四〇万の法則――などと言っても、もう知っている人のほうが少なくなってしまったにちがいない。
人間の耳は、二〇ヘルツから二万ヘルツまでの周波数の音を聴きとる。20×2万は40万。したがって人間の耳に快い音を再生するには、低音の再生限界と高音の再生限界の積が四〇万になるようにするのがよい。たとえば低音が四〇ヘルツまでなら高音は一万ヘルツ、低音が三〇ヘルツなら高音は約一万三千ヘルツ、というように。これを「四〇万の法則」という。
私がこのことを知ったのはもうずいぶん古い話……と記憶をたどって押入れの隅を探したら、「ラジオ技術」の発行先であるラジオ技術社がまだ科学社という社名だったころ、「ラ技」の臨時増刊第四集として発行した「電気蓄音機の製作」が出てきた。この本の一〇九ページに、故田口 三郎博士の「こころよい音」という短い文章が載っている。その一部を引用させていただくと、
「NHKで快い音の条件をしらべていたところ、偶然再生周波数の最低遮断周波数と最高遮断周波数とをかけあわせた籍が、40万になる場合、いちばん快い音に感ずることを発見したのであるが、やって来たアメリカさんに聞いてみると、やはりあちらでもこの積の40万という数字が心よい音をきめる目安になっていることがわかった次第である。」
この号の発行は昭和二十五年十一月十五日となっている。これからほぼ一年あとに、私は生まれて初めての原稿を書き、「ラジオ技術」の《読者の実験報告》欄に採用された。こう書きながら、ずいぶん古い話だと思っているが、田口博士の紹介された四〇万の法則そのものは、決して古い話にはなっていないと思う。それだから、いまこうしてここに再び紹介しようというわけなのだが、田口博士の話をもう少し続けると、四〇万という数の平方根は約六三〇になる。この六三〇ヘルツ(当時はサイクル)を境目にして周波数のグラフを二つ折りにしてみて、高音と低音の曲線が対称に重なりあうような特性が快い音の条件だと、博士は言う。そうてさらにこの六三〇ヘルツという周波数の正体を探ってみると、第一にこれは人間の内耳のナチュラル(自然共振)であり、内耳の特性曲線は六三〇メルツを中心にした確立曲線を示している。第二に人間の発声のメカニズムを円錐型のラッパと考えると、口をぽかんと開いたときのナチュラルが同じく六三〇ヘルツだという。さらに六三〇のオクターブ下(
1/2)の三一五ヘルツは女の人の声の高さであり、二オクターブ下(1/4)の一六〇ヘルツ附近はおことの声の高さ、なので、結局、人間の耳は人の声を聴くのに都合よくできているし、また、内耳の構造からみても六三〇ヘルツを中心とした対称型の周波数が、快い音の条件になるのが当然だと、博士は結論づけておられる。
右の文章は科学論文ではなく気軽な随想の形をとっているから六三〇ヘルツという数字は必ずしも厳密な数値だとは思えないが、しかし、確かに周波数特性グラフ(その性質上、対数で目盛ってある)の二〇と二万が重なるように二つ折りにしてみれば、六三〇がその中心、即ち平方根であることは一目瞭然である。卓見といえよう。
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しかし実際これが二十五年も昔の話なのだから、最近になってオーディオを始めた人たちからみれば、そんな古い理屈が現在通用するのかどうか、半信半疑に思われるにちがいない。確かに、最近の進んだ録音・再生の技術や機器にもとづいて精密な実験をくりかえしてみなくては、右の説が現在でも正しいかどうかについて、性急な判断を下してはいけないだろうけど、たとえばフレッチャーとマンソンのラウドネス曲線をはじめとする人間の聴覚のしくみの基本は、ほとんどが一九三〇年代までのデーターによって現在でも説明されているという事実があるように、耳の性質にかかわる問題が、二十年や三十年で根本的にくつがえされということもまた、考えにくいのである。それにしても、いま世界的に看ても音響の分野でぼう大な
研究費を使うことのできる日本の大メーカーの研究所で、もっと基礎的かつ組織的に、過去に確立された音響理論の追試などやってみたらどうなのだろうかと思う。
