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「高忠実度再生」とか「原音再生」という言葉をあまり見かけなくなってきた。それはそうした目標が達成できたからなのだろうか、それともそういう目標が達成できないとわかってあきらめてしまったのだろうか。
達成できた、という言い方をするならそんなものはもう八十年以上も昔に達成できていた。冗談を言っているのではない。トーマス・エディソンの発明した蓄音機が実用品として市販され、大西洋を渡ってドイツでデモンストレーションをした際、ヘルベルト・ビスマルク伯爵がその音を聴いて「目の見えない人ならさだめし楽団の実演と思うだろう」と感想を述べたことが当時の新聞(一八八九年十月二日付「フォス新聞」)に載っている。(クルト・リース著「レコードの文化史」音楽之友社)。
ビスマルクという男はよほど耳が悪かったに違いない、などと言ってしまうとこの話はただの笑い話になってしまうので、現代人の耳にはいかにも古めかしい高音も低音も出ないスクラッチ・ノイズの中から聴こえてくるような音も、初めてそれを聴いた人たちの耳には実演さながらの驚くべき音に聴こえたのだと考えなくてはいけない。その証拠に「実演そっくり」だの「原音そのまま」だの「眼前で演奏しているよう」だのという形容は、レコードと蓄音機の発明以来何百ぺんもくり返されてきた。
新しい蓄音機が、新しい録音が、誕生するたびに人々はその素朴な驚きをナマそっくりと形容した。エディソン以来やがて百年になろうとして、レコードの音は昔とくらべものにならないくらい美しく生々しくなってきたけれど、いまに至るあらゆる時代に、その時どきの人々は「原音」を聴きとっていた。裏返して言えばナマそっくりという表現は、人々が昔から現代に至るまで終始変わらずレコードに望み続けてきた理想であり、本質的な欲求であったと言えるのではないだろうか。
そして現在、最も進歩したオーディオ装置を理想的な条件で鳴らせばたいていの人がびっくりするくらい生々しい音を出すことができる。仮に何十年かあとになってその時代の人が、むかし(一九七〇年ころ)はこんなひどい音がナマそっくりに聴こえたのかと笑うことになるのかもしれないが、しかし現代の私たちの耳には現在の最高水準のオーディオ装置の音(むろん数は非常に少ない)が原音そっくりに聴こえるところまで来ていると、本当にそう思えるのである。そういう音を自分の部屋で鳴らすことも決して不可能ではない。おおかたのオーディオ愛好家はそのことを夢みて、スピーカーをグレードアップし、アンプを交換し、カートリッジを差しかえてこの道楽の深みにのめり込んでゆく。マニアとか音きちがいなどと呼ばれて、かえって嬉しそうな顔をするようになる。そういう馬鹿な男の言うことだと思って読んで頂きたい。
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いまさら自分のことをあげつらう気はないがわたくしと同年代のオーディオ馬鹿たちを見渡してみると、たいてい昭和二十年代のはじめから、つまり終戦(この言葉も古くなった)直後からラジオの組み立てなどを始めていつの間にかそれがオーディオ・アンプになって……といった足どりがやがて三十年になろうという永いあいだ、人言うところのオーディオの泥沼に浸り込んでいる。いい年をした男どもを何十年もつなぎとめているこのオーディオという道楽には、やり始めてみれば十分にそれだけの魅力があることがわかる。
そんな言い方は馬鹿ものの弁明ととられても仕方がないが、しかしオーディオのおもしろさが原音の再現というたったひとつの目標にのみ、あるわけではなく、たとえばメカニズムをいじる楽しみだの、音質を少しでも改善する計画を立ててそれを実現してゆくまでのさまざまの楽しみ、言いかえれば目的を達成するまでのプロセスでどんな些細なことでも楽しみに変わってしまうという趣味の世界に共通の楽しさが、ことにオーディオには豊富にあると言ってよいだろう。
オーディオ装置を一式揃えて、一応の音が出ればあとはレコードを少しずつ集めてそれで安心してレコードを聴ける、そういうタイプの人の機械がいかに凝ったものであり、どれほどよい音質で鳴っていたとしても、それをオーディオの趣味とは言わないので、それは単にひとりの穏健なレコード・ファンなのである。言いかえれば自動車は人を乗せて目的地まで走ってゆく実用のもの、カメラは写真が撮れればそれでよいという実用のものと考えると同じことで、ただ人によって実用品に要求する質の良さの程度が違うというようなものである。こういう考え方のできる人は本質的にものに凝らない。
