オーディオ装置というものを、いや、蓄音機やラジオさえも、つまりスピーカーやヘッドフォンから鳴らす一切のメカニズムを一度も聴いたことのない人に、現在のオーディオ装置のしくみを説明して聞かせたらどうなるか。むろんそういうものを一度も見たことのない相手に、なのだから、マイクロフォンの構造をまず説明し、それを増幅器というもので増幅し――それを説明するのはもしかしたらトランジスターの性質から説かなくてはならないかもしれないが――磁気テープ録音機というものに記録する。それを説明するにはまた、電気磁気学から説明してかかる必要があるかもしれないが、ともかく相手に理解させるに必要ならどこまでも細かく説明してゆくという前提だ。次にカッテンィグ・マシンにかけてラッカーの円盤に音を刻み、かくかくのプロセスによって黒いビニールの円盤に仕上げる。さらにそれをピックアップなるメカニズムによってトレースし、アンプリファイアを通してスピーカーに導くと、さきにマイクロフォンの受けたもとの音が再び蘇る……。なにしろそういうメカニズムを見たことも聴いたこともない相手に、なのだから相当に手間と時間がかかるだろうが、ともかく相手がそのメカニズムをどうやら想像できるようになるまで、懇切丁寧に説明する、というのである。
 一度もそういうものを見たことのない相手であっても、ステレオのメカニズムを電気的にも物理的にもよく理解できなくてはならないのだから未開人ではいけないことになる。むしろ相当程度に文明の高い教育を受けた人間でなくてはならない。となると、これは地球上の人間ではすこし無理になるから、X星からUFOに乗っていま私の目の前に飛んできた、ミスター・クヮェトロ氏(彼の名前を発音通りに片仮名に直すことは非常に難しいが)に右の話を聞かせることにする。
「というような次第なんですがね、クヮェトロさん。こういう仕掛のメカニズムで、たとえば私の声を録音・再生したら、いったいどの程度忠実に再現できると思いますか」
 するとクヮェトロ氏、しばらく首をひねっていたが、やおら胸のポケットのあたりから何やらピカピカ光る箱のようなものをとり出した。念のため言っておくと、クヮ……めんどうくさいからQ氏とするが、そのQ氏の身体にまとっている衣服には、強いて地球上で似た素材を探せばスキンダイビング用のウェットスーツのような、身体にぴったりフィットしたゴムかプラスチックのような、しかもその色ときたら薄緑というのか緑灰色というのか、実に不思議な色あいで、だいいち縫い目もボタンあるいはファスナーのようなものも一切見あたらないのだから、それが本当は衣服なのか彼の素肌なのかもよくわからないのだが、われわれの衣服でいえば胸ポケットのあたりに彼が手をやると、その切れ目なしのどこからともなく忽然と、ピカピカ光る箱のようなものが現われるのだから、やはりそれは衣服なのだろう。
  ところでそのピカピカ光る箱、だが、これもわれわれに身近な例でいえば小型の手帳か電卓ぐらいの大きさで、しかしこれまた見たこともない素材で、アルミニウムよりは深い光沢で、ステンレスよりは冷たく硬い材質のようで、しかし彼が何やらあちこち押したりしているのをみると金属にしてはエラスティックな感じがして何とも奇妙だか、しかし話はさっきの、私が地球上のステレオ録・再装置の話をして、それでたとえば私の声がどの程度の忠実さで再現できると思うか、と質問したところに戻る。
 するとその箱をいじりまわしていたQ氏の手もとから、何と驚いたことに、いま長々と説明していた私の声が、気味悪いぐらいそっくりに再生されてきたではないか! そしてQ氏はニヤリと笑って言ったのである。
「もしかしてこの声よりももう少し忠実かもしれませんが、それにしてはお話の装置は複雑すぎますね」
  *
 ちょっと待てよ、私は、こういう結末にするために最初の話を始めたのじゃなかったのだった。実を言えば、話のはじめ――文明度の高いしかしステレオ装置を知らない人にそのしくみだけを話して――の部分は、古い知人であり十数年前の「ラジオ技術」のレギュラー執筆者の一人であった鴨治儀秋氏のアイデアで、UFOに乗ったX星のQ氏……いこうが私の創作なのだが、最初の鴨治氏の話は、ほんとうは次のような結末になる。
 要するにステレオ装置を知らない人にそのしくみの方を先に説明しておいて、それから改めて再生音を聴かせてみる。おそらく、その仕掛から想像するよりもはるかに生々しい音が出てくることにびっくりするはずだ。ということは、現在のステレオ録音・再生装置は、その原理から看ると度録ほど現実性の高い再生音を聴かせてくれるのだ、というのである。
