1
「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」とブリア・サヴァランは言う(関根秀雄訳「美味礼賛」白水社)。こと食べものにかぎらない。およそ趣味、道楽のすべてには、必ず人柄が映し出される。ステレオ装置もまた例外ではない。あなたのステレオ装置、レコード・コレクション、そしてあなたの部屋で鳴る音、すべてがあなたを映し出す鏡だ。およそ趣味の世界ほど、人を無心の状態に没入させるものはないだろう。そういうときの人間に虚飾は通じない。趣味の世界にこそ、最もよく人柄が現われるといわれるゆえんである。
機械を通じてさえ、自分自身の裸の姿が他人の目にありありと映ってみえる。考えてみればこれはひどく怖ろしい異だ。そういう怖れを知るところから、本もののオーディオが始まる。映っている自分の姿は、他人にばかりでなく、冷静に観察すれば自分自身にもみえてくることがわかる。映った自分を観察するもう一人の自分を意識しながら、映し出された自分自身に磨きをかけさらに高い境地へ向上しようと心がける努力のくりかえしによって、趣味の世界はより高くより深いものになってゆく。努力を怠ることは停滞を意味し、停滞している状態では趣味は人を映し出さない。常に趣味に自分を映し出す努力、そして映し出された自分を恥ずかしくないように向上しようとする努力。このくりかえしがいつしかその人自身を磨きあげてゆく。昔から言われる「趣味は人を磨く」とは、こういうことを指していうのに違いない。映し出された自分を冷静にみつめながらも趣味の世界の無心に溺れきることのできる人を、人生の達人と呼んでよいのだろう。
趣味の世界とのこういうかかわりかたは、あるいは日本人だけの――それも古いタイプの日本人――独特のものかもしれない。しかしわたくし自身はこういう形で機械やレコードとの交際を深めてきたし、そういう親しみかたが、結局自分にとって楽しみを深める方向に外ならなかった。ステレオ装置というものを、わたくしは以上のように理解し、せめてレコードを聴くという行為の中でだけでも、人生の達人でありたいと願っている。
2
一人の男が車庫の中で愛車を分解掃除している。一箇所ずつ念入りに点検し、さて組み立てが完了すると、ああら不思議、一本のネジがあとに残ってしまった! いくら首をひねって考えてみても、どこのパーツのものかわからない……。古いアメリカの漫画映画に出てくるパターンだが、現実には笑って済ませられることではない。
知人のある男、工具一切を買い込んできてたった一人、整備工場の手をまったく借りずに自力で愛車を分解修理して、みごと車検をパスしてしまった。これは実話だが、ともかくこの彼、決して整備の費用を惜しんだわけではなく、自分の力でオーヴァーホールすることに、かぎりない生きがいを感じたからに外ならぬ。機械いじりのダイゴ味を知った人間の、これこそ無心の世界に没頭できる至上の趣味だ。そしてこの場合、エンジンのメカニズムの理解、自動車のメカニズムの細部に至るまでの正確な知識が必要であること、言うまでもない。文科系出の平凡なサラリーマンが、そういうメカニズムの知識をこつこつと身につけ、暇を見つけて少しずつ愛車の分解掃除を完成させた。これこそ、趣味の世界の深い喜びであろう。
わたくしの周囲には、こういう器用な男が山ほどいる。アンペックスのプロ機の、もう古くなって払い下げになった、それこそホコリと油で固まった薄汚いメカニズムとアンプを安く手に入れて、ていねいに分解して洗い、磨き、摩耗したパーツは新品と交換し調整して、半年がかりで新品同様の完動品に仕上げてしまった男。重要な部分を自分の設計した独特の回路に組み直して、高級アンプ同等の音質になったとうれしがっている男……。
こういう男たちをみていると、機械というものがどれほど男を夢中にさせ、そして人間が生み出したメカニズムというものが、交際(つきあい)かた次第でどれほど人生の喜びを深めてくれるかを知ってうれしくなるのだが、たったひとつ、彼らに共通していることは、そういう緻密で根気の要る仕事を、自分一人のためだけに大切にとっておき、そのことに費やす手間と時間の大きさをかえって喜んでいるふうにみえるということだ。これが趣味と職業を区別する本質的な違いと言える。たとえばこういう男に向かって、自分にも同じものを作ってくれと頼んだって、まず絶対に引受けてくれないし、いやいや引受けても、半年たてど一年たてど、一向にやり始める気配がない。決してナマケ者などでないことは、彼が自分のためにしたこと緻密な仕事のあとをみれば瀝然だ。自分のためにのみ、自分自身の世界を深めるために努力する、これこそ趣味である何よりの証拠だ。そして知識というものが、こういう無償の行為の中で生命を与えられるプロセスを目のあたり見ることは、たいへん感動的だ。よく巷では、自分で趣味でやっているのだがどうしてもというなら作って進ぜようなどと、立派に報酬を受取って仕事する輩があるが、まず本ものであったためしはないようだ。少しでももうけようなどという気持が働いたら、もはや趣味の世界は地に墜ちたも同然、儲けたければ堂々とプロフェッショナルの看板をかかげるべきだ。プロの世界がいかにきびしいかを思い知った上で。
