私は幼少のときから、器物を愛することを知ってゐた。
  長ずるに従ってこの器物愛が一つの「癖」となった。
  さうして、器物もまた愛によって活くること、人間と
  同じであることを知ってゐる。
             上司小剣「蓄音機読本」より

 
 中古専門のカメラ屋、というのがある。自動車とカメラは、中古品の売買で商売が成り立つのに、オーディオの場合はどうしてそういう店が無いに等しいのか、についてはもう少しあとで考えることにして、ともかく、中古カメラ屋というのは、カメラ気ちがいたちのの一種の社交場を兼ねている場合が多い。というよりも、その店目あてに集まってくるカメラマニアたちによって、いつのまにかそういう雰囲気ができ上っているといった方が正しいのだが、そうなるとまた、その雰囲気を目あてに常連が集まり始める。
 わたくしの行きつけの店は新宿に一軒あって、店の奥にオールド・ライカのコレクションがズラリと並んでいるさまなどはなかなか壮観である。三〜四年も前のことだったか、そこの主とライカの話をしていたら、「ライカなんぞに凝っているうちは、まだ序の口の序の口や」と声がかかって、てやんでえ! とにらむと、小太りで赤ら顔の老人が奥の方でお茶を飲みながらニヤニヤ笑っている。店ではその人を〈大阪のお爺ちゃん〉と呼んでいて、ライカのコレクションはその〈お爺ちゃん〉の私物でなのである。で、それから三〜年を経たいま、わたくしはまだ「ライカなんぞ」に凝っているような次第だが、そんな調子でいろんなカメラ気ちがいの誰れ彼れと少しずつ口をきくようになり、そのうちに、しばらく馴染みの姿を見かけないと、病気かしら、なんて気にするようになってしまう。
 小柄で、いつもおとなしくて、しかも、いつでも楽しそうにニコニコしている頭のまっ白な品のいい老人は、ある大学のドイツ語の先生だということが、ずいぶんあとになってわかってくる。「わたくしはライカでないと、いい写真が撮れないんです」。ニコニコと、ひかえめな口調で、しかし楽しそうにポツリポツリと話をする。
 ツァイスのカメラ以外はカメラじゃない、と言うお医者さんもいる。それも、東と西に分断される以前のツァイスの製品。最近の製品だったら、西独カール・ツァイスでなく、東側のもとのツァイスのエンジニアたちの作品でなくてはいけない。だから精読ツァイス・フォクトレンデルのカメラ工場が経営不振で閉鎖されるというニュースが入っても、「ほらみろ、あんなくだらねえカメラ作ってやがるからつぶれちゃうんだ」。平気なもんである。
 コマーシャル写真の大家が、仕事を離れると一人のカメラマニアになって、みんなの話に加わってくる。ある日その人がレコードの包みをかかえていることから、ものすごいオーディオ・マニアであることがわかって、カメラ屋の店先でオーディオの話が始まったりする。雨の日も風の日も、毎日の通勤の往復に、一台の愛器を必ず肩からかけて歩いている人が、アマチュア・カメラマンとしては凄腕のヴェテランだ、なんていうことも、ずいぶん顔をあわせているうちに、むろん本人からではなく店に集まる常連や店のあるじの話からそれとなくわかってくる。
 数年来の顔馴染みなのに、何の仕事をしているのか知らない人が多い。向こうもこちらの仕事を知らないし、こちらもまたそんなことを知ろうともしない。あるレストランで食事をしていたら、いつもの常連の一人が向こうのテーブルに坐っている。「やあ、あなたもこの店によくいらっしゃるんですか」とあいさつしたら、「いえ、これ、あたくしの店です」なんてニヤニヤされて、ウヘェと恐れ入ったりする。銀行の支店長あり、寿司屋の板前さんあり、およそあらゆる仕事をもった人たちがそれぞれ集まってくるが、ともかく誰もがカメラをいじったり写真を撮ったりすることが何よりも好きだ、という一点で、わけへだてなくうちとけてしまう。こういう交際は、むろんカメラにかぎらずおよそ趣味の世界では珍しくもなんともないことだが、誰しも趣味を語るときはおそろしく無邪気だ。
