レコードが、もしもっと早く発明されていたら……
トマス・アルヴァ・エディソンが、世界で最初に《音》を記録し復元することに成功してから、今年でようやく百年を迎える。
一八七七年というのはしかし、人間の文化の長い歴史の中では、あまりにも最近でありすぎた。西欧の音楽の基礎は、とうの昔にでき上がっていた。伝説の中のヴィルトゥオーゾも、すでに他界していた。パガニーニが、どんなふうにヴァイオリンを奏いたのか、もはや誰にもわからない、ベートーヴェンが、自作のシンフォニーをどんなふうに指揮したのか、モーツァルトが幼年時代に、どんなに無心にハンマーフリューゲルを弾いたのか、バッハがフリードリヒ大王の前で、どんなに見事に即興演奏を披露したのか……。すべては厚い霧のかなたに包まれてしまった。
そう考えると、私たちは、エディソンがもう一〜二世紀早く生まれてくれていたら、と思わずにいられない。いや、もしも、レオナルド・ダ・ヴィンチが音の記録法を発明してくれていたら、いま私たちは、オケゲムやジョスカン・デ・プレ以降の、西欧の音楽の発展の軌跡を、もっとはるかに正確にたどることができたかもしれないのだ。もしそんなことがありえたとしたら、音楽のありかたは、どれほどいまと違った形をとっていただろうか。
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こんな想像をしてみたところで、現実にはそれはただの繰り言にすぎなくて、それでもいま私たちが手に入れることのできるレコードは、まるで気が遠くなりそうな数に達している。音楽史の片すみにでも名前が載っている作曲家なら、レコードで聴けない作品を捜したほうが早いのではないかと言いたくなるくらい、レコードにはあらゆる曲、あらゆる演奏が網羅されている。そして、世界じゅうで発売されているレコードの、目ぼしいもののほとんどが、日本のレコード会社からさまざまのレーベルで発売され、容易に入手できる。
仮にレコードを自分で持っていなくても、FM放送をぼんやり聴き流しているだけでも、話をクラシックに限っても一日のうちに何十曲もの作品が放送されている。少し丹念に聴こうと思えば、FM専門誌の番組表を調べて、小まめにスイッチを入れるなら、演奏会ではめったに取り上げられないような作品が、まったく何でもないことのように放送されていることに気づいて驚かされる。
おそらくたいていの音楽ファンが、ナマの演奏会で聴くよりも先に、こうしてFM放送やレコードで、まず作品に接しているにちがいない。だが考えてみるとここには、なかなか大きな問題が隠されている。その中でも、放送やレコードを聴くときは本人が意識しているといないとにかかわらず、そこに介在している「オーディオ」の面から光をあててみることが、私に与えられた役割だ。
機械の存在を忘れて音楽に没入したい……
ここ数年のあいだに、オーティオが「ブーム」とさえ言われるほど、広く普及し始めた。しかし考えてみると、これはおかしな話だ。放送やレコードを聴くための機械は、もっと昔から存在していたのだから。ただし「ラジオ」や「電気蓄音機(電蓄)」という名前で……。
いつのまにか、それがラジオでも電蓄でもなく、「ステレオ」とか「オーディオ」と呼ばれるようになった。呼び名が変わっただけではない。ことに若い人たちを中心にして、「ステレオ」が音楽を聴く《道具》であることを離れて、そのメカニズム自体が独立した魅力を持った存在として、私たちの意識の中に入り込みはじめている。なぜなのだろうか。そのことを考える前に、ここでもう一度、「ステレオ」の本来あるべき姿を、まず、素朴にふりかえっておく必要がありそうだ。
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音楽はいわば《時間の芸術》だ。一瞬の後に消えてゆく音楽を、針で刻んだ一条の溝に閉じ込めておくことが可能であることを考えついた人は、イギリス人トマス・ヤングであるとも、フランス人レオン・スコットであるとも言われているが、それを実現したのは冒頭にも書いたT・A・エディソンの功績だった。彼は、コップぐらいの大きさの円筒に錫の箔を巻きつけて、ぐるぐるまわしながら、その周囲に針でネジ状に溝を刻みつけて、連続する溝の中に、時間とともに変化する《音》を封じ込めた。錫箔はのちにワックスに改められ、円筒は円盤に代り、材料がプラスチックになって、現在のレコードの形ができ上がった。
