ある新製品発表会の席上、そのメーカーの社長があいさつの中で「日本の音響機器がある水準から上にゆけない理由として音楽の素養や歴史や風土の問題が指摘されているが、それにはあと百年も待たなくてはならないだろうから、それまではともかく技術の地道な積み重ねによって製品の質を向上したい」というような主旨の話をされた。この話から、オーディオ製品を作る歴史と風土の問題、それと、技術優先の製品作りの姿勢、というふたつの問題が浮かんでくる。どちらも私が日ごろから考えている問題なので、ここからいろいろなことを考えさせられる。
 日本の音楽会の聴衆はたいそう礼儀正しくておとなしい――。来日した海外の演奏家がよくそういった発言をする。外交辞令でなく実際にそうだと思う。礼儀正しいというのはたしかにすばらしいことだが、日本の音楽会が静かな雰囲気に包まれているのは、ほんとうに聴衆の礼儀正しさによるものだろうか。それとも感情を露わに出さないという日本民族独特の性質からくるものだろうか。どうもそうではなさそうに思える。だいいち近ごろの音楽会は必ずしも昔のように静粛ではない。中にはスコアを開いて演奏家がミスをするたびに舌うちをしたり、隣同士で顔を見合わせ、演奏中何かささやき続けているような人もいる。ピアノのリサイタルなどでは、ことにこうした熱心な若い人――おそらくピアノのおけいこをしている人か音楽学校の生徒なのだろう――が増えている。決して昔のように静粛そのものではない。
 けれどそうした人たちが舌うちしたりささやきながらスコアをゆび指しているのは、きまって演奏のテクニックのミスであって、どれほど心のこもった、ほんとうに音楽が語りかけてくるようなすばらしい演奏のときでさえも、熱心な彼ら――または彼女ら――はそのことにまったく感度を示さず、ただひたすらテクニックのミスを指摘することに全勢力を集中している。
 ここのところが欧米の、少なくともヨーロッパの聴衆との大きな違いだろうと思う。ヨーロッパの聴衆は――などと見てきたようなことを言うが、その現場に居あわせた人たちの話を聴くかぎりは――、その日の演奏に心がこもっているかいないかということに大きな反応を示し、気のない演奏には容赦なく罵声を浴びせるかわりに、ほんとうに心のこもった演奏には、テクニックのミスなどまったくこだわらずに心からの拍手を送る。もしもこういう聴き方の違い、音楽の受けとり方、味わいかたの違いを言うなら、はじめに書いたある社長の話の「百年」は軽い冗談かまたは自社製品への謙遜であるにしても、あと十年や二十年はいまの情況が大きくは換るまいと思われる。ヨーロッパには一千年の音楽の歴史と伝統があり、どんな小さな街にも、音楽をし、音楽を楽しむ環境と風土が根づいている。昨年の初夏にドイツを旅したとき、ライン河沿いの小さな村の古い修道院の建物の中で、夕ぐれのセレナーデ・コンサートを聴いたときも、そのことを思い知らされた。夕日のさし込む窓は開かれて、木洩れ陽の中から小鳥のさえずりが聴こえてくる中で、モーツァルトのセレナータ・ノットゥルナや「おどれ、よろこべ……」が素朴で暖な雰囲気で演奏され村や近郊から集まった人たちがステージ――といってもまったく同じフロア――をぐるりとかこんで楽しそうに聴き入っている。もしもテクニックなどと言い出したら、さっきの熱心な彼女らなど、たぶんひっきりなしに舌うちしなくてはならないだろうような稚拙な演奏だが、しかしそこで確かに音楽の心が鳴るのを私は聴いた。
 こういう音楽が渡ってきてからまだ百年にならないのであれば、日本には風土とか土壌などと言えるものはまだ育っていないというような言い方ももっともに思えるが、そういう単純な考え方に、私はにわかに賛成できない。
 子供のころ東京の下町を歩いていると、家並のあいだから琴や三味線の音がよく聴こえてきた。すると私の祖母などは、あの音は冴えているとか、今日はあそこのお嬢さんは気分がすぐれないらしい、などということを何気なくつぶやいていた。祖母に特別に音楽の素養があったわけではなく、私の知るかぎり、そのころまでの下町育ちの人たちは、誰もがそういう耳を持っていたように思う。そういう街の聴衆に支えられて、歌舞伎が育ち、さまざまの舞台芸、座敷芸、大道芸が高い水準を保っていた。日本の音楽には数百年、いや一千年という伝統も土壌もあったし、大衆の誰かれが音楽をそういうふうに受けとることができていた。
 日本音楽と西欧の音楽とではむろん多くの面で違いにあるにしても、音楽を受けとる心はいまでも日本人の血の中に脈々と流れている筈だと私は信じているのだが、現在の趨勢は必ずしも好ましい状態とは言いにくい。
 オーディオとは一見無関係のことを言いだしたみたいだが、言いたいことはこれからである。日本のオーディオ製品の水準は世界的だと言われている。事実アンプなどではその通りだが、ことスピーカーに関しては、日本製品は欧米のハイファイのマーケットではまだほとんど認められも理解もされていない。その壁を越えるには、設計者やメーカーが音楽を感じる耳を育てなくてはもはや如何ともしがたいということを、私自身もたびたび発言してきたし、一般にもそれは言われている。はじめに書いたあるメーカーの社長の言葉は、おそらそうした発言に対する言いわけでもあるとも思われるのだが、耳が無いからあるいは耳を育てるには時間がかかるから、それまではまず技術を積み重ねるというその発想に根本的な問題が潜んでいる。技術はそれ自体で発達するものではなく、あくまで人間の要求やそこから生じる目標があって、それに向かって新しい技術が開発されてゆくので、オーディオの世界ではまず耳がしっかりでき上がらないことには、目標そのものをあやまる結果になり、あやまった目標にそれと知らずに向かう技術もまたあやまちをおかしやすい。ところが日本のオーディオ界には、技術至上主義とでも言うべき技術優先の考え方が根づよく、技術を積み重ねてゆけばその結果音質は向上する筈、というような実に素朴な姿勢が強い。技術を積み重ねていけば月にロケットが飛ぶのでなく、月にロケットを飛ばすにはどうしたらよいかというところから新しい技術が開拓される。こんな単純な道理が、ことオーディオに関してはなかなか通じにくい。