「そうそう、あたくしもあれ買ってしばらくは、枕もとに置いて寝ました。夜中に眼がさめると、スタンドをつけてしばらく眺めて、そいでまた寝るんですがね」
「あなたもですか。私もそうで、女房に気ちがい扱いされますがね」
 そこでアッハッハッと笑いあう。これが五十がらみの、社会的に地位もある人たちの会話だというところがおもしろい。ともかく、むちゃくちゃに無邪気で、しかも、いいもの、本ものに対する姿勢がすばらしくナイーヴなのだ。こういう人たちにして、はじめて「愛機」という言葉を使う資格があるのじゃないだろうか。こういう年ごろになっても、ものに深く感動するナイーヴな心を失わない人たちを、わたくしはすごく好きだ。感動の振幅の大きな人を好きだ。人間の弱さやもろさを、趣味はすっかりさらけ出してしまう。そこからものすごい人間味が漂う。集まる人たちが、それぞれに温かく、しかもいかにも人間臭い人たちであるのは当然だ。そしてそういう雰囲気がわたくしは好きだ。
 むろん気持のいい人たちばかりではない。したり顔に「カメラは道具です。どんどん使い捨てりゃいいんですよ」などと鼻先でせせら笑う男がいる。そんな男が、たまに相手を初心者とみるや「カメラは愛情で使うんですよ」などと説教する。こういう男をわたくしは絶対に信用しない。使い捨て、なんぞというセリフを吐く人間に、「愛」を語る資格などありはしない。そんな男はまたみんなから嫌われるものだから、結局いつもニヒルな顔でウインドウをさっと眺めて消えていく。いろいろである。

 
 オーディオの場合でも、こうした感情の振幅はまったく同じだが、そのことよりも、オーディオの場合、なぜ、カメラや自動車のような中古専門店というもが成り立ちにくいのか、それを少し考えてみたい。
 実を言うと、カメラの方でも、ここ一〜二年のあいだに、中古品を扱う店がめっきり減ってきている。ほんとうに、目にみえて減ってきている。とくに国産カメラの中古品を扱っていた店が、つぶれたり新品専門にきりかえたりしている。中古カメラ店でも流行る店は、外国カメラがおもなレパートリィだ。この現象は、どうもオーディオと無縁ではなさそうだ。
 いまも書いたように、「使い捨て」という言葉や捨てるという態度をわたくしは嫌うが、しかしそれに応えるカメラの方が、「愛機」と呼ぶに足りないような粗末なものだったらどうしようもない。こころみに広辞苑で「愛機」の項をひいてみようか。
〈あい・き【愛機】常に愛用している飛行機・機具。〉――これじゃ簡単すぎるから、つぎに「愛用」の項をひく。〈好んでいつも使うこと。使いつけ〉ついでに「愛」をひいてみるか。〈@或るものにひきつけられ、それを慕い、あるいはいつくしみ、かわいがる気持。B愛玩すること。C愛撫すること。(以下略)〉。さらに「いつくしむ」をひくと〈いつく・し【美し・慈し】うつくしい。あいらしい。〉
 ――どうやらこれではっきりしてきた。つまり、人を「ひきつけ」「慕わせ」る要素があり、だから「好んでいつも使」い、「愛玩」し、「愛撫」する。「いつくし」は古語で「うつくし」と同義であった。いつくしむからうつくしいのか。うつくしいからいつくしむのか……。ここは大切なところだが、あとでもっとよく考えることにして、ともかく「愛機」はかくのごとき条件をそなえなくてはならない、のであります。そうでないものを、どうして愛せるものですか。
 このことが、中古カメラ店、それも国産中古店の減った大きな原因ではないかと、わたくしは思っている。そもそも――なんて大げさに言うが――中古店が成立するためにはひとつの大切な条件が必要だ。それは、豊富な品数が常に流通し、しかも使い古されてなお故障などのトラブルを生じない耐用年限を持ち、かつ新品を買うのにくらべて性能上も価格の面でもなにがしかのメリットをもっていること、だ。むろんそれだけで中古店が開けるのでなく、立地条件だの客層のつかみかただの、商売に共通する大事な問題があるが、この小論は「中古カメラ店開設に関するガイド」ではないのであります。あくまでオーディオ論なのだよ。