エディソンと同じころ、デンマーク人のプウルゼンが、細い鋼鉄の針金を磁化することによって、音を記録する方法を考えついていた。これがのちのテープレコーダーの基礎であった。
音は空気の振動で、それを細い針先に伝えて円盤状の溝に刻み込むのがレコードだが、空気振動を一旦電流の強弱に変え、それをさらに磁気の強弱に変換して、磁性体の上に記録するのが磁気録音である。
どちらの形をとるにしても、音楽を、保存しやすい形に変えて、一時的にT凍結Uさせたものであることに変わりはない。それを元の形に戻すのがT蓄音機U(現在ならオーディオ装置)の役割だ。別の言い方をすれば、音楽を、保存しやすい形に一旦
Encode (エンコード=暗号化、符号化)したものを、Decode (デコード=解読)するのが、オーディオ装置の役割だ。オーディオ装置を“暗号解読機”にたとえられたのは黒田恭一氏だが、そう考えてみると、オーディオ装置に求めるものは、とてもはっきりしてくる。
それは、暗号(符号)を完全に解読する能力、だ。あれほど精妙で複雑な音から成り立っている音楽が、直径三〇センチのビニールの円盤や、全長五〇〇メートルあまりのテープの上に変形して収められている。それを、できるだけ完全な形に復元するのが、理想の再生装置、ということになる。
音楽を記録し再生するプロセスは、おもに電子工学の産物だから、もしもこれを専門的に定義しようとすると、ヘルツだのデシベルだのパーセントだのという面倒な数字をたくさん羅列しなくてはならない。が、私はそのことを、全然別の方向から定義してみよう。
オーディオ装置を、レコードや放送を聴く“手段”として考えるかぎり、答えはおそろしく単純明解だ。それは、「レコード(または放送)で音楽を聴いているあいだじゅうは、そこに介在するメカニズムの存在を忘れてしまうことのできる」のが、最良のオーディオ装置だ、ということ。
マイクロフィルムを解読装置にかけたとき、もしもレンズが不完全であると、文字の周囲に虹色のにじみが出たり、周辺の文字がぼけたりして不愉快な思いをする。しかし解読機の性能が十分に優れていれば、私たちは、解読機が介在していることを忘れて、読みとりたい内容に心を集中させてゆくことができる。すべて道具は、不完全であればあるほど、その道具の介在することが不快であり、道具が目的に沿って正しく働いてくれるにつれて、人は道具の介在することを忘れて目的に集中できる。
あなたの周囲に、いわゆるオーディオ・マニアがいたとしたら、おそらく、彼の家でご自慢の装置の音を聴かされたことがあるだろう。彼はたいてい、何かものすごい音のする、いわゆるデモンストレーション用のレコードをかけて、あなたをご自慢の音でびっくりさせようとしたにちがいない。が、もしも彼がどんなに得々と機械の説明をしようとも、ナマの音楽会できたえたあなたの耳がその音に不自然さを感じたとしたら、残念ながら彼の装置は解読機としてどこか不完全なところがあるということになる。
逆に、あなたが彼の装置の《音》の良さに本当に感心したら、どういうことになるか。もしも鳴っている音楽につい惹きつけられてつい聴き惚れてしまったら、その時は《音》のよしあしなどは忘れてしまっている筈だ。だが、聴き終ってからしばらくして、「あ、いい音だったな」と思えてきたとする。これは本ものだといえる。
ところが、音楽よりも先に、鳴ってきた《音》そのものを、すごい音だ、きれいな音だ、と感心したらどういうことになるか。屁理屈をこねるみたいだが、音の悪いことが気になって音楽を楽しめないのと同じように、音の凄いことが先に気になってしまったら、やはりその装置は、音楽を解読する機械としては不完全ということになるのだろうか――。
