クレデンザー、ライカ、家一軒……。三題噺めいているがそうではなく、昭和ヒト桁の中ごろ、この三つは同じくらいの値段であった、のだそうだ。クレデンザーは当時最高といわれた大型の蓄音器。ライカはいうまでもなく三五ミリ・カメラの元祖。それか、四〜五人の家族で楽に住める土地つきの家一軒と同じぐらいの価格だったという。いま、ライカで約五十万円。蓄音器はJBLのパラゴン級で最高にぜいたくをしても五百万円台……。
 カメラやオーディオは、いかに高級品といってもしょせん大量生産される工業製品だ。同じものが数多く作られ大量に売られてゆけば、少しずつ安くなってゆくのは、工業製品の常識だ。これにくらべると、家や土地の値上りは少し複雑な要因が働いている。が、いまここでは、家が高くなった理由を論じたいのではなく、カメラやオーディオが安くなってゆくことの意味を探ってみたいのである。
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 品質の良い製品が少しでも安い価格で手に入ることに反対する人はまさかいないと思う。なにもライカとはいわず、ニコンやキヤノンを例にとっても、かつてニコンS2やSP、キヤノンVISbや6Lなどという名機が生み出された一九五〇年代に、これらのカメラの価格は六万円台から十万円弱、というランクにあった。しかし、一九五〇年代の十万円といえば、これは途方もない金額であった。大学卒のサラリーマンの初任給がついに一万三千円を超えたのが、驚異的な高額だと社会の話題になった時代の話だから、そのころの十万円といえば一流会社の初任給の約一カ年分。すると当時の十万円はいまの百万円ぐらいに相当するという理屈になる。いかに高級とはいえ、カメラ一台が百万円、と聞けば、これは誰にでも買える金額ではなくなってくる。
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 そういう背景を考えると、オーディオもカメラも、実に安くなった。当時と同じ性能の製品が、いまの貨幣価値でいえば百万円もしたカメラが、いまは十万円以下で入手できる。実に幸せな時代である。
 しかしほんとうに、当時と同じ性能だろうか。バカを言うな、当時よりよほど高性能になっているさ、と答えがはねかえってくるだろう。が、ちょっと待ってくれ、と私は言いたい。ほんとうに当時以上なのか、ほんとうに幸せな時代なのか……。
 もう一度ライカに話を戻そう。一九三〇年代に作られたライカの見事さは、いまでも語り草になっている。大切に保存された製品や、さんざん使い古されながら生き残っている製品から、そのすばらしさを読みとることができる。黒塗りのボディの塗装は、さながら漆の滑らかさで、そこに特殊な工法で純銀の文字が象嵌されている。入念な塗装が剥げ落ちて真鍮の地が露出し、ニッケル・メッキしたノブのローレットの山がスリ切れるまで使っても、むしろそのあたりから一層調子が出てくるといわれるくらい、そのメカニズムの耐久力にも定評があった。
 そういうライカからみると、いまのライカは材質も工作も仕上げも、手抜き工事の駄作だと悪態をつきたくなるくらい堕落している。近年それは急速に、目にみえて現われてきて、ライカと共に生きた名人木村伊へい衛氏は、まるでライカがダメになったから死んでしまったのじゃないか、などと不遜な冗談も言いたくなるくらい、ライカは悪くなった。
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 がしかし、話はここからなのだ。ライカは悪くなった。それほど悪くなったライカでさえ、国産の高級(と称する)カメラと使いくらべてみると、その仕上げといい使い心地といい、カタログには現われない微妙な部分の性能に至るまで、控え目に表現してもはりひとランク違う、と言わざるをえない。ひとつだけ例を挙げればファインダーの見やすさ。評判の高い国産のAE式一眼レフを買ってみた。二カ月ほど使って、ある日久しぶりにライカ・フレックスのファイダーを覗いてみて、こりゃいかん! と思った。ライカ・フレックスのファインダーの方が、はるかに明るく、クリアーでしかも大きく見える。カタログ上のファインダー倍率でいえばたいして差がないのに、実物では大違い。ライカ・フレックスは、ファインダーの隅の方でも正確にピント合わせができるのに、国産の自称《高級機》のそれは、隅の方では像がボケてピントなど合わせられないし、コントラストの強い被写体を覗くと、ファインダーのあちこちに見ぐるしいフレアーが生じて目が疲れやすい。
