繊細な音色を聴きとる能力という点で、日本人の耳は世界的にみても優れている。たとえばこの「繊細」という形容など、日本のオーディオ・ファンが好んで使う言葉の代表的なひとつだろう。古くから、文学でも松の梢を渡る風の音、虫のすだく音、幽けき衣擦れ……など、繊細な音を聴きとることが生活の中の感覚を大きく支配していた。
 反面、駅のプラットフォームのベルの音や観光地でのアナウンスの、あの、喧噪としか言いようのないひどい雑音に一向に無神経というか無感覚というのか、ああいうものすごい音に一言の文句も出ないという現実と、日本人本来の細やかな感覚はいったいどこでつながるものか、ほんとうのところ私にはよくわからないのだが、確かに近ごろは、オーディオ専門の販売店の店頭でも、ひどく歪んだ音をものすごい音量で平気で鳴らしたり、それをまた平気で聴く人たちが増えてきた。しかしそれは、あくまで感覚の洗練ということと無縁の世界でのできごとだとしておくべきだろう。洗練された感覚のないところは野蛮国と同じなのだから、論議の対象とするには及ばない。少なくともここでは、繊細という表現を大切にする人たちのあいだで通じる話をしたい。
 で、再び、繊細さの話に戻るが、ともかく日本人の耳はそうした音に極度に敏感であり、潔癖でありながら、その逆に音の豊かさとか厚みとか弾力とか、大河のような持続やうねり、そこに投げ込まれて身体ぜんたいが音で充たされ、包まれるというような、そういう傾向の音には本質的にそれほど馴れていないのではないか。言い方をかえれば、繊細さを聴きとる鋭敏な耳が、反面の音の豊饒さを聴きとるには極めて鈍いのではないか。そんなふうに私には思える。
 もう少し別な言い方をすれば、日本の音楽には伝統的に低音のメロディ楽器が欠けている。大太鼓は低音を鳴らしはするが、いわばリズム樂器であり、音程は一定である。尺八の一種である法竹や大型の琵琶の中に、日本の楽器としては低音の出るものがないではなかったが、パイプ・オルガンやコントラバスに匹敵する低音もエネルギーも、日本の音楽には本質的に欠けている。とうぜん、音の持続としての低音のハーモニーも伝統的に日本の音楽の中には見当らない。あるいは日本にも、仮にほんの短い一時期でも低音の豊かな時代があったのかもしれないが、大きなエネルギーで持続する低音のハーモニーというのは、どうも日本の音楽の中に見当らない要素であると思う。そうすると、日本人が西欧の音楽を鑑賞する場合、それがナマであろうとスピーカーから出てくる音であるとを問わず、低音のメロディやハーモニーとして正確に聴きとり、それを土台として音楽ぜんたいを掴まえるということが最もニガ手なのではないかと、もうだいぶ以前から私は考えていた。いま「鑑賞する場合」と書いたが、もう少し論を展げれば、演奏者自体の血の中にも、さらには日本の音楽堂を設計する建築家の血の中にも、要するに日本人全体の血の中で、そういう低音を聴きとる能力が最も弱い部分であり、とうぜんそれを表現する能力にも欠けていると言えるように思う。そういう違いを、水墨画と油絵に譬えて説明する人があったが、日本人は油絵を発明しなかったのではなく、日本人という民族の好みが、油絵のような、あるいはパイプ・オルガンの音のような表現を必要としなかったのだと考えた方がよさそうに思える。永いあいだのそういう歴史が西欧と日本の文明の違いを形成した。教会の石を積み上げた大きなアーチの中でパイプ・オルガンが天翔り、やがて近代になって百人ものオーケストラや大型のオペラが育ち、それを上演し聴くために大音楽堂を作った西欧の文化と、そういう文化をとり入れてまだやっと五十年、ようやくそれが生活の中に定着してゆく過程である日本では、まだまだ音の受けとめかたが大きく違っていてとうぜんとも言える。
 誤解しないで欲しいが、日本人の耳が西欧の人間にくらべて劣っているなどと言おうとしているのではない。はじめに書いたように、デリカシイという点で日本人の耳は世界に誇れる。樹を見て森を見ざる、という諺があるが、樹どころか枝葉、あるいは葉脈の一本一本にまで神経を通わせるのが日本人の繊細さとも言える。そういう、枝葉の一本一本に気をとられて森を見失うのもまた日本人の大まかな特性だと言えるのではないか。反対に、物ごとをまず森からとらえることの上手なのが西欧やアメリカ人の特性だとも言えそうだ。そして、これもごく大まかな言い方だが、森をとらえることがせいぜい樹の一本までで、枝葉や葉脈にまで及ぶことの苦手なのが近年の欧米だとも言える。少なくとも明治までの日本人の中には、森も葉脈もとらえられる人間がいたように思う。その意味で日本人は優れた民族だった。むろん西欧にもそういう文明があった。しかし近年にかぎって言えば、日本人は枝葉にとらわれ森を見失う場合が多いということが言えると思う。
 話を音楽に戻すなら、ここで森というのは西欧の音楽のいわば全体の構築であり、声部のバランスでもある。そこからさらにオーディオに話を絞って言えば、私が知るかぎりの日本のオーディオ機器のメーカーに中に、この、西欧の音楽の森を確かに掴える人が甚だ少ない。加えてこれも先にふれた低音に対しての判断力が総体に弱い。むろんメーカーと限った話でなく、さきほどからふれているようにこれが日本人大多数の弱点とも言える証拠に、これは日本人の音楽家の演奏についても当てはまるし、オーディオや音楽とかぎらず他の産業や文化の面でも似たような事情である。
 感覚の洗練は、時間と歴史の積み重ねの上に成立する。日本人は世界に誇る長い歴史の中で、細やかな感受性を育ててきた。オーディオにかぎらずすべての芸術や産業は、この点で世界的に評価されている。日本人の作曲が、きわめてデリカシイに豊んでいると欧米では評価されるそうだ。しかし反面、全体の構築の点で弱点を持つことも指摘されるという。弦楽器の演奏で見せる日本人のテクニックと繊細な感覚は、歴史の長い西欧でも十分に評価されている。つまり日本人はこの面で実に優れた民族なのだろう。
 しかし、再びオーディオに話を戻して、ことに話をスピーカーに絞って言うなら、以上書いてきたことがそのまま、今日の国産スピーカーの長所でもあり、また大きな短所でもあると指摘できる。最近のように国際的な交流が盛んになるにつれて、このことは心ある欧米人からも盛んに言われるようになってきた。しかもここのところこそ、日本人という民族の血に本質的に欠けている弱点だとすれば、これは短時間で解決できる問題とは言えなさそうである。だが、作曲のような創作は別として、スピーカーは過去に育った西欧の音楽を、グレゴリオ聖歌も中世もバロックも近代も現代もロックも、そっくり鳴らしてくれなくては困る。スピーカーは、あくまで音楽を再生する道具なのである。道具の欠陥は、何としてでも取り除かなくてはならない。スピーカーばかりではないが、この点が、これからの日本のオーディオ機器の最大の課題だろう。豊饒な土台の上に日本の繊細感が見事に実るのが一日も早いことを望むのは、私ばかりではないと思う。