この辺からが、オーディオのありかたの難しいところになってくる。というのは、右の分類はどこまでも理屈の上での話、であって、音の悪いのは論外としても、音楽につい聴き惚れさせるぐらいの装置の音なら、単に素材としての音をデモンストレーションしても、もちろんその音自体が、人を感心させるくらい美しいのは当然だからだ。またそういう音で鳴るからこそ、オーディオ装置が、それ自体で魅力を持つようにさえ、なるわけだ。機械の介在を忘れるくらい、音楽に没入できるような音。そしてそれだからこそ逆に、音楽を一瞬忘れるほど美しい音……。この一見矛盾した命題が、オーディオの魅力を解く鍵、と言っていいかもしれない。
レコードが鳴らす音楽はナマとは違った世界
オーディオ装置の究極の理想は、ナマと寸分違わないほどの音を鳴らすことだ、というのが、オーディオに関する誤解の最も大きな部分だろう。「原音再生」というような言葉があることからもわかるように、ある時期までは、オーディオ関係者のほとんどが、ナマとそっくり同じ音を鳴らすことを録音・再生の究極の目標にしていた。いまでもまだ、ナマと同じに音楽を録音・再生できると信じて疑わない人が少なからずある。だが厳密に言えば、《ナマと同じ》に録音・再製することは不可能だ。現在はもちろんのこと将来とも、録音・再生される音楽は、決して《ナマと同じ》なのではなく、あたかも《ナマの音を聴いたかのような感じ》を聴き手に与えるように、再構成された音なのだ。
ごく単純な例をあげよう。現時点で最高の水準を持った再生装置を、理想的にセッティングして、最適聴取位置(後述)でレコードを聴いたとする。もしも録音の状態の良い優秀なレコードをかければ、あたかも眼前にステージが現出したかのような、生々しくリアルな現実感をともなって、オーケストラが目の前いっぱいに展開して聴こえてくる。
しかし――ここでまた屁理屈を言うが――、少なくとも数十人の編成の交響楽団を、ナマそのままに再現できたとしたら、それがせいぜい十数畳どまりの私たちの住宅には入りきらなくなるはずだ。そこで聴こえてくるのは、あくまでも、眼前にステージが展開したかのような感じにほかならない。決して、ナマそのままの音、ではない。そんなことは百も承知の上でさえ、しかし現実に鳴ってくる音楽は、ナマのステージを見るかのように十分に生々しいリアルな感じがする。それぐらいの音を、現在の最高水準のステレオ装置は、鳴らすことができる。
あるいはまた、独唱のレコードをかけてみる。これもまた、録音と再生の状態が良ければ、あたかも歌手が目の前中央に立って、こちらを向いて唱うその身ぶりが見えるような気のするほど、生々しい音を聴くことが可能だ。しかしいくら音が中央から聴こえるような感じであっても、それを聴かせてくれのは、前方左右に置かれた一組のステレオ用スピーカーであって、いかにもそこに歌手が立っているかのように思われる前方中央には、音を発生する音源など、なにもありはしない。それがステレオというもののしくみで、前方左右のスピーカーから等距離の位置に坐って聴くかぎり、左右のスピーカーから到達した音が、脳神経の中で、前方中央に音源があるかのような感覚をひきおこす、のである。好むと好まざると、ステレオの現実感とは、せいぜいそういうもの、なのだ。
だからといって、私が、ステレオのしくみや再生装置やレコードを、ぱかにしているわけでは少しもない。いやまったく逆だ。私は、レコードの鳴らす現実感というものが、そういうしくみであることを百も承知の上で、しかし現実に聴こえてくる音楽の美しさに、いつでも陶然としているのだ。
それはちょうど、映画というものが、スクリーンに投影された虚像であることを重々承知の上で、しかしそこに進行する映像に、あるいは笑いあるいはおどろき、涙を流し、することとよく似ている。映画が舞台芸術とはまた別の芸術を創造したと同じように、レコードの鳴らす音楽は、ナマのステージで聴く音楽とは別のカテゴリーの、独立した媒体として楽しませてくれる。