 で、国産カメラの歴史をふりかえってみると、だいたい昭和三十年代前半までは、外国カメラを手本にし参考にして暗中模索していた「模倣の時代」なのですね。むろん中には数少ないながら独創的な名機あり傑作もありました。けれども源流は外国の名機であった。いまでもむろん、プロトタイプを綿密にたどってゆけば、ゆきつくところすべて外国の独創だという説は一面もっともですが、この十年来、単に生産量や売上高のみにとどまらず、アイデアやその応用についても、国産カメラが外国品をリードする立場に廻っていることは衆知の事実であります。だが、さきにふれた「愛機」の資格に値する名作はどれだけ生まれたか。ここが問題なのだ。国産カメラはモデルチェンジが激しすぎるという批判は当たっていなくはないが、しかしライカなんていうカメラは、かなりモデルチェンジの激しいほうの製品なのです。にもかかわらず、ライカ礼賛は後をたたない。たとえばこんなふうだ。
「……独りでいる静かな夜、私はライカを手に握ってみるのがすきだ。手の中に心地よくおさまる大きさ、バランスのとれたどっしりした量感。ライカを手にのせて正面から眺めるとき、頭部と底の線とレンズの円の均整の美しさに魅せられる。
 握った手のひらに伝わってくる滑らかな金属のしっとりした感触は、やがて、自分の掌とライカの間に息が通いはじめ、心の言葉交せるような神秘な世界に私をひき入れる。ライカに憑かれているというのかもしれないが、何十年ライカを使い、何十年憑かれっぱなしなのだから、ほんものでもあろう。」(広瀬東一郎氏。シュミット発行のリーフレットより引用)。
 ライカというカメラは、製品にずっと一連番号をつけるので有名だ。いまいちばん新しい製品がそろそろ百二十八万台になっている。つまり百万人あまりの手にライカが握られていることになるが、その半分、いや三人に一人、ごく内輪にみて十人に一人が、右のように「憑かれ」ているとしても、全世界でざっと十万人の男たちが、毎晩ライカに見とれている。えらいことですよ、これは。わたくしなどもその一人だが、製品を作る側からすれば、まさに冥利につきるでしょうな。全世界の男たちに高い代金を支払わせて、随喜の涙を流させっぱなし。考えようによっては、これこそ最高の商売だとも言えるのじゃなかろうか。こういう商売が減ってきたのは悲しいことです。まあマッキントッシュのアンプなど、これに近いような気がするけれど。

 
 さてここでオーディオです。オーディオ・パーツの中古市場が――個人間の売買交換は別として、商売として――成り立ちにくいのは、以上のような事情とよく似ていると思う。いまの国産カメラと同じように、ふつう一般向けのオーディオ・パーツは、二〜三年経つとすでに旧型になってしまうし、耐用年数もそのぐらいしかない。そうでなくとも、技術革新の激しい時代では、中古――セカンド・ハンドまたはユーズド、つまり一度誰かが使って手放した品物――という概念は、じきに旧式になってしまうという点からみても通用しにくくなってきた。従ってもうひとつの価値、いわゆる骨董としての値うちで評価することになるわけだが、そのためには、製品を作るためにもまたでき上がった製品の価値が決まるまでにも、時間というものが絶対に必要なので、ましてこういう変転の激しい時代にはますますそういうものが生まれ育ちにくくなっている。