 右の話はしかし、実にいろいろの問題を考えさせてくれる。たとえばピアノの音を一度も聴いたことのない人に現在の最高水準のピアノの再生音を聴かせておいて、あとから本ものを聴かせたら、そこにどの程度の類似性を聴きとることができるだろうか。ピアノの音を、それ以外の楽器と聴き違えることはないかもしれない。それならヴァイオリンとヴィオラの音を、あるいは同じヴァイオリンでも銘柄の違う二種類の楽器を、またはよく似た二人の人の声をだったらどうなるか――。案外私たちはそのもとの音を知っているからこそ、再生音を聴いて不自然に思わないどころか生とよく似ているように思えるのかもしれない。仮にそれが歌謡曲の歌い手のように、ナマの声を一度も聴いたことのない相手であっても、テレビやラジオや、街角やその他いろいろの機会に、いろいろなスピーカーで同じ人の歌をくりかえし聴いていると、ひとつひとつの再生音は細かく言えば全部違うのに、その人の声であることを識別するのに必要な最も基本的な声の特徴だけでは、右のような体験を通じて掴むことができる。これは松尾和子にしては少し若い声だ、とか、沢たまきはもっとハスキイだ、などと感じることができるのだ。
 それにしても、最近の再生装置や録音技術の進歩は著しい。十年前をふりかえってみると、これほど手軽にどこの家庭でも、生の音の印象にごく近い、美しい音で音楽を再生できてはいなかった。ナマとの比較で再生音が論じられるほどになったということは、録音・再生の技術が非常に進歩したことをあらわしている……。少なくとも一般にそう思われている。しかし本当にそうかな?
 レコードの歴史を調べてみると簡単にわかることだが、現在のわれわれから視たらよそ素朴きわまりないエディソンの最初の蓄音機のころから、「ナマそっくり」という形容は、あきれるほどしょっちゅう使われている。冗談を言っているではない。エディソンの蓄音機が初めて海を渡って、ドイツ人シーメンス邸で公開されたとき、招かれ訪れたビスマルク伯がその音を聴いて、「目の見えない人がこれを聴いたらさだめし実演と思うだろう」と感想を述べたことが記録に残っている(クルト・リース著「レコードの文化史」音楽之友社)。ナマそっくりという形容はこのときばかりではない。それからあと、ベルリナーが平面盤を完成したとき、機械吹込みが電気録音に代ったとき、LPができたとき、ステレオになったとき……細かくみればそれらが小改良されたその節々に、ナマそっくり、という形容は常套句のように使われている。当時の人の耳は素朴だったと笑いとばしてしまっては何の意味もなくなるので、もし仮にいまから二十年後に今日のレコードと再生装置を聴いたとき、当時はこんな音でもナマそっくりに聴こえたのかとあきれることにならないという保証は何もない。しかしいまの時代に生き、いまの時代の最新の録音・再生を聴いて私たちは、レコードの音がずいぶん良くなったと本気で思っている。蓄音機の歴史の道のりで、そのときどきの人々もまた、同じことを本気で思っていた筈なのだ。だがそうだとしたら、良いととはいったい何なのだろうか。
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 ある若手の演奏家に録音・再生についての感想を求めたら、いや、僕はレコードの音を良くする必要を感じません。むしろ音なんか悪い方がいい。ほんとうはスコアが一冊あれば、あとは自分の頭の中でいくらでも音楽を鳴らせるからその方がいいんです、と答えたそうだ。この話はある意味ではオーディオ愛好家をひどく不安におとしいれる。もしそうだとしたら、音を少しでも良くしたい、音が悪くては音楽が聴けないと信じているオレ自身は、音楽を自分の頭の中で組み立てられないほどの音痴なのか。自分の音楽的内容の貧困を再生音の向上で補おうとしているだけなのではないだけうか……。
 心配することはない。スコアを読んで音楽を組み立てる行為とレコードで音楽を聴くそれとは全然別の話なのだ。演奏家にはふたつのタイプがある。ひとつはナマでもレコードでも他人の演奏を積極的に聴いて自分の栄養としてゆくタイプ、もうひとつはいまの話のように、できるかぎり他人の演奏を聴かないようにして自分の様式を作りあげてゆくタイプ――。別にどちらが優れているというわけでなく、その人の性格の問題である。
 ナマの演奏という創造行為に対して、オーディオ装置でレコードを鳴らすのは、あくまでも音楽再現の手段であり、それは正確かつ精密であるほど良い。少なくともレコードからスピーカーまではそうあるべきで、そうして耳もとまで運ばれてきた音楽から、何を、どう聴くかという主体性が、聴き手に求められるだけの話である。そこに、リスナーが音を聴くという行為が問題になってくる。そして優れたリスナーであるためには、演奏家の場合とは逆に、ナマと再生音の両方を、それも少しでも良い演奏と良い再生音をとに数多く接することが必要であると思う。常に、でなくてよい。少なくともある一時期は、集中的に聴き漁ることが必要だと思う。良い演奏と良い再生音を数多く聴いて、良い音を自分の身体に染み込まさなくては、自分の再生装置から良い音を抽き出すことは不可能のように思う。
