。短波用のコイルと、中波・短波を切り換えるスイッチを増設すればいいだけの理屈なんだけれど、並三、高1……と一段ずつ進んできた入門者にとっては、次のステップに進むというのは、やっぱり相当の覚悟が必要なんだ。だいいち、アンテナだって短波用と中波用とでは違うんだもの。
で、話し忘れていたけれど、DXを安定に受信するために、良いアンテナを建てる必要があった。いま、中波放送のためにアンテナを建てる人は少ないけれど、鉱石ラジオから始まったぼくのようなアマチュアの場合、アンテナのよしあしは、受信機と同じくらい重要だった。中波用の標準的なアンテナというのは、高さ八メートル、長さ十二メートル程度の逆L字型で、そこまでは無理だったが、そのころ住んでいた家の庭の端から二階のひさしまで、長さ七〜八メートルのアンテナで受信していた。いまでも、当時住んでいた阿佐ケ谷の家には、その当時の残ガイがあるのじゃないかと思う。