その国に特有の味や匂いがあるように、スピーカーの音にも、アメリカの音、イギリスの音、ドイツの音……という違いがある。同じアメリカでも東海岸の音は渋く重量感があって中低音の腰の坐りがよく、西海岸のそれは明るく鮮明でシンバルやスネアドラムスの切れ味がシャープである。イギリスはことに弦の音を一種妖しい艶で響かせるし、ドイツの音はカチッとしまった硬質の光沢のある肌ざわりを聴かせる。そして北欧の音はすべての音楽をほの暗く表現する。
もちろん以上の話は、それぞれの国の音の一面をごく大掴みに誇張して言っているので、細かく見てゆけば同じイギリスの音と言っても、タンノイとKEFとセレッションをくらべれば、それは全然違う。アメリカ西海岸でもJBLのシャープななりかたとアルテックのグラマーな鳴り方は別のものと言える。そうすると、イギリスの音だのアメリカの音だのという分類自体がおかしいので、結局それはメーカー独自の音色の違いにすぎないのじゃないか、という意見を何かで読んだが、それは違う。ものごとは細かく眺めてゆくにつれてどこまでも違いが出てくるので、JBLとアルテックが違うといっても、それは、同じ中華料理でも北京と上海では味が違う、というようなもので、中華料理には他の国に無い味があると同じように、大きな目で眺めてみればやはりアメリカの音にはイギリスのスピーカーで絶対に鳴らない味があり、ドイツの音にはアメリカでも及ばない引締まった表情がある。それを、国の差でなくメーカーの差だなどと言うのは、枝葉にとらわて森全体の見えない人の言い方で、やはり森全体を眺めればそれ全体のある傾向というのがはっきり現われてくる。
スピーカーの鳴り方にもある種の流行のようなものがあって、ここ二十年ぐらいの日本のオーディオ界をふりかえってみると、LPレコードの初期にはイギリスのグッドマンとワーフェデールが高級スピーカーの代表のように言われた時期があって、そのころアメリカ系のスピーカーの良さを認める人は少なかった。やがてステレオとFMの普及からブックシェルフの全盛時代になり、アメリカ系のスピーカーが再評価され、東海岸のARと、西海岸のJBL/アルテックが話題になり始める。永いあいだイギリス系の音に馴らされた耳には、アメリカ系の中域の充実したよく張り出す音が新鮮に聴こえる。しかし、ここ数年のあいだにめきめきと実力をつけはじめたヨーロッパ系のブックシェルフ・スピーカーの、ヨーロッパの伝統に根ざした独特の美しい響きの良さが再び注目されるようになって、アメリカ系の明るく乾いた鳴り方に対するヨーロッパ系のウェットな響きが評価され始めた……といったところが、これまた大ざっぱだけれど日本でのスピーカーの音の好みの変遷と言える。
オーディオに限らず、欧米の事物にはんを求め、欧米の製品をモデルにして製品を作るというのが、日本の方法論であった。オリジナルを持たない、或いはオリジナルが育ちにくい日本の風土の宿命かもしれないが、スピーカーの音色に関しても、右に書いたようなスピーカーの発達にともなう音色の好みに変遷にしたがって、あるときはグッドマンのAXIOM150の音や特性がモデルになり、ある時期はARの構造や音色が手本となり、或いはJBLのLE8Tの中域の張り出す迫力のある音が目標になっていた。そしていま、ヨーロッパの音を目指す傾向が一部に出てきている。ターゲット作りの下手な民族とでもいうか、こうあるべき、という目標を自分自身で決めることの苦手な日本人は、常にこうした手本がないと物を作れないのだろうか。たとえばファッション界をみても、自動車のデザインをみても、事情は似たようなものかもしれない。
しかし、現状でさえまだ全く不十分にしか解明されていない『音色』といった要素は、果して何かを手本にして作れるものなのかどうか。ここが私の大きな疑問になる。音色とかものの味わいなどという感覚的な部分は、作る人自身が明確な目標を持っていないかぎり、作れないものなのではないか。たとえばスピーカーを作りあげてゆくプロセスで、ほんの一箇所手を加えても音色は微妙に変化する。スピーカーの開発に携わった人でないとこの先の話が理解しにくいかもしれないが、たとえばネットワークのL・C・Rの定数ははそのままでも素材を変える。あるいはトゥイーターの取りつけ位置をほんの少し動かす。そうした結果、ヒアリングでは確かに音色に変化が生じる。しかしその差を測ってみようとしても、測定器にはまったくその差が現われないことが多い。あるいはトゥイーターの位置が変ったような場合は、測定マイクの位置も変えてみないと差がつかみにいくし、仮に差がつかめたとして、ふたつの特性グラフを見くらべてみてもその優劣がまったく判定不能であることが多い。すると、そこで判定をくだすのは音を聴き分けた耳自身、ということになる。ふたつの結果のどちらがよいか、という取捨選択は耳にまかされる。一台のスピーカーのあらゆる部分に、微妙にその差が現われる。ひとつひとつは微妙な差でも、その積み重ねによってトータルでは大きな差が開くはずだ。そういう場合を考えてみると、それを聴き分け判断を下す耳の役割はたいへん大きい。そういう話を前提として、私は、これからのオーディオ機器の開発には、ことに国産スピーカーの音を世界の水準に引き上げるには、良い耳が必要だと何度でもくりかえしたいわけである。
おそろしいもので、スピーカーには作り手の性格がありありと現われてくる。ある部分に手を加えてふたつの結果が出たとき、判定者がきちょうめいな性格の人なら出てきた音の少しでもきちょうめんな方を採るだろう。明るく力強い音を好む人、絞った音の繊細さを求める人……判定者が頭の中に作りあげている音の理想像のありかたが、製品の音を決定する。そうした理想像というのは、聴き手が理屈で作り上げたものではなく、いわば血のように、身体の一部のように消化された感覚なのだ。そこに、聴き手の育った環境や風土が反映されるのはもう当り前の話だろう。
永いあいだ、いろいろな製品をテストし、その製品の製作者と会い、あるいは製品を入手して馴らしているユーザーに会ってみると、同じひとつのスピーカーに、いかに製作者の個性が現われるか、そしてまた、いかにそれを鳴らす人の個性が現われるかを知る。製品を聴けばそれを作った人の性格や教養がわかり、鳴らされた音を聴けばそのユーサーの好みがわかる。怖いほどそれははっきり現われてくる。そして、それを作る人、鳴らす人自身は、むしろそのことに気づかない。ちょうど自分の匂いは自分にはわからないと同じように。だから、アメリカの音、ヨーロッパの音、などと言っても、それぞれの国の製作者は別にそんな意識で音色を作っているのではなく、彼らはごく自然に身についた感覚で音を選り分け、そして仕上げた音をわれわれが聴いて、そこに確かにアメリカを感じ、イギリスを感じる。そういうふうに音に現われてくるのである。