写真
 風船や山吹鉄砲や、ワタワメやキリザンショの並ぶ縁日の雑踏の中。黒い箱型の写真機を並べたオッサンの前で、皆の足が止まっている。
「いいかい、この赤いのが現像液、緑色は定着液。間違えちゃいけないよ。最初に赤い液につける。ヒイ、フウ、ミイとゆっくりトオまで数えたら、こうして袋を破るんだよ」
 器用な手つきで、現像液の中で黒い紙の袋を破って捨てると、中から薄ねずみ色のフィルムが出てくる。と、見ている間にフィルムのあちこちが次第に透明になってきて、やがて淡い墨色の画像が浮かんでくる。
「このままじゃあだめだよ。ここでフィルムを水で洗う。次に緑の定着液に浸けて五分。ハイ、これで現像は済んだ。次は焼付だよ」
 オッサンは、とり出したフィルムをクリップに挾んで乾かしながら、すでに乾燥の済んだ別のフィルムをとり出して、大型の黒い紙袋をごそごそ探って、表面がピカピカ光る紙をとり出す。印画紙――と言わないで、タネガミ(種紙)と言った。そのタネ紙にフィルムを合わせてガラスの枠に挾み、太陽に向けてヒイ、フウ、ミイ……とまたトオまで数える。手早くタネガミを現像液にひたす。やがて像が現れ、定着して水洗……。これを、明るい太陽の下、みんなが目を丸くして眺める前でやるのだから、その神秘的なおもしろさといったらない。ホウロウびきの四角な浅い皿の中の赤と緑の液体の色も実にきれいだったし、それにもまして手のひらにのるくらいの四角なボックス・カメラが魅力的だ。そして黒い紙袋にヒキぶたのついた一枚どりのフィルムとタネイタ。たいていの子供はもう夢中になっしまう。ぼくもおやじにねだって買ってもらったが、なにしろ昼日中に現像ができるらいフィルムの感度が低いのだから、撮影の方がそう簡単にいくわけがない。露出不足で画が出なかったり、どうやら出てもひどい手ブレをしていたり、うまく写ったという記憶はない。
 小学校の友人の兄貴が、トーゴー・カメラという蛇腹式の立派な写真機を持っていた。ボックス・カメラにくらべると、ジャバラのカメラはものすごい高級品だった。写してやろうといわれて友人とぼくは一緒に並び、兄貴は、きょうは曇りだから三十数えるまでじっとしてろ、と命令した。写真機が高級でも、フィルムの感度はやっぱり低かったのだ。
 一、二、三……と数えはじめ、十ぐらいまではぼくも努めてじっとしていたのだが、そのうち何だかおかしくなり、友人も同じ気持だったらしく、どちらからともなくクスッと笑い出したらもう止まらなくなって、二十五、二十六……のころは二人とももう体をゆすってゲラゲラ笑ころげ、彼の兄もつられて大笑い。結局この写真はモノにならなかった。それでも写真機の魅力にあきることはなく、いやむしろ、めったにうまく写らなかったからこそ、写真は神秘的な魅力があったのかもしれない。いま、EEカメラと高感度フィルムと、それでも足りなければストロボやフラッシュで、どんな素人でも手軽にピントのいい写真が撮れる。けれど現像まで自分でやる人はものすごく少なくなってしまって、本当の意味で写真を楽しむとはいえなくなった。現像といえば、ぼくはずいぶんあとになるまで、現像液は赤、定着液は緑の色がついているものだと思い込んでいた。本ものの現像液を皿に溶かしたとき、何も色がついていないので、何かの間違いじゃないか、と思ったりしたものだ。いまにして思えば、あれは子供にも間違いが無いようにわざと色をつけていたんだね。それにしても、あの赤と緑の色がついていなかったら、果たしてあれほどの魅力を感じたろうかどうか。あの色にはそういう夢があった。

 汽車
 ぼくの世代はいわゆる疎開っ子の時代を過ごした。空襲を避けて田舎に疎開する。ぼくの場合は宮城県仙台市の少し手前の名取郡の高館村というところにあるお寺に集団疎開した。引率の先生は、ご主人が音楽、奥さんが図画の先生で、おかげで、戦争のさなか、殺バツとした時代に、音楽と画と、情操教育に恵まれていた。この先生の息子さんが当時の高専(高等専門学校)の生徒で、寮生活をしていたが、ときたま休暇をとって、疎開先の両親のところへ帰ってくる。この人が汽車キチガイで、ぼくはものすごく影響を受けた。
 そのキチガイぶりというのは、たとえばこうだ。物資の乏しい時代、汽車の模型を作るにも材料がない。その人は、馬フン紙といわれるあの黄色いボール紙だけで、本ものそっくりのSLのソリッド・モデルを作り上げてしまうのだ。おそらく寮生活の余暇に少しずつ、少しずつたんねんに仕上げてゆくのだろう。それを大切そうにかかえてぼくらの前に現われるのだ。いまでもはっきり憶えているのは、C―58の、長さ五〇センチほどの精密な模型で、その細工の細かさといったら、ピストンやロッドやパイプの類は言うまでもない。炭水車の鋲ひとつまで、ほんとうにリアルに作ってあるのだ。じっと眺めていると、ボール紙であることを忘れていまにも動き出しそうな迫力だった。
