どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
そういう素朴な気分を味わうことが、近ごろ少なくなってきた原因をいろいろ考えてみると、そうした素朴な良い音を聴かせてくれるオーディオ・パーツが減っているのではないかというふうに思えてくる。外で食事しても、めったに旨いものにぶつからなくなってきたことと、案外これは無縁でないのかもしれない。ことに最近の国産オーディオ機器の中には「この製品に社運をかける」みたいな気負った感じが露骨に現われて、どうにも聴いて楽しめない音質が増えているように思えてならない。
いまさら言うまでもない不況と物価高と、ことに家電業界では、カラーテレビも一般家電製品もそろそろ頭打ちになり、それでことさらオーディオに新しい活路を見出そうというような動きが見えてきて、むしろ不況ゆえにオーディオの新製品開発や宣伝・販売合戦がすさまじくなってきているとも言える。世の中が不況のときほどオーディオは伸びる、というジンクスさえあるそうで、ただしこれは日本のことではなく、昨年暮れにアメリカを訪れた際、「AUDIO」誌の編集者から聞いた話であるが、この秋の内外各社の製品発表をみていると、世界的に、オーディオ界が近年になかったほど活発な動きをみせていることは、過日開催された「エレクトロニクス・ショー」にも現われているし、十一月に開かれる「全日本オーディオフェア」でも、おそらくいろいろな形で読者諸兄の目にふれる機会があると思う。
私たちを含めて、オーディオ・ジャーナリズムや販売店を対象に、そうした新製品の大半はすでにいろいろな形で試聴しているが、それら新製品の音を聴き、手にとってみるにつけて、その音を聴くことがただひたすら楽しくて幸せな気分に浸れるというような音質に、めったにお目にかかれなくなってきていることを感じる。これでもかこれでもかという新製品発表競争や、われこそははとはったりを利かせた宣伝に、私自身がいくらかへきえきしてアレルギー症状を呈しているせいも無いとはいえないが、その点を割引いてもなお、旨いものを口に入れたときに自然に顔がほころぶと同じように、聴くことがただ無性に楽しく、いつまでもでもぽかんと聴き惚れていたくなるような、そんな音には、まず近ごろは出会う機会がすっかり減ってしまった。そらく、製品を開発し企画し設計・製造し、販売・宣伝する人たちの大半が、不況期の中での激烈な戦いを意識しすぎているせいか、まなじり決して、みたいな心理状況になっていて、それが製品の音質や外観に反映しているのではないかと思う。旨い食べものを作る心境と同じに、もっと虚心に戻らなくては、本ものの良い音を作ることはできない筈である。
よく、良い音質とはどういうものか、だとか、音質の良い悪いの区別がよくわからない、などと言うけど、何も凝った料理の話ではなく、ふつうのご飯がうまく炊き上がれば、誰が食べてもそれは旨いと思うように、音もまた微妙なニュアンスを云々する以前に、旨い飯と同じように、ただ素朴に良い音質というものが大前提に置かれて、そこで音の複雑な味わいを論じる基本ができ上がる筈で、そういう意味で良い音が最近聴けないと私は言いたいのである。それは、三度の食事のような必需品でさえ良い米や旨く炊かれた飯が減っていて、飯の旨いまずいを判る人が減ってしまっているという現状に似ているのかもしれない。日常身の廻りに本当に良い音が溢れていなくては、新しく製品を作るでも買うでも、良い音質の判定能力はどんどん失われていってしまう。
伊丹十三氏の随筆の中に、外国の友人に水の味の話をしたら「水に味があるのか」と聞き返されておどろき、そこで改めて日本の水の旨さを思う話があったが、米や水と同じように、日常身辺に良い味、良い音が豊富でないと、尤素朴なところでさえ旨いまずいを判断する力が弱まってしまうものだし、いまの美津濃話にもあるように、生まれた時からまずい水を飲んでいれば、水を味わう能力がまったく開発されずに一生を終ることになる。人間の潜在能力は、何かに触発され開発され磨かれなくては駄目なものであるらしい。
ヨーロッパのパンが旨いことはいろいろの人が書いているが、二年前ドイツを旅したときも、先日欧州各地を歩いた際にも、確かにパンとバターは旨かった。日本なら、どこそこのあの店とこの店……というように探し歩いて買ってくる程度の味は、観光客専用みたいなホテルでも日常の味なのである。ヨーロッパで日本のパンがまずいという話になって、そのまずい味をいろいろ説明したら、相手が、それじゃアメリカのパンみたいな味なのか? と言ったという話をしてくれたのは誰だったか、確かにアメリカのホテルのパンは日本と同じようで、だとすれば、日本が戦後アメリカの影響を受けたことがパンの味にも及んでいたことに気がつくわけだが、パンはともかくとして米の飯でさえ旨いのにめったに当らなくなってしまえば、経済成長がどうの、国民所得が世界第何位だの、ひいては日本のオーディオ・パーツが世界水準をゆくかどうか論じることが、いかに人間の豊かな心の裏づけのないところで行われているかがわかる。
本当に旨い米の飯は、軽く塩を振っただけでもたいしたご馳走になるが、そういう飯を不幸にして食べたことのない人にその味をいくら説明してもわかってもらえないと同じように、私の言う素朴な良い音というのも、やはり一度でもそういう音を聴いたことのない人には説明が難しいが、それは決してびっくりするような音でなく、ただ何気なく、どこにも特徴がないようでありながら、しかし聴いているうちにその良さが心に滲み渡り身体じゅうを仕合わせな感じが広がってゆくというようなもので、そういう音が鳴れば、そのもとの音楽を演奏し、唱っているアーチストたちの心もまたこちらに素朴に伝わってきて、機械が音楽を鳴らしているのではなく、再生装置が自分と音楽を自然に接いでくれる。言いかえれば、再生装置は自分の耳の延長であり、自分の身体器官の一部のように思えてくる。何もこれはオーディオにかぎった話ではなく、気に入った万年筆が自分の指の一部のように思われるのと同じように、職人たちが道具を自分の命と同じくらい大切にするように、優れた道具はすべての人間自身の延長であり、自分自身の潜在能力を触発し磨き上げてくれるものなのである。そうあるためには、結局、道具を生み出す人たちの心が優れていなくてはならない。当然のことだと思う。旨い米が減ったのは、日々の食事の一回一回を大切にする人の心が減ったために外ならない。それだから、旨いパンのあるヨーロッパには、本当の意味での人間の生活が脈々と営まれている。だとしたら、旨い米が豊富に出まわらないかぎり心のこもった音は生まれてこないのか……? まあこれは冗談だが、気負いやはったりの無い、もっと日常的でさりげない、素朴で本ものの良い音質というものを、この辺でもう一度考え直してみなくてはいけないと思う。どうやら最初の反省にもかかわらず、結局また理屈っぽいオーディオの話になってしまったが……。