 正直言って、そういう実際の性能面では、もはや国産とライカの差などなくなっている筈だと思っていた。それでも私もがライカを好んで使うのは、ただ、手に握ったときの感触の良さやシャッターの押し心地の良さなどという、単に(しかし私にとっては最も重要な)フィーリングの違いだけだと、いつのまにか信じ込んでいたのに、ファインダーひとつとってもいまだに歴然と差がついている。実写の結果も、順光線で絞って使えば写りぐあいに大差はないのに、曇り日や逆光などの悪条件で、解放絞りに近いところで使うと、これもまたライカのレンズの方が、発色もコントラストも明らかに一段上なのである。そういう違いは、くりかえすがもうないものと、いつのまにか思い込んでいた。そういう面では国産を評価していたつもりだったのに、使ってみて、ああ、まだまだ追いついていないんだなァ、と、何とも複雑な気持に追い込まれた。私はすっかり考え込んでしまった。
 くどい言い方になるが、材質も組み立ての精度も、仕上げも耐久力も、明らかに悪くなってきているライカに、まだ国産機が及んでいない。いったい、カメラはもはや国産が世界最高だなどと、どこの誰がほざいているのだろうか。ほんとうに国産機を育てたいのなら、もっともっと叱るべきではないだろうか。私はカメラは門外漢である。素人である。その素人にもわかるような違いを、カメラ雑誌でも業界でも、少なくとも表立って問題にしているようには思われないのは、いったいどういう理由なのだろうか。
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 性能はどこまでも改善される一方で、しかも価格はますます安くなっていく、などという言い方を、だから私は、カメラに関しては信じていない。昔より良くなったのは、たとえば大まかなところでの使い勝手(使い心地ではない)の改良であり、素人にも間違いなく扱えるような、いわゆるフール・プルーフとしてのメカニズムの改良であって、その改良されたメカニズムに、いかに耐久力の強い良質の材質を、いかに精度よく加工し組み立てて、いかに入念な外装処理を施すか、という、ほんとうの意味で機械の良さを左右するような面は、まったくなおざりにされている。実のところ、最近久しぶりにカメラ屋の店頭であるカメラ(日本ではこれが最高級だといわれている老舗の製品)を手にとってみて、そのメッキの質の悪いこと、デザインに品格というもののまるで欠如していること、そしてレヴァーを巻き上げシャッターを切ってみて、その作動音の、いかにも内部の精度や材質の粗末さを伺わせるような安っぽさに、これがあの有名な? と一瞬信じられない気持になり、やがてあまりアホらしい出来に思わず吹き出してしまったことがあった。
 かつての日本の高級機には、真に高級品と名づけるに値する見事な――工芸品と言ってもいいような――出来栄えがあった。その同じメーカーの最新の製品が、当時とくらべてはるかに安っぽい、粗雑な出来で、しかもそのことを関係者の誰もが、気がつかないのか、それともユーザーからの声がないのをいいことに気づかないフリをしているのか、私には知るよしもない。もうひとつのやはり有名メーカーの新製品のボディの皮張りに使われている人造皮革のシボの質感は、まるでオモチャ屋に並んでいる子供用のカメラのそれと変わらない。こういう質感を選んで平気なデザイナーの感覚の洗練されなさといい、それを製品化するメーカーといい、揃いも揃って高級品の持つ共通の洗練された品位というものを知らないのか、あるいはかつて国産カメラの確かに持っていたものの伝統がどこかで断絶してしまったのか……。
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 確かにカメラは安くなった。安く、良いものを作ってくれることに誰も反対はしない。だが、安くなったのとひきかえに、本当に良い材質、手のかかる加工や組み立てや仕上げを捨てて、浅薄な意味での合理化の道を、あらゆるカメラがとってくれることを、私は望まない。無駄を省いた安いカメラも必要である反面、その時代にできるかぎりの、人間の叡知のかぎりを尽して最高の技術を注ぎ込んで作りあげた、本当の高級品というものが、世の中から姿を消している。そういう人を相手にしていたら商売が成り立ちませんとメーカーは言う。成り立つだけの価格を、百万円でも、家一軒分でもつけたらいい。そういう道具が不必要な時代になったなどとは、私は絶対に思わない。そういう名作を頂点にして、ロー・コストの機械が本当に改良されていくのである。
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 とまあ、レコード雑誌を承知でカメラのことをイケしゃあしゃあと書いたのは、それにかこつけてオーディオ製品のことを言いたかったのだ、などと書くのを蛇足というのだろう。