*
どうも話が脱線したな。つまりオーディオの世界には機械いじりの楽しみという大きな側面があって、そのことだけでもいかに広く喜びの深いものであるかを言いたかったのだった。
ところで機械というもの、なにも分解したり組み立てたりするばかりが楽しみのすべてではない。完成したメカニズムを手に入れ、それどれだけ自在に――自分の手足のように――使いこなすかというテクニックを磨くことも、また実に楽しい。たとえば……そうだ、彼。
やっぱりオーディオ仲間だけれど、いつかうちに遊びに来た折、わたくしのコンタックスIIAに目をつけたっけ。「やあ、これだ、これこれ、懐かしいなあ、うん、このフィーリング、これだよ…」かなんか言いながら手に収まったコンタックスが、まるで生きもののように鋭敏に息づき始めたその手さばきの鮮やかさを観たとき、ああ俺にはコンタックスをいじる資格がない、と悟って、即日売りとばした。彼はずっと以前、コンタックスでプロ顔負けの写真を撮っていた。その愛器を盗まれて以来ふっと写真が嫌いになってしまったという男である。この彼など、わたくしの知る限りで最も機械をいじる手つきの鮮やかな人間で、彼がアンペックスにテープをしかけるときの見事さと行ったら、テープが生きて自分でメカのあいだをすいすいとくぐりぬけているのじゃないかと錯覚させるぐらいのものだ。自動車だって、おれは一センチ刻みで動かしてみせると豪語する男だ。まあこんなのは例外で、こういうものすごい人間をみていると生きているのが嫌になるくらいのものだが、しゃくだからせめて言わせてもらいたい。わたくしだって、ライカフレックスをいじらせたら、彼のコンタックスと対等ぐらいのガンさばきができるのだな。どこかに必ず、自分と相性のいい機械というのがあるもので、また、そういう機械にめぐり会ったときに、人はおのれの内に潜在していた能力に目覚め、趣味の世界はそのことによっていっそう深められてゆく。
精巧なメカニズムを自在に操るのは、本人ばかりでなく傍目にもそれは一種の陶酔をさそう気持のよいマジックであるのだが、機械をそのように扱うにはどうすればよいかとなると、これはもう、言葉で言いあらわせる性質のものではなさそうだ。
誰の話か忘れてしまったが、近所にとびきりうまいオムレツを食べさせるレストランがあって、それを食べたいばかりに足繁く通う。ある日ついに思いあまってコック氏に、絶対に商売に使うのでないから、このおいしいオムレツ作りのコツを教えてくれないかと頼んでみたら彼いわく、あたしゃ意地悪で言うんじゃないが、コツなんてものは口で教えられるもんじゃありません。旦那が本気なら、半年か一年、あたしと一書に働いてごらんなさい――。
コツなんていうもの、すべてこういうものらしく、たとえば宮本武蔵の「五輪書」なんかひもといてみると、二天一流の技術など微に入り細をうがち、実にやさしく書いてあるのだなァ。読みおわったとたん、自分はまさしく二刀流の極意をきわめたみたいな、ちょいいい気分になって、ものさしなんぞ刀にみたてて、えいやあ! と振ってみようとするんだが、そううまく問屋が卸さない。いくら読んでみたって、結局、技術というものは身体が憶え込まなきゃどうにもならんのです。武蔵という男、もしかしたら自分以外の誰にもできやしないことを承知であれを書いたのじゃないかと、下司の勘ぐりさえしたくなる。実際、武蔵以後、あの剣法は死に絶えてしまったのだから。
まあ各人各様、自分に合った機械にめぐり会うまで探し求め、それを一台使いつぶすぐらいいじり込んでやっと、手つきも鮮やか、なんて言われるようになるのじゃなかろうか。機械にかぎらない、ヴァイオリンだってピアノだって、技術にかぎって言えば、これは反射神経の鍛錬ですよ。
いずれにせよ、オーディオの場合にこうして機械いじりの楽しさを深めてゆくことの喜びは、ある意味で楽器を弾きこなす技術に似て、技術が技術それ自体として完結しているのではなく、その結果音質が向上し、それはまた、音楽を聴く喜びをさえ深めてゆくというところにある。いや、この言い方は逆かもしれない。良い音楽をよりよく聴きたいために音質の向上を目ざし、そのために機械を調整し機械に生命を吹きこむ努力をする、と言うべきなのだろう。ともかく、オーディオの楽しみというのは、音楽・音・メカニズムという三つ巴のバランスの上に成り立っている。