 この人はまた画もとびきり上手だった。ザラ紙を糸でていねいにとじて、細いエンピツで薄くマス目をひいて、がり版の職人のようなきちょうめんな文字で「機関車の分類」だとか「客車のいろいろ」だの「レールの話」など、鉄道に関するあらゆる話を、まるで写真のように正確な挿画入りで書き上げしまうのである。別に出版するあてがあったわけでもなければ、出版したいなどという気持も無かったにちがいない。ただ、自分の趣味にありったけの時間と手間を費やして、こつこつと小まめに、正確かつ精密な手しごとを続けているのだった。
 ぼくのこの人に、ずいぶん鉄道のことを教わって、昭和二〇年に戦争が終って疎開から帰るころには、いっぱしの鉄道通になっていた。帰ったらまっ先に行きたいと思っていたのは、万世橋の鉄道博物館だった。機関車や客車や貨車の種類を憶えるぐらいは鉄道マニアの初歩で、線路や転轍機や信号など、あらゆることを知っていなくては幅が利かなかった。しかしそのかなりの部分を、ぼくはすでに疎開中の先生の息子さんから教えられていたことが次第にわかって、あとからびっくりしたりしていた。

 鉱石ラジオ
 鉄道博物館(当時は交通文化博物館といっていた)には、「交通科学研究会」という会があって、ぼくは子供のくせに会員になっていた。また「子供科学研究会」というのもあって、これは鉄道ばかりでなく科学全般について、東京都内の一流の理科の先生が交代で講師にきてくれて、実験したり岩波の科学映画をみたり、遠足をかねた研究会をやったりして、すばらしく内容の高い科学教育をしていた。昭和二〇年代の教育の中でこれは高く評価されるべきだろう。
 鉄道の方は、知識ばかりつめ込んで頭でっかちになっていたが、鉄道の模型をやりたいと思っても、材料はきわめて乏しかったし、質の悪いトランスがものすごく高価だったりして、小遣いもほとんどない子供にはなかなかとりかかるきっかけがみつからず、須田町あたりで、細々と模型やトランスを並べてあるホコリに汚れたウインドを覗いているだけだった。
「少年工作」というちっぽけな雑誌を読むようになった。むろん最初は鉄道模型を作りたいという目的からだった。モーターもトランスも、自作しないかぎり恐ろしく高価だったので、その手馴らしにブザーの製作記事をみて、玄関用のブザーを作ってみたら、これは一ぺんで成功し、玄関を開けるたびにブーブーと鳴って、おふくろにうるさがられた。エナメル被覆の銅線でコイルを巻くことに馴れたころ、「少年工作」に斉藤健氏(日本のラジオ界の草分けの一人)が《健ちゃんのラジオ》という連載記事を書かれ、その第一回が鉱石ラジオだった。これは、材料費もかからずおもしろそうだった。レシーバー(いまでいうヘッドフォン)は、叔父がくれたのがあった。するとあとは、コイルとバリコンと鉱石だけでいい。
 その当時、神田の駅から須田町にかけて、またそこから小川町のもう少し駿河台下寄りまで道端いっぱいに、露天商が店を出していて、その大半がラジオや無線機の、新品や中品のパーツ屋だった。これが今の秋葉原の電気街の始まりである。
 鉱石は安かったし、エナメル線もバリコンも、質は悪かったがいくらでも売っていた。斉藤先生の解説どおりにコイルを巻いて、板切れの上にバリコンと鉱石をネジ止めして、アンテナとアースをつなぐと、耳にかけたレシーバー(ヘッドフォン)から、見事に放送が聴こえてくるじゃないか!
 家には三球の旧式ラジオが鳴っていたが、そういうものはスイッチを入れて鳴るのが当りまえ、という感じで新鮮さもおどろきもない。しかし、自分の手でコイルを巻き、ハンダづけして、バリコンを廻して鳴ってきた音というのは、それが生まれて初めての体験であるだけに、身体じゅうがカッと熱くなり、耳にあてたレシーバーが汗でぐしょぐしょになるくらいの感動があった。何時間でもむさぼるように、バリコンを廻しては放送を聴いた。いくら廻しても、NHKの第一と第二、それに米軍向けのWVTRの合計三局しか入らない。がそれで十分だった。
 このころまでは、鉱石ラジオから入門して、次に真空管を三本か四本使う並三または並四を作り、次に五球スーパー……というのが標準コースだったが、小遣いの少なかったぼくは、真空管のラジオにはまだ手が出せずに、鉱石ラジオばっかりで、いろいろなバリエーションをくふうした。コイルが二コになり、バリコンも二つになり、コイルの形が変わり、いくつものタップを切り換えるスイッチを設け、アンテナを高くし、アースもいっそう完全なものに改良し……そんなことを何ヶ月かやっているうちに、ぼくの鉱石ラジオは少しずつ高性能になってゆき、夜遅くなると遠距離の局が入ってきたり、マグネチック型スピーカーがかすかに鳴るところまでもいった。鉱石ラジオに関しては、いっぱしの権威だった。
 こんないろいろなことが、ぼくの趣味を育てるきっかけになっている。古い古い話である。