二十年以上の昔、まだLPレコードがそう普及していないころ、LPを本格的に鳴らそうと思ったら、アンプからスピーカーまで、優秀なエンジニアや研究家の手づくりに頼らなくてはならなかった。
 そうはいっても、その《優秀な》人がそんなにおおぜいいるわけがなくて、自称《名人》や《大先生》が横行していた。その当時は、スピーカーの前に坐ってレコードを聴くことしばし、「ウン!」とうなずき、「このスピーカーは一五八〇〇サイクルまでしか出ていませんな」などとおごそかにのたもうT大先生Uが、少なからずいたものだ。いまならヘルツだが当時はサイクルだったから、その種族に《サイクリスト》といううまいアダ名をたてまつった人がある。サイクルまで細かく言わないまでも、何かというと周波数レンジが広いの狭いの言う人はさらに多く(近ごろの私自身が少々この悪癖を反省しているが)、その手には《レンジニア》という傑作な悪口がついた。
 私自身音の聴き方に多少の経験と訓練を積んでいるつもりのほうだが、それでも、何ヘルツあたりまで出ている、とは言えても、五〇ヘルツだの一二五〇ヘルツ、などと細かく切った数字までは、聴きとれもしないし、人間の耳の構造や音楽の音の性質から考えても、何ヘルツまで、などと切りのいい数字をあげることは不可能なことは、オーディオを専門に勉強すればするほどはっきりしてくる。
 ところが、誰もよくわからないことをたった一人だけ、ウン! 一五八〇〇サイクルが……とやれば、オーディオにくわしくない人たちや、音の聴き分けに自信のない人たちはびっくりしてしまう。そういう人間の心理を知って「ウン!」をやったとしたら、相当に教祖的な素質を持った人間にちがいないが、案外当人自身はそこまで深く読んだわけでなく、自分の耳はサイクルがわかる、と素朴に信じているだけなのかもしれない。
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 少し話の枕が長すぎてしまったが、実はほんの最近、またまたこの手のサイクリスト先生がいることを話に聴いたからで、そうだとすると、案外全国いたるところで、この手の《教祖》がはびこっているのじゃないか、と考えて、その話を書いてみようと思ったのだ。
 ある若い人が私のところにへ相談に来た。新しい装置を入れたところ、低音が全然出ないどこが悪いのだろうか、という内容だ。月に四回、あるデパートでオーディオ・コンサルタントをしている一日のことである。
 話を聞いてみると、JBLのプロ用のユニットを特製のキャビネット(このT特製Uというのも少し怪しいのだが)に収めて大型のスピーカー・システムを作ってもらった、という。その人は自分では知識がないので、信頼している販売店の店員の言うなりらしい。アンプもそれ相応に、マークレビンソンその他でかなりお金がかかっている。それなのに低音が出ないというその出なさかげんは相当にひどいもので、たとえば別のプリアンプを持ってきてトーンコントロールで(マークレビンソンJCー2はトーンコントロールがないので)低音をいっぱいまで上げてみてもまだ出てこない、というのだ。これは異常である。
 こういう場合、まず疑ってみるのは低音用スピーカーの接続のあやまちだが、その点は厳重にチェックしているという。むろん話だけで、ほんとうに合っているかどうか確認できないが、それよりもその人が、興味ある話をし始めた。
 というのは、低音がどのくらい出ていないかということをチェックしてもらったら、七〇ヘルツまでしか出ていないことがわかった、というのだ。この辺から私は、この話はどこかおかしい、と気がつきはじめた。
 七〇ヘルツという低音は、決して本当に低い低音とは言えないかもしれないが、聴感上は相当に「低い感じ」の音であって、たいていのブックシェルフ型スピーカーなら、六〇ないし八〇ヘルツぐらいまでしか出ていないものだし、それでも「けっこう低音がよく出ている」と感じるものなのだ。JBLのプロ用の三八センチ・ウーファーを二本ずつ収めた大型キャビネットで、もしも七〇ヘルツまで出ればもう圧倒的な低音が聴こえて不思議はない。それが出ないというのはどこかに大きなミスがある。
 しかし私は、七〇ヘルツまで出ているというチェックの仕方に、まず興味を持った。ふつうの場合こういうチェックは、オーディオ・オシレーターか周波数レコードで低音をスイープ発振して、スピーカー・システムのインピーダンス特性を測定しながら、場合によってはマイクロフォンやオシログラフ、あるいはせめてサウンドレベルメーターを併用してチェックする。そうでなくては、七〇ヘルツぐらいとはいえても、七〇ヘルツまでしか出ていない、などと断定はできない。