 もう十年も前のことになるが、ある重電機メーカーが冷蔵庫の宣伝に使った文案が、ちょっとした話題になったことがある。こまかな文章は忘れたが、その大意は、我社の冷蔵庫には、思いきりぜいたくなモーターを使っている。たとえば冷蔵庫のほかの機能にすべて寿命がきても、モーターだけは廻りつづけるであろう。というようなものだったと記憶している。多くのユーサーはこれを、メーカーのいわば心意気の問題として歓迎したが、ひとりの「経営評論家」がこれに文句をつけた。いわく、もしそうだとしたら、ユーザーは、冷蔵庫の寿命にそぐわないよけいな性能のモーターを買わされていることになる。モーターの寿命を冷蔵庫の他のパーツの寿命に合わせるべきではないか。それが上手な設計というものだ……。
 当時はやりの合理的経営学、生産合理化の尖端を切った発言で、かなりセンセイションを巻きおこし、だいたいそのころから、製品の寿命設計、ということが言われ始めたように思う。製品の耐用年限をあるとこにきめて、すべてのパーツの材質その他を、その年限に合わせて設計しようというわけで、なるほど、これで無駄な、ぜいたくな部分は無くなるだろうし、その分だけコストダウンになるのかもしれないが、やがてそれは「使い捨て」の発想に結びつく。合理化して大量に製品を作るから、どこかで寿命がきて使い捨ててくれないと次の製品を買ってくれない。はじめのうちはそれでも目標が寿命だったからまだましだったが、そのうち、それでは追いつかなくなって、こんどは型が旧くなる、という手を考え出す。新しい方式、新しい材料・加工法、新しいデザイン。それがテレビに写し出されると、ユーザーはいま時分が使っているキカイは旧型で、それを使いつづけるのは恥ずかしいことのように錯覚させられ、新型と称する製品を買わないとぐあいが悪いような気がしてくる。それを写し出すテレビの方も、黒白の画面に「カラー」というマークがこれでもかこれでもかと出てきて、ユーザーのストレスをいやが上にも増すしくみになっている。自動車の下取り制度など、まったく自動車メーカーの巧妙な販売計画のひとつなんだから……。戦後アメリカから入ってきたいろいろな考え方の、これなど最も良くない例のひとつだろう。アメリカではすでに、ものを大量にこのまま作りつづけてゆくことへの怖れが、まじめに考え直され始めたということだが、作ることへの怖れをまだ実感していない日本はこれからどうなるか。いまあらゆる分野で、大量生産・大量消費型、つまり使い捨て型文化が支配して、ライカ型、マッキントッシュ型の企業は、もう探さないとみつからないほど僅かな数になっている。しかしオーディオというものが、さきに書いたような、人間のナイーブな感受性を啓発する趣味の分野のものであるなら、メーカーもユーザーも、本質的にはライカ型・マッキントッシュ型を志向すべきではないのか。
 器物を愛で、いつくしむというのは、何もカメラやオーディオという現代の産物にはじまったことでなく、日本でも古くから茶道、書道をはじめ、あらゆる趣味の分野で、また職人や細工師や匠たちが仕事に使う道具を命のように大切にしたという例があるように、もともと人間にそなわった本質的な美質なのだが、そういう人間の本性が、いったいいつごろから、どんなことから歪められ始めたのか。いまも書いたように戦後のアメリカ文化の悪いとり入れかた以来という説はそれなりに正しいが、さかのぼってみると、どうも明治の文明開化あたりにひとつの分岐点があったのではないかとも思えてくる。そのことについてはまだわたくし自身よく考えぬいたわけではないのでいまはこれ以上立ち入れないが、そのことよりも、ものを愛でる、ということを、もう少し考えてみたい。
 レコード芸術というものが機械――録音、再生装置――の媒介を前提としている以上そしてそれが映画のような公衆の集まる場で演じられるのでなくむしろ読書と同じような意味でプライヴェイトな場で聴かれるという機能がある以上、媒体として既再生装置はもはや機械というよりは「器物」に近い形で、われわれの手で愛玩されるようになる。茶の道具を愛でる茶人のように、釣竿の手入れをする釣人のように、レコード・ファンが再生装置をいつくしむようになるのはごく自然のすじみちなのだ。