その一方でカメラを買えば少しでも良い写真が撮れるようにと研究し腕を研き、やがて鑑賞眼が肥えてくると自分のカメラの限界を知ってさらに大きな可能性を持ったカメラに買い換え、そして再びいっそう大きな可能性に挑んでゆくというタイプの人、それを音に置き換えればこれがいわゆるオーディオ・マニアということになる。
要するにオーディオの趣味のほんとうのおもしろさは機械を揃えてから先の音の出し方にあるといってよいので、同じカメラを使っても感覚と技術に応じて人それぞれ違った写真を作ると同じように、同じスピーカーでもその人の感覚と技術に応じて異なった音質で鳴ることがわかったとき、オーディオのおもしろさの第一歩が始まる。次第にそれは昂じてゆき、やがてある夜、妖しいほどの美しさで、演奏者の息づかいが感じられるほどの生々しい気配をともなって、それは鳴り始める。まったく機械というものの介在を忘れさせるほどの音質で――。自分の好きな演奏家の一人一人が、自分の部屋に現われて自分一人のために聴かせてくれているような感激と陶酔の時間である。
むろん陶酔から醒めてみれば、目の前に坐っているのはスピーカーでありアンプであるが、映画が終ってスクリーンの白さが目の前にそびえているあの白々しい思いをオーディオ・マニアは経験しない。それどころか、いま確かにその音を鳴らしてくれた機械のその性能に改めて惚れ直し、その機械からそういう音を抽き出した自分自身に陶酔する。
こう書きながらまったく俺も馬鹿な男だとあきれている次第だが、現実に鳴る音の妖しい魅力、ほんの一昨夜も確実に鳴ったあの音の美しさには、この馬鹿者をひきずり込まずにおかないほどの抗し難い魔力があるのだ。
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しかし原音が再生された、とはどういうことなのだろうか。少しばかり話が理屈ぽくなるがお許し頂きたい。
ある人を写真に写してそれがどこまで本人に似るかと考えてみれば、たとえ最良のカラー写真でも結局生きた人間を一枚の印画という平面に置きかえられただけでももうそれは本人そっくりとは言えないわけで、しかしそんな疑問は誰も持たずに、カラーどころか白黒の小さな印画を眺めてこれはあの人の感じがよく出ているなどと平気で言っている。事実うす汚れた粒子の粗い印画からも、その人らしさは十分に伝わってくるのである。しかしもっと冷静に本人にどこまで似るかと考えを飛躍させてみれば、行きつくところは立体像であり、さらに本人と寸分違わない人造人間を作ればよいということになるのだろうか。案外、いまのオーディオにそういう幻想を素朴に信じている人が少なくないように思う。ナマそっくりというのはナマと同じロボットを再現することだというような……。
では本人と同じロボットが言動もそっくりに出来上がったとしたらどういうことになるか。こんな想像はまことに不気味なものだが、もしそんなことが実現されたとしたら、ロボットはどこまでも本人そのものでないことをそこで初めて思い知らされるだけである。原音のロボットをもし音で作るとすれば、たとえばベルリン・フィルのフル・メンバーを目の前にずらりと並べなくてはいけないことになって、演奏される場の広さだけを考えてみてもそんなことがわれわれの家庭でできるはずがないことは瞭然だろう。
原音再生とは、したがって物理的・客観的にイコールの音を作り出すことではなく、写真と同じ意味でナマとは次元の違ういわば別のカテゴリーの中で、原音の持つ抽象的なイメージ、あるいは原音のエッセンスをどこまで感じとれるかという点になってゆく。くだいて言えば、原音は一人一人の頭の中にしか存在しえないとと言ってしまうことができる。
映画というものが白いスクリーンに投影された虚像でありながら、そこに走る自動車の窓からカメラが行く手を写せば、緊張のため鼓動が激しくなり、自分の身体がゆれているように錯覚し、目まいをおぼえたりさえする。ピストルがこちらに向けて発射されれば、思わず目をつむるし、砂漠の砂あらしが描き出されれば口の中がざらざらになるような気分になる。未開国人でないかぎり、それがスクリーンに投影された映像であることを知りながら、そのていどに生々しい感じを味わうので、映像を音像と言いかえればスピーカーから鳴る音の生々しさはこれで説明がつく。
