はっきり憶えてはいないが昭和二十三〜四年のはずだ。私は自分の小遣いでレコードを買い始めた。もちろんLPなどまだ無く、SP、それも神田須田町のかどにあった何とかいう古レコード屋で漁ってくる中古SPである。そこでたとえばクライスラーのメンデルスゾーンV協を買う。なにしろ自作の粗末な電蓄にすり切れたSPをかけるのだから、第一楽章のカデンツァの最高音部が、スクラッチ・ノイズに埋もれて聴こえない。信じられないような話かもしれないが、その程度の高音さえ出るか出ないかというギリギリの状態で、だから少しでもそこのところの音を良く出そうと努力することになる。スクラッチ・ノイズを消さなくてはバイオリンの高音部はノイズにマスクされて聴こえない。ハイ・カットすればノイズは減るが高音域まで消えてしまう。そこでハイ・カットしないでもノイズを減らす手段に苦労する。そういうところから、私のレコードとオーディオは結びついている。あるいはワルターの「未完成」を買ってくると、冒頭の低音の旋律がかすかにしか聴きとれない。つまり低音が全然出ていない。そこで低音を出すくふうをすると、こんどは安物の電蓄モーターのゴーゴーという唸りがひどく耳ざわりになる。
 このころすでに、ナマのオーケストラの音は知っていた。ナマの音楽とはこんなに柔らかく美しい音が鳴り響くのかと陶然としたが、SPレコードの音質は、そういう美しい音と比較しようという発想を最初から拒絶していた。ナマとレコードの音とはあまりにもかけ離れすぎていたから、電蓄からナマに近い音が出るなど想像してもみない。ナマに近づけるなどという高尚な話でなく、現実に楽器が鳴らしているハイ・ポジションの音階が、チェロやコントラバスの低音のメロディが、聴こえるかどうかという、まったくプリミティヴな問題だ。スコアを見て頭の中で欠けた音を補うという聴き方にならざるをえない。そして実際に楽器が鳴らしている筈の、つまり聴こえる筈の音がスピーカーからせめてもう少し良いぐあいに鳴ってほしいと、アンプを組み直し、ピックアップやスピーカーを改造する。そんなとき、自分はオーディオ道楽をしているなどという意識が入り込めるものではない。電蓄はつまり買ってきた古レコードを少しでもちゃんとした音で鳴らす道具であって、しかしこの複雑な道具をよりよく整備するには、電気やラジオやオーディオの知識が、仕方なしに必要になる。そういう形でオーディオの道に、知らず知らず入り込んでしまう。コンポーネントなどという便利なパーツを売っているわけではない。アンプから組み立て、そのアンプに必要なトランスを巻くところから始めなくては音が出ない。ダンス音楽あたりをごく低俗に鳴らす電蓄は売っていたが、それは自作よりもひどい音だ。数少ない高級品は、もうふつうの人に買える値段ではない。少しでもまともにレコードを聴きたければ、自分で組むか誰かに組み立ててもらうしか、電蓄は手に入らなかったのである。自動車を運転する人がエンジンの構造を教えられるように、カメラマンが写真機のメカニズムやDPの化学を学ぶように、レコードとそれを鳴らすメカニズムとは表裏一体のもので、いわばオーディオは、複製時代の音楽に宿命的に介在するメカニズムなのであり、ただ私はそのことにほんの少し早めに馴染んだにすぎないと思っている。そういう私の、レコードについての考えを書かせて頂く。

 
 レコードの効用についてはいろいろ言われているが、私はそれを三つの要素に分けて考える。
 第一には、音楽の時間的な制約を超越しうること。これにはさらに三つの意味があって、その一は演奏とその鑑賞の同時性を否定しうること。その二は聴き手の感興の盛り上りによって好みの時間を選んで聴くことができる。その三に、好きな部分だけ、好きな順序で聴くことができる。
 第二に、演奏家を含めて第三者の同席なしに、聴き手一人が、自分の内面と対話する形で音楽に対することができる。
 この第一と第二とは、ナマの音楽のありかたからみれば邪道そのものかもしれないが、しかしこのふたつの、レコード独特の聴かれかたが、いわば読書の形に酷似していることに気がつけば、活字と同じく複製の技術という文化のもたらした、音楽の新しい授受のシステムと考えることができる。