 茶わんや釣竿の美しさというものは、わたくしにはほんとうに良くはわからないが、たとえばカメラでもオーディオ装置でも、良いものは美しい形をしているし、美しい形の機械は必ず性能もよい。ただ、これらのメカニズムは近代精密工業の産物であるために複雑であり、したがってこういう機械は茶わんや釣竿にくらべると審美の基準があまりにも複雑で、「美しさ」の定義の仕方にちょっとした難しさがあるだけの話である。
 上司小剣などは、この面でもかなりおもしろい著作を残している。
「玄上は、その音色の美しかったばかりでなく、その形態から、撥までが、いかにも美事に出来てゐて、これを鳴らさずとも、形だけで立派に藝術品たるの資格を具へてゐた。樂器はすべて、かうなくてはならぬと、私はしじゅうさう思ってゐる。樂器中の樂器ともいふべき蓄音機に至っては、特にさうでなくてはならぬと思ふ」
 小説家であるよりも蓄音機きちがいとして名を残した上司小剣は、その著「蓄音機読本」(文学界出版部・昭和十一年刊)の中にこう書いている。
 蓄音機が再生装置からコンポーネントと呼び名が変わったいまでもこれは同じことだ。美しくない機械をいつくしむことはできない。
 音は良いが形が悪い――そんなことはほんらいありうべきことではないのだが、現代の生産方式では、音は音、構造は構造、外観は外観……というように全然生まれも育ちも感受性も異にする他人どうしがバラバラに設計して製品に仕上げるというプロセスをとるのだから、難しい。しかし、ほんとうにいい「もの」は、必ずいい形をしているし、いい性能を外観が包み隠しておくことはできないはずである。現代の複雑化したメカニズムを、機能主義運動時代の「機能的なものは美しい」としたル・コルビュジェらの定義ではもはや説明しきれない。戦後の建築家ルイ・カーンの「形態は機能を啓示する」という定義はその意味でたいそう暗示に富んでいると思う。
 美しい機械、いい機械を持てば、それをいとしく思い、ていねいに扱いたくなるのは人間の自然の感情だ。
「私は幼少のときから、器物を愛することを知ってゐた。長ずるに従ってこの器物愛が一つの「癖」となった。さうして、器物もまた愛によって活くること、人間と同じであることを知ってゐる。
 殊に蓄音機の如きは、愛によって活くる力の強いものである。同じ蓄音機にしても、これを熱愛する人によって用ゐられるのと、それほどでない人に使はれるのとでは、よほど働きがちがってくる。愛しなければ機械が活きてこない。」(前掲書)「私なんぞは、既に愛藏の蓄音機をば、たゞ眺めたり撫でたりしてゐるだけで、一日を暮らすことが多い。マホガニーや、ウオルナツツの、美しい木目の現はれた外函を見るのを楽しみ、またそれを開いて、精巧に寸分の狂ひもなく、上質の金属で丹念に組み立てられた大モーターの内臟美、機械美を鑑賞することは、モツアルトやベエトオベンや乃至は、ドビユツシイやラヴエルの音楽を聴く以上に嬉しいのである。たゞ、鳴らすがために、レコードをかけるがためにのみ蓄音機を持ってゐるといふ程度では、ほんたふの道樂ではない。所藏から愛藏に進んだ時、はじめて、蓄音機の全價値を發揮する。」
「常住座臥、愛機の側に居なければ、私は仕事も手につかず、安眠も出来ぬ。それで私は狭い書齋へ愛機マドリイを持ち込み、仕事の不便を忍んで、これがためにわざわざ机を小さくし、(他の調度との調和をはかるため)次ぎの洋室から蓄音機を聴くことにしてゐる。愛機と同室を許されるのは私だけで、家族等は決してこの室に入れない。夜もやはり、狭いのを忍んで愛機の前に臥床を舒べ、そこでなければ、私は眠れない。深夜眼が覚めると、枕の上からつくづく愛機を眺めて、獨りで樂んでゐる。器物愛に無頓着な人は、狂気の沙汰と思ふであらうが、ここまで行かねば、蓄音機ファンも徹底しない。卑近な實用ばかり考へるのは、愛の極地でない。」
