不況を案じられながらも、この秋のオーディオ商戦は、また一段と激しさを増しそうである。このオーディオ業界で製品を作って売るということは、私などの考えているよりももっと甘い汁があるらしい。そうでなくてどうして、大手家電メーカーまでがいっせいにこのマーケットに殺到するのだろうか。
 いわゆる大手メーカーのほとんどがこのマーケットに殺到し始めたということは、言いかえれば、オーディオの分野カメラや自動車の業界の例にもれず、いまやメーカー側、販売者側の精力が圧倒的に強くなってきて、いくらユーザー側、ジャーナリズム側が望んでも、製品の価格やグレードや性格の決定はメーカー側が主導権を握った形になってしまい、メーカーの販売政策にジャーナリズムもユーザーも右往左往させられる、という結果をもたらし始めている。新製品をとりあげて論じることが、オーディオ雑誌の記事の柱になっていることが、そのことを何よりも証明している。そういう形へのささやかな抵抗として、趣味としてのオーディオのありかた、いわゆるオーディオの本質論、あるいは心情的な記事があちこちでとりあげられるようになってきたことさえも、右の事実を裏側から説明していると私には思える。むしろ一部の人たちがオーディオ趣味論、心情論を叫ぶほど、別の一部の人たち、一部のメーカーから、オーディオ実用論的な居直りが出てくる。オーディオはすでにひとつの文化なのだ。一個人の趣味という領域を離れて、社会の中でのオーディオの機能を論じよう。そういう視点からみれば、いまやオーディオは実用としての観点からとらえるべきだ……式の論法が成り立ってくる。
 実用としてのオーディオ、というものを私は否定しない。しかしそれは、オーディオが私にとって大切な趣味であることを前提にして、趣味としての、あるいは心情としてのオーディオを論じるためには、反面の、実用としてのオーディオというものが十分に確立していなければならないという意味からである。しかし実用としてのオーディオを定義しようとしても、考えを進めてみるにつれて、意外にかんたんな問題でないことが明らかになる。言葉の上の問題としてでなく、現実の問題として、趣味のオーディオ実用のオーディオのどこに一線を引くのか。
 低音から高音まで、音楽の再生に一応不足ない周波数範囲がきちんと出て、歪もあまり多くなく、耳ざわりなクセもなくきちんと鳴る――。そんなところから、仮に、実用としてのオーディオの枠を考えてみる。そういう条件なら、十分に合格するオーディオ装置はザラにあるだろう。
 しかしいま一歩考えを進めてみる。レコードにはまぎれもなくスタインウェイの音が入っているのに、それをボールドウィンみたいに響かせる装置がある。ウィーン・フィルの音をニューヨーク・フィルみたいにブライトに鳴らす装置もある。いくら音がきれいでも歪が少なくても、そういう装置は、趣味としてはもちろん論外としても、実用としてもやはりぐあいが悪いのではないだろうか――。こんな仮定をしてみると、そろそろ話が難しくなってくる。
 一応の音がきちんと出て、音がよごれたり、割れたりしなければ、ウィーンの音色がニューヨークになったって、むしろおもしろいぐらいのもので、実用としてのステレオならちっともかまわないじゃないか、という意見が当然出るだろう。だが私は反論したい。そういうふうに音色を変えることの是非は別として、それをもしおもしろいというのなら、それはむしろ実用としてでなく趣味のひとつとしてのステレオじゃないのだろうか、と。
 たとえば、ルームクーラーという道具は決して趣味の対象ではなく、実用としての機能・目的がはっきりしている。実用という言葉を、機能的・合目的的と言いかえてみれば、クーラーの機能とは、いかに部屋を効率よく冷やすかということにある。クーラーから送り出される冷たい空気が、妙に油くさかったりしたら、クーラーとしては欠陥商品だろう。もしもその逆に香水の匂いを混ぜたりしたら、それはクラーラーの実用としての機能の枠を越えることになる。実用とか合目的というのは、基本的な性能をしっかりとドライにおさえることを言うのだから、クーラーが部屋の温度や湿度を下げ、洗濯物がものをよく洗い、掃除機がたたみやカーペットの目につまった細かいホコリまでをきれいに吸いとる、というような、本来の目的を遂行してくれればそれで十分で、むろんそこに経済性や扱いやすさや騒音の少なさなどがあげられる。蛇足ついでにつけ加えるなら、仮に、クーラーの目的は部屋を冷やすことなのだから騒音は少しぐらい仕方ないといういいわけが成り立つとしても、しかし部屋を冷やすのが目的なのに不要な雑音までつけ加えて欲しくはない。それが本当の機能的ということではないか、と考えるのが本すじだろう。