 しかしそういうめんどうな理屈をこねるような話ではなかった。なんと、その人の信頼している店員氏が、よく聴き馴れた歌謡曲のレコードを持ってきて、しばらく耳を傾けたのちに、「ウン! 七〇ヘルツ……」をやったのだという。気の毒だがやはり本当のことを言ってあげた方がよいと思った。「あなた、相当に程度の悪い人に引っかかってますよ」と。
 その「程度の悪い人」というのを説明するのにさらに多くの時間を費やさなくてはならなかったほど、その人は店員氏を信頼していたのだが、それもどうやら、数字の持つ魔力というか、数字を並べることによってなにかいかにも客観的的かつ正確に聴いているかのように思い込ませる《サイクリスト教祖》のなせるわざであったといえそうだ。
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 ところで低音の出ないというトラブルの方だが、さらにいろいろ話を聴いて判断するうちに、どうやらネットワークの選定のあやまちと、スピーカー・システム全体の設計と調整の不備ということに落ちついて、当面の対策を教えてあげた。というところでこの話は終わる。ほんとうのところその人の家に出かけて診断しないかぎりわからないが、面談でのコンサルティングのこれが限度であろう。
 だが問題はここからだ。右のようなトラブルは極端な例であったとしても、オーディオ装置というものが、良いパーツを購入して組み合せただけでは、少なくとも、そのままでは良い音が聴けることはめったにない。音楽とオーディオのよくわかる、良い耳を持った、そして数多くの経験を積んだ優秀なコンサルタントが、装置を置いた現場に出向いてチェックし調整しないかぎり、こういうトラブルは後を断たないどころか、どうやらますます増えそうな状況にある。それというのも、オーティオの趣味があまりにも急速に広まったために、ほんとうに訓練を受けた信頼するに足るコンサルタントの育つ余裕がなかったからだと思う。
 そういう意味では、さっきの販売店の店員氏の例も、わる気があったわけではなく、知識の欠如であり、音を聴き分ける訓練を受けていないための、おそらく単純なミスにすぎなかったのではないか。むろんそれが、ユーザーから多額のお金をあずかった結果のことであってみれば、本人にわる気のあったなかったは別として、客観的にそれは罪である。これがもし建築家の仕事だったら告訴問題にもなりかねないところだ。
 それにしても日本というところは、たとえば調整とか測定とか診断とかコンサルティングのような、ものの形をとらない仕事がペイしにくい国だと思う。それだから、オーディオの場合でも診断や調整を専門にするコンサルタントがほとんど育たないで、それは販売店がものを売ることによるマージンの中に、無料サービスとして含まれることになる。だから販売店も、ものを売ること以外の研究に本腰を入れるところはきわめて少ない。
 自分一人の利益ばかりを考えずに、広い視野でオーディオの行く末を見つめているようなメーカーや良心的な販売店は、きわめて少ない。いまやオーディオ産業の発展のために「買い換え需要」をいかに伸ばすか(ユーザーにいかにして現用機を手放させて新製品あるいはさらに高価なパーツを買い換えさせるか)を、作る側・売る側が一体になって研究している時代なのだから。
 ではどうするか。専門のコンサルタントはほとんどいないに等しい。メーカーや販売店も、ごく良心的な一部を除いては、ひとつのパーツを徹底的に使いこなすヒントを提供するよりも、いかにしてそのパーツを一日も早く捨てさせるかの作戦を練っている。どうしたらいいのか。
 やっぱり、ユーザー一人一人が、自分の知識の枠をひろげ、感覚を磨いて、自分の力で使いこなしの研究をしなくてはならないだろう。少なくとも、ほんのわずかの調整の仕方で、同じパーツとは思えないほど音が良くも悪くも聴こえるということを、ユーザー一人一人が肌で感じなくては、そしてパーツの組み合わせよりも使いこなしの研究の方が、音質の改善に役立つことを身に沁みて知らなくては、問題は解決しないだろう。低音が出ない、ということは誰にでもわかる。ではどうしたらそれが改善できるか。それを知るためには、オーディオに多少の知識が要る。それは、自動車を入手したらエンジンの構造や操作の基本を知らなくては、簡単な故障でも専門家の手を借りなくてはならないのと同じことだ。自分で運転できなければ、専属の運転手をやとい入れるかタクシーに乗るほかない。だがオーディオ界では運転手はまだ育ってきていない。やっぱり自分で勉強し研究し、技と感覚を磨くほかはないということになる。しかし最後に言わせてもらうなら、オーディオの本当の楽しさは、パーツをそろえたところから始まるのだ。
 それでもまだ、一体日本じゅうのオーディオ愛好家の何パーセントが、ほんとうに良いコンディションでレコードを楽しんでいるのかと、おせっかいだと知りつつ、私はとても不安になってしまうのだ。