 さて、レコードの効用の第三は――これがレコード音楽とオーディオの技術のもたらしたまったく新しい革命と私には思えるのだが、――聴き手自身が好みの音量と音質を選択できる、ということではないか。これこそ、ナマの音楽では考えもつかなかった音楽の聴き方と言える。むろんこれがナマにはありえない大音量で鳴らせるという意味でもかまわないが、私にはそれよりも、夜更けて一人静かにスピーカーと向きあって、やっと聴きとれるぐらいの小さな音量でレコードをしっとりと聴くときのあのひそかな楽しみこそ、電蓄発明以前の人類の思いもよらなかった鑑賞法だろうと思う。
 こんなふうな聴き方を、片輪であり邪道であるときめつけるのはやさしい。そしてもちろん私も、レコードのこういう受とりかたにたいへん危険な陥し穴のあることは承知しているつもりだ。けれど反面、演奏会やサロンでなく、つまりパブリックな場所でなく、読書と同じように自分一人の書斎(リスニングルーム)に持ち込むことができるというレコードの鳴らす音楽の意味については、いまよりももっと深く考え直してみなくてはならない大きな問題がかくれていそうに思う。そしてそこからまた、レコード、オーディオのありかたが浮き彫りされてくるのではないかと思う。

 
 レコードの音は、徹底的に嘘であるところが好きだ。虚構だから好きだ。日常的でないから好きだ。そしてそれを鳴らすメカニズムには、レコードの虚構性、非日常性をさらに助ける雰囲気があるから好きだ。
 一人の人間を幸せにする嘘は、人を不幸にする真実よりも尊い。「百の真実にまさるたったひとつの美しい嘘」というのは私の好きな言葉で、これを私は、レコードの演奏やそれを鳴らすメカニズムやそこから出てくる音にあてはめてみる。レコードの音は、ほんらい生とは違う。どこまで行ってもこの事実は変わらない。オーディオの技術がこの先どこまで進んだとしても、そしていまよりもっと生々しい音がスピーカーから出せるようになったとしても、ナマとレコードは別ものというこの事実は変わらない。
 だからナマと同じ音など求めるのはバカげている、という考え方がある。どこまでナマに近づけるかという追及などナンセンスじゃないか、という意見がある。一面もっともだが、私は違う。たとえば小説が虚構の中で現実以上の真実をみせてくれるように、映画が虚構の中で実生活以上の現実感を味わわせてくれるように、私は、スピーカーが鳴らす虚構の音にナマ以上の現実感を求める。生の音と同じ、ではない、いわば生以上の生、を求めるのである。虚構の世界のこれは最も重要な機能である。虚構は日常性を断ち切ることによって、虚構にいよいよ徹することによって、真実を語ることができる。
 去年の夏、引越しをすることになったがその少し前、軽い骨折をしてしまい、不本意ながら一カ月ほど静養の時を得た。私は一人で新しい部屋の方に、わずかのレコードと簡単な再生装置と少しばかりの本を持ち込んで、久しぶりに仕事を離れてたった一人の暮らしを楽しんだ。正直いうとこの数年間、狭い部屋に家族と鼻を突き合わせるような暮らしをしていて、しみじみとレコードに感動したという体験から遠ざかっていた。
 曲や演奏をあげるのはこの場合あまり意味が無いと思うが、そういう状況である夜聴いたのが、レヴァンギュート・クヮルテットのドビュッシーであった。鳴り始めから弦は妖しい香りをちりばめ、私はじきに目まいのような気持に襲われて、われを忘れて夢中になった。レコードがいつ終ったのか気づかないほど、それは陶酔の時間であって、いつか来日の折に聴いたレヴァンギュートのあのおそろしく艶めいた弦の香気を、まさしく実分以上に美しく鳴らし、しかしそれはまさしくレヴァンギュートの音色以外の何ものでもないという響きであった。
 実演は一回きりだがレコードはくりかえして聴けるというのは、むろん機能的にはそのとおりだが、しかし私にとってこのレコードが与えてくれた感動はおそらくあの日の一瞬であって、さらに言えば、どんなレコードでも、くりかえし聴いてもそれは一回一回が別な鳴りかたであり別な聴こえかたをするのであって、レコードに限らずあらゆる対象物が、人間の生きてゆく時間の流れの中での一回一回の出会いである以上、これは当然のことと言ってもよいだろう。そしてまた一方、レコードが読書と同じ機能を持つという認識に立てば、くりかえし聴くことがその度ごとの新たな発見であるとも言えるのである。