 そこでオーディオに話を戻すなら、いまクーラーについて定義したことを、改めて実用としてのオーディオ装置について考えてみれば、スタインウェイはそのままスタインウェイの特長を失わずに鳴らし、ウィーン・フィルの音色そのままでなくても、せめてそのエッセンスを損なわずに鳴らす、ということが実用機としてのオーディオの最低限の資格なのではないだろうか。そして、もしそうだとすれば、いまや、実用としてさえ、その性能が目的に満たないオーディオ機器がいかに街に溢れていることか。
 その点についてもう少しつけ足すなら、右のような資格を満たすにはロー・コストのセットでも十分に可能性のあることを言っておく必要がありそうだ。  いま、オーディオ製品の主流はコンポーネント・タイプに移行しつつある。しかし、コンポーネントのメリットは組み合せの自由度の大きさや、グレードアップの可能性の拡大であり、そのために、各パーツの性能に大幅な余裕を持たせてある。
 もしも、最近ではメーカーが熱心でなくなったモジュラー・タイプのようなステレオを新たな角度から再検討するなら、スピーカーの弱点をアンプやカートリッジで補うという形で、むしろロー・コストの枠の中で充実した性能を出すことが可能になる。たとえば、さきに書いたスタインウェイらしい特長を鳴らすのに、いま一般に信じられているようなまっとうなハイフィデリティが必要なのではない。ワイド・レンジ、ロー・ディストーション、というよなバカのひとつおぼえのような幼稚園的オーディオ技術しか知らなければ、まともな音を出すのはお金のかかる作業になってしまう。けれど、適度のナロウ・レンジと、そこに人間の聴覚のしくみや人間の環境や、音楽の音色の特徴などの多角的な見地から巧みな補正を加えるなら、決して高価でなく、聞いていかにも音楽が鳴り、扱いやすく信頼性の高い、ほんとうの意味での実用のオーディオ装置を生み出すことが十分に可能なのである。
 ただしそういうセットは、オーディオと音楽と人間全般についての広い見識と経験を持ったヴェテランのエンジニアでなくては作れない。ところが現在のところは往々にしてこの種のセットほど、経験の少ない入社早々の若いエンジニアの勉強の手段、ぐらいのつもりで設計が進められる。良いものができるはずがない。しかし実用機の良いものひとつ作れなくて、まして趣味のための、一人の人間の生き方を根本からゆさぶるほどの名機を作れるはずがない。セパレート・タイプやモジュラー・タイプ、あるいはコンポーネント・パーツの中のレシーヴァー。これらのパーツやセットを、一段低い位置にみて作ったり売ったりする態度を改めて、こういうタイプこそ、本当に優れた実用機として練り直そうと考えるメーカーが、せめて一社でもいいから出てこないものだろうか。
 こういう形でほんとうに優れた実用機が確立すれば、そこから趣味としてのステレオを論じることも容易になる。また、現在のように名称だけ「コンポーネント」を名乗った、その実オモチャ同然のセットも姿を消すだろう。少なくとも、そういうオモチャが生存しにくくなって、コンポーネントの良いものは、決してバカ安にまとまるものでないこともはっきりするだろう。一部のメーカーの広告や一部のジャーナリズムが、オモチャをそうでないように言いくるめるために、いま、安物コンポーネントに過大な期待を植えつけられて、買ってみて失望するユーザーの被害が増えている。オモチャにはオモチャの音しか出せないことを、はっきりさせるべきである。オモチャの先に実用機があり、そのずっと先に趣味がある。趣味を論じるのはそれからの問題だ。