 良い音を聴き分けるにはどうしたらいいか、と質問されたとき、私は、良い音を探す努力をする前にまず、これは音楽の音とは違う、この音は違うという、そう言えるような訓練をすることをすすめる。ある水準以上の良い音を再生して聴かせると、誰でもまず、その音の良いということは容易にわかる。その良さをどこまで深く味わえるかは別として、まず良いということがわかる。ところが反対に、音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪い、とはっきり指摘できる人が案外少ない。この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳を作るには、少なくともある一時期だけでも、できれば理屈の先に立たない幼少のころ、頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう方がいい。成人して頭が先に音を聴くようになってからでは、理屈抜きに良い音を身体に染み込ませるには相当の努力が要るのではないかと思う。
 私たちの日常接している音楽の大半は西欧で発生したものだ。この点で残念ながら、ヨーロッパの人間が音楽を聴く耳では一日の長があることを否めない。むろんヨーロッパにも音楽を好かない人は数多くいるけれど、その彼等の血の中に音楽が染み込んでいることに於て日本人の比ではない。
 ヨーロッパを旅してみると、どんな片田舎にも教会がある。というより教会を中心にして村落が集合している。毎日曜にはミサが行われ、彼等には子供のころから教会のオルガンの音とコーラスの声が染み込んでしまう。そういう血が何代にも亘って彼等の身体に流れている。そういう彼等がスピーカーから鳴る音楽を聴いたとき、それが聴き馴染んだ音か、それともどこか違う音か、ほとんど本能的に聴き分けることができる筈だ。すこし前の世代の日本人の中には、三味線や琴の音色から、奏き手の心の状態を聴き分ける程度の人は少なからずいた。しかし西欧の音楽に関しては、まだそこまで聴き分けるほどの歴史が日本には無い。それは仕方のないことで、何ら恥べきことではない。けれど、そこが日本人に負わされた大きなハンディであることを自覚して、それを克服するよう心がけていれば、日本人の耳でも、西欧人以上に音楽を聴き分けることは十分に可能なのだ。そういう優れた耳の持主、どころか西欧の音楽を立派に演奏して本場でも高く評価されている日本人が、もはや決して少なくない。
 だがここでは何も、話をクラシックとその周辺にかぎることはない。たとえばさっきも書いた歌謡曲。日本人の唄う日本の歌についてなら、その唱い方に心がこもっているか、情感が豊かか、唱いまわしがジインと心にしみるかどうか、その物理的なよしあしでなく音楽のいわばエッセンスを、たいていの人が指摘できる筈だ。スピーカーから鳴る音に、そういう心が感じられるか、感じられないか、誰にでもわかる筈だ。ある歌手の声がそれらしく聴こえるどうか。いや、彼女の声ならもっと渋くなくてはいけない、もう少し張りがある筈だ、もっと若々しい、もっと人生の重みのある……。少なくとも鳴ってきた音にダメを出せる筈だ。くりかえして言うが、何も物理的なフィデリティが高くなくても、あるカンどころをとらえて鳴らすか鳴らさないか、という判断ができる筈だ。
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 もう二十年近くも昔、われわれの大先輩の一人である池田圭先生が、さかんに美空ひばりを聴けと言われたことがあった。
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
 そういう態度に割り切れるようになったとき、初めて、良い音に調整できる。鳴った音のダメを言えるのだから、そうならないように調整し、音を選び、自分の考える良い音を鳴らすパーツを選び抜けばよい。またパーツを作る側の人たちも、自分の得手な音楽で音決めをしてゆけば、もっと良い音の製品が作れる筈だ。いわゆる物理データにとらわれる前に、その音楽が最もそれらしく聴こえるために最小限度必要なエッセンスを、また逆に、その音楽あるいは楽器の音の魅力を生かすにはどの音を生かせばいいのか、そのカンどころを掴えられる筈だ。