 レコードが視覚をともなわないというのも、私には有難い。どちらかと言えば私は視覚に影響されやすい人間なので、生の演奏会でも、ソリストの容姿が気に入らないと、いくらうまい演奏をされてもどうも最後まで落ちつかない。あるいは隣の席にやけに鼻息の荒い人が坐って、終始スースーというノイズが聴こえていると、それが気になって演奏に溶け込めない。たまにそういういろいろなコンディションが、うまくこちらの気に入って珍しく楽しめたときでもさて演奏が終ってホールから出ると、まず廊下雀達の批評で気分をこわされ、帰りの電車の中で不躾な酔漢に気色を悪くし、駅を下りて家までのタクシーで気まずい思いをし……疲れ果てて演奏会の楽しい気分など遠い昔のことみたいになってしまう。それでもやはり私は、演奏会が好きで、これはレコードを好きという意味のまったくの裏返しになるが、時間や曲目や座席や環境やその日のこちらの気分やらの制約の中で聴くというのが、また逆の意味での楽しみであるし、それ以上に、演奏家と聴衆の心の通い合いによって次第にその日の音楽が形造られてゆくプロセスに感動させられる。
 で、再びレコードだが、だからレコードは演奏会と正反対の気ままの対象であるべきで、私の理想を言えば、たったいま聴きたいと思う曲、聴きたい演奏家は、それがたとえ一年に一回でも五年に一回しか聴くことのないものでも、すべて手のとどくところにあるという状態であって欲しく、しかもそれが今日はジェスアルドであるかと思うと明日はチャイコフスキーかもしれず、しかし昨日は中田喜直でそのあとがバルバラだった……というぐあいに分裂症的にゆくものだから、ざっと一千枚を超える数になっても、いまだに、あ、聴きたいな、と思うレコードが意外に手もとに無く口惜しい思いをする。
 気まぐれで突然聴きたくなるくせに私は本質的に国内プレスが嫌いで、コレクションの大半が輸入盤だ。だからなおさら、欲しいときに欲しいレコードがすぐ手に入らず、実は好きで好きで欲しくてたまらないような、そして私をよく知る友人などが、そのレコードを私が持っていないことを不思議がるようなレコードが、案外手もとになかったりする。衝動買いの典型である。
 輸入盤しか買わないというのは、一言でいえば音質が良いからである。レコードの音質には不思議に国柄があらわれる。同じテープから、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本でそれぞれレコードに作られると、音色がみな違う。そしてその音色は、それぞれの国で生まれるオーディオ・パーツの音色と共通している。さらに言えば音ばかりでなく、色にも、味にも、香りにもそれは共通する何かを持っている。たとえば、一枚一枚心をこめた手づくりのレコードを愛好家に手渡したいといっているようなのはイギリスとドイツで、フランスはやや雑であり、アメリカはことに最近になって仕事が粗くなり、日本のレコードは、仕事はていねいにはちがいないが心がこもっていない。この言い方が適当でないなら、日本のレコード製作者の心は、これほど冷たく無機的なのか、それとも、これほど豊かさが欠けているのか、という感じがする。くりかえして言うが仕事は実にていねいで、技術も優れている。しかし、いまの日本で作る大半のレコードの音を私は好きになれない。
 器も味のうち、というのが私の以前からの考え方で、当然レコードのジャケットも気になる部分だが、この面でも、日本のジャケットは凝っている割に内容の軽薄なものが多くて好きになれない。レーベルも同じ。盤質も――よく言われる針音の多少でなく、同じ針音が出るにしても鋭く硬い出方をするし、見た目の光沢や肌目も深みが無く、そしてまったくそういう音がする。こういうレコードを作って、レコードに愛着を持てと言う方が無理で、これも私の持論だが、ものはそこに存在することによって、扱われ方を暗示する。もの自体が、人に、こうしなさいと啓示している。日本のレコードは、私に、聴き捨てなさいと語っている。新建材で建てたプレハブ住宅のように、仮りの住まいであることを語っている。海外で発売される可能性のほとんど無い国内録音、邦人演奏家、邦楽のたぐいしか、私のところに国内プレスが無いのはそのためである。レコードは重厚な雰囲気を持つべきなどと言っているのではない。その風合いというか、肌ざわりというか、視覚・聴覚・触覚さらには嗅覚まで含めた一切の感触に、軽快であっても軽薄でない、重厚でなくとも風格のある、そういうレコードが欲しいし、それでなくては愛蔵に耐えられないと言いたいのである。その意味では海外盤の中にも、ずいぶんひどいのが少なくないが。