ひとつだけ面倒なことは、現在のステレオ方式では、左右ふたつのスピーカーと向きあったある狭い一点でしかそういう錯覚を感じとりにくいということで、もうひとつつけ加えれば再生装置がある水準以上の性能を持っていなくてはそういう条件が十分には整わない。オーディオ・マニアはそのことのためにスピーカーを、アンプを探し求めるのである。
そうしたいわば物理的・心理的な伝達と授受の条件とはまた別に、スクリーンに写し出されるドラマであれ、ドキュメントであれ、涙を流したりはらはらしたり、ときには一人の人間の存在を根底からゆさぶるほどの感動を、映画は与えるし、ふりかえってレコードの音楽もまた同じだと言える。いわば虚像を通じて、人間の魂を心底からゆさぶるほどの力を、映画もレコードも持っているのである。
しかし映画が暗室の中のスクリーンという仕掛の中で、言いかえればひとつの儀式の中でそういう感動を伝えると同じように、レコードからそういう感動を受けとるためには、前方左右のスピーカーと向きあったある一点にぴたりと坐って、たった一人密室に閉じこもることが、レコードを聴く儀式として必要のように少なくともわたくしには思われ、この点で読書が複数では不可能であることとレコードの機能とにある種の共通点を見出すことができる。
本の活字を追うことは一人ずつの個人の目でしか不可能だが、スピーカーの音は不特定多数に聴こえてしまうために、何となく、みなで集まってレコードを鑑賞しましょうといったムードに支配されがちだ。そういう聴き方もむろんありうるが、それはたいていの場合、家族や友人たちとの歓談の場の添えものであって、娯楽であって、もしもそういう状態で一人の人間がレコード音楽に心底感動したとすれば、そのとき彼は周囲の人間が見えなくなって、レコードと一対一で対話をしている筈である。まわりの人からはまるで放心しているとみえるかもしれない。レコードが人を感動させるとはそういうことに外ならないのである。
そこで話を原音の再生に戻すが、いまも述べたように音楽の感動とは、必ずしも音質の良否とは関係が無いとも言える。古い録音のレコードだって、ポータブルのラジオだって、演奏そのものに感動できるという事実がそれを証明している。だとすると、レコードの音、スピーカーから出てくる音を、原音のイメージ、自己の頭の中で抽象化された原音のエッセンスにどれほど近づけることができるかといったアプローチの仕方は、やはり音きちがい、オーディオ・マニアだけのものだろうか。
そのことが、最近になって気になり始めた。たぶんそうなのだろうと思うが、だからといってわたくしはレコードで聴く音楽がたまらなく好きだし、スピーカーが鳴らす妖しい音の魅力から抜け出したいとも少しも思っていない。むしろ、わたくし自身が一貫して求めつづけてきた、そうしていまその理想のほんの少しは実現できていると信じている、演奏者の気配と言いたいほどの雰囲気を一人でも多くの人に体験して頂きたいとさえ思っている。
そういう音は、しかし容易に聴くことはできないだろう。オーディオ販売店の店頭などで、高級なステレオ装置を聴いてみて、案外たいしたことはなかったと感想を漏らす方々によくお目にかかるが、たくさんの商品に埋もれた中でスピーカーのセッティングひとつさえ条件が満たされている筈がなくて、とてもその装置の音を聴いたことになどなるわけがない。一人の個人の手で、永い時間をかけて注意ぶかく調整されたオーディオ装置が、ごくまれにそういう音を聴かせてくれる。
そういう音を一度でも聴いたときから、あなたの中でオーディオというものの価値観が一変する。そしてはっきり言わせて頂くなら、いまの内外のオーディオ・パーツの鳴らす音は、ごく一部の製品を除いては、そういう理想とはかけ離れた音でしか鳴ってくれない。注意深く選択され、根気よさと鋭い感受性と技術をあわせ持った人だけが、わたくしの言うステレオのプレゼンスを抽き出すことにからくも成功する。そして、その音を出すことができたときから、オーディオは少し誇張して言えば、自分の人生にかけがえのないものになる。
まさしくナマ以上の生々しく美しい音楽が、自分の部屋に妖しく立ちこめるのである。