 深夜目が覚めると……なんていうくだりは、前にも書いたカメラマニアそっくりではありませんか。恥ずかしいからあんまり言いたくなかったのだが、わたくしもまた、同様なのであります。しかし、次のようなところを読むと、上司小剣ほどの偏愛ぶりには、わたくしなど遠くおよばないと思ってしまうのだ。
「一人で二臺も三臺も蓄音機をもつのは贅澤だといふ人もあるが、およそ物事が道樂となれば、たゞ一個の品で満足してゐることのできないのが普通である。釣り道樂の人で、一本の釣竿だけしかもってゐないといふやうなのはなく、刀劍道樂の人なんぞ、百口も二百口も名刀をもってゐるではないか。」
「私の家の蓄音機の据えてある場所には、可なり入念に天井が張られているけれど、なほ上からこまかい埃りの落ちるのを恐れて、先ごろ職人を天井の上へあがらせ、裏から漆を流させました。」
 そして彼の機械の扱い方となると、もっとすごい。
「レコードをかける時でも、ただ機械を廻轉させる時でも、(私にはこのごろ機械を空廻りさせて獨りで樂しんでゐる時の方が多い)必らず先づ微温湯で手を洗ひ、石鹸を使って、汗や鹽気の附かぬやうにする。齋戒沐浴も大袈裟だが、手ばかりでなく、埃りの附いてゐるやうな着物は、必ず新しいのに着更へて、蓄音機に向ふ。蓄音機の動いてゐる間は、決して飲食をしない、菓子一つ摘んでも、砂糖気が機械のどこかに附くのを虞れるのである。」
「それから、冬だと、瓦斯ストーブのある室によく蓄音機を置いてゐる人があるけれど、あれは甚だよろしくない。瓦斯を焚くと、機械の金属が錆びて腐る。理由は知らないが、事實はまさにその通り。一體に烟りがわるいやうで、タバコなんぞも機械の側で吸わぬがよい。私は大のタバコ嫌ひだからよいが」
 タバコ嫌いはわたくしも同様。しかしそれ以外のところになると、ただもう恐れ入るばかり。で、これほど趣味というものに打ち込んだ人だから、「蓄音機読本」には、いたるところ、蓄音機道楽――現代ではオーディオ道楽――に対する箴言がちりばめられている。いわく「趣味の範囲を實用に限るのは、俗物だ。」いわく「名器・名刀となれば、ジツとそれを見入ってゐるだけで、既に實用を果たしているのだ。」いわく「高價なものを、わりやすに買ひ入れよう、なぞという醜悪な道具商式根性。」なんていうぐあいに。そして「持つ人、愛する人の風格によって、器物の價値はいちじるしく上下するものだ。」と定義し、ついに「死ぬ時は、愛機マドリイを毀し、モーターを湖水の底にでも沈めたいと思っている。」器物愛ここに極まれり、の感である。
 音楽家――とくに作曲家――や、画家の中に、こういう凄いほどの純粋さを持ちつづけている人たちをみることができるが、その才を持たないわれわれでも、趣味の世界に打ち込むことで、どんなに年令を重ねても、いや、年令をとるにつれてますます、純粋の世界に遊ぶことができるようになるのではないか。

 
 なぜ、趣味が人を純粋にさせるのか。それは、趣味というものは実生活のあらゆる束縛から解き放たれた虚構の世界のものであるからだ。虚構の世界では、人は完全に自由である。実生活上の利害とも無縁だ。こを買ったらトクかソンかなんていう概念は、趣味の世界にありえないコトバなのだ。外から強制されるものではなく、自らが自らのルールを(虚構の中で)定め、虚構世界の束縛の中に、束縛による緊張の世界に、自発的に参加する。そこに無限の飛躍と喜びがある。これはある意味で子供たちの遊びの世界に似ている。子供たちは遊びの世界で――というより遊びこそが子供たちの全宇宙と言うべきなのだが――、石ころや木の葉をさえすばらしい宝ものに変えてしまう。子供たちは魔法つかいだ。
 おとなにはそういう純粋な想像力(あるいは創造力)が次第に枯渇してくる。だからおとなの遊びは、子供たちよりほんの少し道具立てがぜいたくで、ほんの少し知的である。