 もうひとつ近ごろ輸入盤を買ってがっかりするのは、ジャケットやレーベルのメーカーのブランドやマークにべったり貼った無神経なシールで、これは契約の関係なのだそうだが、まったく美的神経の欠如したシールのついたレコードが廻るのをみているのは、神経をわしづかみにされるみたいで耐えられない。ここ一年あまりレコードをほとんど買わないのも、ひとつはそういうレコードがあまりにも増えて、輸入盤を手にとる楽しさをまったく失ってしまったからで、あれこそ日本のレコードメーカーのいやがらせとしか思えない。これなら、演奏会の帰り道に酔漢にからまれる方がまだまし、ぐらいのものだ。くりかえすが、器もまた味のうち、なのである。べったり貼られたシール、のような日常性は絶対に拒絶する必要があるのだ。

 
 エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさが何とも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく、もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。
 近ごろしばらく鳴らさないが、エラート録音のランパル五人組の、ジャン・フランセエの木管五重奏も、私の好きなレコードで、なにしろ曲がめっぽうしゃれている上に、演奏がすばらしく達者でしかも洒脱である。この曲が気に入ってあとから買ったニューヨーク木管五重奏団の演奏(アメリカ・エヴェレスト)を聴いて、かえって逆にエラート盤の演奏の洒落が並大抵でないことを思い知らされたくらいのもので、しかしこれも日本では廃盤である。
 ロス・アンヘルスの歌うラヴェルのシェラザードもいい。クリュイタンスの指揮するコンセルヴァトヮールが、キラキラときらめくようなすばらしい美しい音で鳴る。これまた、手もとの国内盤のカタログには見あたらない。
 ヴォーカルやコーラスのレコードはわりあい多いが、やはりエラートから出ているプーランクの「雪の朝」(ポール・エリュアール詩)その他を入れた無伴奏のコーラスはすばらしいレコードだ(グルノーブル大学合唱団)。少し古いところでジェスアルドの作品を集めてロバート・クラフトの指揮するレコード(アメリカ・コロムビア)も好きなレコードで、ジェスアルドの作品は最近になってハルモニアムンディ/アルコフォンから六枚にのぼる大冊が出たが、この演奏よりもクラフトの方がはるかに現代の感覚でジェスアルドを生き生きと蘇らせている。
 コーラスといえば中田喜直の作品も愛聴レコードのひとつで、中でも「女声合唱曲集」として「石臼の歌」「ねむの花」などを収めたレコードは、録音はめっぽう悪いけれど歌がすばらしくていまでも最もよく聴く一枚である。しかし中田喜直といえば、伊藤京子の歌う「六つの子供の歌」ほかのレコードが何といってもすばらしく、これはあとで三〇センチ盤に切り直して出しているが、私が初めて買ったのは二五センチ盤の方で、しかもこのレコードが、私が買った最初のステレオ・レコードときている。というよりこれを聴きたいばかりにそれまでモノーラルだった再生装置のステレオ化を急いだと言ってもいいので、その意味では記念すべきレコード言える。
 こんなふうに一枚一枚数え上げたらきりがないし、また逆に一枚のレコードにまつわる思い出など書き始めればこれまたきりがない。ここにたまたま引合いに出したレコードも、もしかしたら、気まぐれな私がたまたま今夜ちょっと聴いてみたいと思うレコードなのかもしれない。
 いずれにしても私のオーディオは、つねに好きなレコードをより美しく聴くためにあった。たとえ録音の良くないレコードからも美しい音を抽き出すように調整してきた。虚構の中の美しさを生かすために、虚構の美の完結のために、装置を作り、改造し、聴いてきた。そしていま、ささやかながら、ふたつのスピーカーに囲まれた空間で、演奏者が息づく気配のようなプレゼンスを聴きとることができる。考えてみると、私はこの「気配」を求めてオーディオをいじってきたような気がする。つまりそれが虚構の中での生命感であり、そういうプレゼンスを出せるか出せないかというひとつの境界線が、オーディオ・パーツを選択する基準でありレコードの音質に言及する根拠でもあり、そしてその一線を越えた瞬間に、虚構の世界はまぎれもなく自分自身の小宇宙になる。一度この音を出せれば、そのときからレコードの世界は一変して見えてくる。