眼前にステージの展開するような、あるいは歌手がこちらを向いて立っているような、そういういわば生々しさは、映像と同じように、意図され計算され創り上げられた生々しさ、だ。実際の話、ステージで聴く生の演奏からは、最高の録音や最高の再生装置の鳴らすようなこまやかな音は聴えてこない。しかし、視覚をともなわないレコードの音、しかも前方左右の二点からしか音を鳴らさないステレオのしくみを前提とするかぎり、スコアに書き込まれ演奏される音はすべて、まるで「眼にみえるように」録音されなくてはならない。またたとえば、ピアノ協奏曲をステージ演奏で聴くとき、仮に聴き手が左右どちらかの端に寄っていれば、ピアノは決して前方中央から聴こえてはこない。が、もしもレコードから、ピアノがつねに左寄りに聴こえてきたら、きっとまるで奇妙なことになるだろう。録音・再生されるかぎり、協奏曲でのピアノは、正しく中央から鳴ってこなくては、聴き手には逆に不自然に聴こえることになる。レコードにはそういう、ナマとは別の創られたリアリティが要求される。それがレコードの鳴らす音楽の世界、なので、そういう約束ごとを知らずに聴くと、あるいは、レコードの音を聴き馴れない人が聴くと、レコード(オーディオ)の鳴らす音の世界が、ナマのステージを聴く感じとは、ある意味でずいぶん違ってきこえることに、最初のあいだ少しとまどうことさえ、あるかもしれない。が、くりかえしになるが、好むと好まざると、これが現在のレコードや再生装置の鳴らす音楽のありかた、なのだ。
レコードを聴くときのひとつの約束ごと
ここまで書いてきたようなレコードの音を鳴らすには、よほど高価な再生装置が必要なのだろうか。解読機が、音楽のじゃまをしないような音、というと、よほどたいへんな設備が要るかのように、思われるかもしれないが、そんなことはない。そのことよりも、レコードの聴き方のテクニックや、その心がまえの方が、私は大切だと思う。
さっき書いたように、ステレオの音を正しく(たとえば協奏曲でのソロ樂器や、歌手が中央から聴こえてくるように)聴きとめるためには、聴き手は、前方ふたつのスピーカーから等距離の、ちょうど中央に坐る必要がある。ふたつのスピーカーを結んだ線を一辺とした、正三角形の頂点のところが、ステレオの最適聴取位置、だとされる。また、聴き手を扇の要として前方左右にスピーカーを展開したとき、その角度が六〇度以上ひらくように、ふたつのスピーカーの間隔を十分に(二〜三メートル以上)ひろげる必要がある。そして、スピーカーの正面は、リスナーの耳の方に向ける。
再び「好むと好まざると」とくりかえすが、これが、ステレオのレコードを聴くときの、いわばT約束ごとUなのだ。この約束を守らなくてもT音楽Uそのものは間違いなく聴こえてくるが、歌手が目の前に立っているかのような、ときとして薄気味わるくさえあるような、ステレオ独特のリアリティは、右の約束を守らなくては聴こえてこない。せまい部屋では、聴き手の位置が一〇センチ移動しても、その効果が薄れてしまうほどだ。
こういうエフェクトを含めて、いまの新しいレコードと再生装置の鳴らす音の世界を体験してみると、レコードには、ナマの演奏会とはまったく別のおもしろさがあると同時に、レコードの本当の世界とは、読書するのと似て、スピーカーと自分とが一対一になって、音楽を授受するシステムに外ならないことに気がつく。音楽は、ナマもスピーカーの鳴らすそれも、隣の部屋にいたって聴こえてしまう。けれど、ほんらい、音楽を深く受けとめようとすれば、隣の部屋で聴き流すのではなく、演奏者と向かいあって精神を集中すると同じように、スピーカーの中央に坐って、心を鎮めて音楽を受けとめてみよう。おそらく、レコードの世界は、いっそう深さを増す。
放送を何となく聴いていても、あらゆるレコードが一日じゅう鳴っている。そのことは、かえって、音楽に対する鋭い感受性を弱めてしまう。ほんとうに音楽を聴こうと思ったら、演奏会と同様、聴く時間を慎重に選び、心の高まりを待って、針を下ろすべきではないか。レコードはいつでも、何回でも反復できるという甘えは、ついにレコードから音楽の深い喜びを聴きとれなくする。レコードから鳴る音楽も、一回一回の緊張の中で、聴くたびに新たな発見をするような、そういう聴き方をしてみてはどうか。少なくとも、そういう聴き方を、私たちは忘れかけていはしないだろうか。