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ところで再び四〇万の法則だが、これが一般的に知られるようになった昭和二〇年代の後半には、いろいろな人たちが興味を示し、実験をくりかえして、確かに四十万は妥当だ、とか、いや五〇万、いや六四万の方が適当だ、などと論議の盛んな時期があった。数値が大きくなるということは、低音の限界に対して高音の限界の方が延びてゆくことをあらわしている。たとえば六四万説をとれば、低音が四〇ヘルツまでなら高音は一万六千ヘルツ。何となくこの方が良さそうにも思える。
これはひとつには、人間の耳の別な性質によるものだと思う。耳は、本もののファンダメンタル(基音)を聴かなくても、倍音がきちんと出ていれば基音が聴こえるように錯覚するという性質がある。反対に、低音をカットしてしまうと、基音の音色や音階を聴き分ける能力が落ちる。
仮に低音は六〇ヘルツぐらいから下が再生できなくても、それ以上がきちんと出ていれば、人間の耳は、心理的に三〇ヘルツの音を聴いたように錯覚することがありうるのに対して、高音のほうは、再生周波数の限界までしか聴こえない。言いかえれば、低音がほんとうに低いところまで再生できなくても、出ているかのように思わせてゴマ化すことが容易だが、高音は正直に、出ているところまでしか聴こえない、という理屈になる。そうだとすれば、心理的に低音と高音のバランスが良いように聴こえても、実は低音のほうは倍音で一見それらしくゴマ化して、実際には低音と高音の積が六四万どころか八〇万ぐらいになっていることさえ、ないとはいえない。二十五年前といえば当然モノフォニックの再生だが、ステレオにすれば低音のゴマ化しは一層容易になる。
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右のような人間の聴覚のしくみを、恐らく十分に意識しないままに、最近の安もののブックシェルフ・スピーカーは、低音をひどく粗末に扱う作り方になっている。また、そういう質の悪い低音しか知らないで育った世代が、現場でスピーカーの設計や開発を担当する時代になっている。まして一般のユーザーは、本ものの低音、大型の質の良いスピーカーから再生されるほんとうに良い低音のファンダメンタルを聴いたことがないから、ニセものの低音で簡単にゴマ化されてしまう。ちっぽけなブックシェルフ・スピーカーから、質の良い四〇ヘルツが出る理屈はない。まして、長さ二メートルそこそこの折りたたみホーン(たとえばバックロード・ホーン)で、三〇ヘルツ、四〇ヘルツのファンダメンタルなど、理論的にも実際にも、再生できるはずがない。ブンブン唸る音はせいぜい六〇ヘルツどまり。ドスンと腹にこたえる音も八〇ヘルツぐらい。本ものの低音は、もっと何気なくしかし振動音が数えられるような確かな手ごたえと、底力のあるエネルギーを秘めている。プログラムソースからアンプまでは、近年、そういう低音を再生できる能力をそなえてきているのに、おそらく市販の九〇パーセント以上のスピーカーは、ほんとうに低いファンダメンタルを再生できない。
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しかし本ものの低音というのは、技術の上でもコストの面からも、そう容易に再生できるものではないし、不用意に低音をほんとうに延ばしたら、かえってレコードに刻まれたカッターの雑音や床からの振動などのアラが耳ざわりで有害なことさえあるだろう。
だから低音は適度にカットされていることがかえって良い結果を招いているのだが、物理的、データ的には低音がそれほど延びていなくても、心理的に、本ものに近い低音を感じさせる音は作れるはずだし、むしろロー・コストのスピーカーほど、そういう低音を聴かせるための高等技術が必要になる。
昨年の秋にデンマークのB&Oのポータブル・ラジオを手に入れた。ポータブルといっても小さな手さげかばんくらいはあるが、それにしても、このモノフォニックのラジオから再生される低音の見事なこと。また、低音と高音のバランスの良いこと。決してワイド・レンジでもない。むしろ音域は狭いのにその狭さを感じさせない巧みな作り方である。本もののファンダメンタルなんぞ少しも出ていないのに、シンフォニーでもロックでもジャズでも、いかにも低音がよく延びたような鳴り方をする。楽器の鳴らす音とスピーカーの再生する音と、どこが同じでどこが違うのか、を十分に知り尽さなくては、ポータブル・ラジオでこれだけの快い音のバランスは作れないはずだ。