 さまざまな趣味の中でも、とりわけオーディオはその純度が高いのではないかと思う。なぜなら、オーディオは原則として自分一人の密室の中の楽しみ、だからだ。オーディオ装置の置かれた、自分の坐る位置まで決められた部屋の中でなくては、この世界は完結しない。自分一人、というだけなら、釣、読書、カメラなどいくつもある。でも釣や写真はげんそくとして戸外で完結する。電車の中ででも読書はひとりぼっちの世界を作れる。だから、自分の部屋という特定の密室の、位置のきめられた椅子の上で完結するオーディオというのは、趣味の中でもかなり特異な存在ではないかと思う。
 むろんオーディオだって、良い音が出たとき友人や音仲間をつれてきて自慢したくなることがある。釣りあげた魚を人に見せたい、カメラを、できた写真を、珍しい初版本を、人にみせたがる心理とこれは同じだけれど、そういう楽しみは、いわば趣味の周辺、であって、自分の内面世界の純度を高めるには、やはり自分自身との対話しか、ない。趣味とは、ほんらい孤独なものだ。
 オーディオの世界で、そうした内面の世界を深めてゆくために、あるいは虚構の宇宙を無限に広げてゆくために、自分の「愛機」を探しあてる努力は大切な前提になる。子供たちだって、石ころや木の葉を宝ものに変えるためには、彼らの気に入った形の、彼らが魔法をかけやすい石を、木の葉を、探して歩く。純粋世界に住む子供にだって、道具の好き嫌いはあるのだ。
 子供たちは素材の好き嫌いを、自分の感覚で決める。オーディオのパーツ選びも、本質はまったく変わらないのだ。他人の意見ではない自分自身の直感、これだけだ。
 そういう直感はしかし、はじめから具わっているわけではない。虚構世界の遍歴をくりかえすうち、やがて、こういう音を出したい、こんな音を創りあげたい、というイメージが頭の中にでき上がる。これは大切なものさしである。新しいスピーカー、新しいアンプの音を聴くとき、わたくしはただ、そのものさしをあててみるだけだ。その素材が、自分の宇宙を創造し構築するに適しているかどうか。その可能性を持っているかどうか。それを、直感で嗅ぎわけるしかない。自分のためのパーツ選びの基準は、これしかない。むろん失敗も多い。失敗を恐れていては成功などありえない。失敗は決して「損」ではない。損か得かを考えるから、素材を選ぶ目が鈍るのだ。損得で言うなら、失敗はむしろ長い目でみれば得なのだ。けれど損得を言うのは趣味の世界ではない。
 パーツの好き嫌いは、往々にして妙な形で現われる。そのときちっとも良い音で鳴らないのに、これならきっと良い音で鳴る、いや、俺なら良い音で鳴らしてみせる、きっと良い音に仕上げてみせる――。そんな不思議な確信にみちびかれて買ってしまうパーツ。その反対に、その場で結構いい音で鳴っているのに、どうしてかわからないが虫が好かないパーツ。
 しかしそういう「感じ」というものは、決してあてにならないものではないどころか、実はもっとも根の深いところで意外に確かなもののようにわたくしには思われる。それは子供たちの直感を、あるいは動物の感覚をしらべてみるとわかる。地変を予知して避難するねずみの話は、示唆に富んでいる。
 道具は自分自身を投影する鏡であり、虚構世界へ旅立つための伴侶である。自分のすべてをぶつける対象を選ぶという行為に、どうして真剣にならずにいられるだろうか。そうしてこれは、創造の世界に結びつく。小説家が言葉を探し、画家が色を、作曲家が音を、真剣に探し抜いて自分流に組み立てるというプロセスを考えるまでもなく、素材を選び再構成するという行為こそ、即ち創造行為そのものであり、それをするためには自分のイマジネーションを豊かに育て、目ざす方向をはっきり見定めておくことが大切になる。わたくしたちはパーツを選び抜き構成することで、自分の音、自分の宇宙を創造するのだ。選んだパーツを料理するためにも自分だけの方法自分だけの呪文がある。そうしてわたくしもまた、魔法つかいになれるのである。