けれど、音楽・音・メカニズムの三者は、それぞれが切り離されても独自の魅力で人間の深層に働きかけるに十分な力を具えている。互いに助け合いバランスを保って共存するどころか、分裂し反撥しあう宿命を内包している。たとえば次のような形で。
3
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードののここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、
もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから――ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
しかし悲しいことに、やがて一千枚になんなんとするレコードが目の前に並ぶようになってしまうと、こういう幸せな状態は、もはや限られた少数のレコードにしか求めることができなくなってしまう。人は失ってからそのことの大切さに気がつく、とはよくぞ言ったものだ。
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こういう、やや特殊な体験は別として、音楽の好きな人であれば、必ず、口笛で吹いたりハミングしたりできる自分のレパートリーがいくつかあるものだ。さて大切なことだが、そういうよく知った音楽をレコードで聴くときと、まだ馴染みのうすい作品を聴くときとでは、同じステレオから出る音でありながら、ずいぶん違って聴こえるということに気がついたことがあるだろうか。曲を知って聴くステレオの音と、知らない曲で聴くステレオの音と――。この違いは、むろん物理的なものでなく全く心理的なものに外ならないが、しかし、聴こえる、というのは心理学の問題だ。
たとえばサン=サーンスの有名なヴァイオリン協奏曲第三番。第二楽章の終り近く、ソロ・ヴァイオリンがフラジオレットで美しい音形を描く。そのとき、オーケストラ・パートではクラリネットが全く同じ音形でそれをなぞっている――ということを知っていないと、スピーカーから出る音を初めて聴いただけでは、その構造に気づかずに過ごしてしまうかもしれない。しかし、こういうひとつの例からでも実はいろいろのことが考えられるので、スピーカーからそのパートが正しく再現されていても、曲をよく知らない人は聴き過ごすかもしれないという言い方を裏返して言うなら、針音や演奏の不備から、このパートがうまく再生されなかった場合でも、曲を知る人の頭の中では、ちゃんとクラリネットとヴァイオリンが美しいバランスを保って鳴るに違いない。実際、まぎれもなく音が聴こえるのだ。こういう場合、スピーカーから出る音は、単に一人の人間の音楽体験の上をなぞっているにすぎないかもしれない。あるいはもう一歩話を進めても、一人の人間の頭の中で鳴るメロディやハーモニーの、欠けた部分を縫い合せるためのエクスキューズにすぎないとさえ、言ってよいかもしれない。頭の中の音楽とスピーカー音楽とは、ときにこうした極端な出会いを経験させる。こういう時、頭の中のフィデリティは、スピーカーから鳴ってくる物理的なフィデリティをはるかに凌駕している。タクシーの騒音の合い間から切れぎれに聴こえてくるカー・ラジオのメロディの、欠けた部分を頭の中のメロディが補って、それぞれまったく異質のかけらどうしが見事に組み合わされると、壮大なシンフォニーの響きが頭の中をいっぱいに満たす。記憶の中で鳴り響く音は、つねに理想的な音色とバランスを保っているから、頭の中で鳴る音楽のレパートリーをいっぱい持っている人ほど、スピーカーからの現実の音にかかずらわずにいられるのかもしれない。だとすると、一にも二にも音質を、物理的なフィデリティをのみ、追い求めるオーディオ・マニアほど、頭の中にハイ・フィデリティな音楽を持ち合わさないという理屈になるのだろうか?
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たとえばスピーカーを交換する。音質は一変し、同じレコードがいままで聴いたことのなかった音色で聴こえてくることを知るのは実に新鮮なおどろきだ。次にアンプを変えてみる。すると、同じスピーカーがこんな鳴りかたもするのだったのかとびっくりするように、いままでと違うニュアンスに響く。カートリッジを変えれば、音が悪いと思い込んでいたレコードがうまいぐあいに鳴ってくれたりする。そういう魅力につられて、オーディオ道楽に深入りしてゆく。
むろんいつまでもそううまい方向にことが運ぶとはかぎらない。いくらいじってもちっとも音がよくならず、かえってだんだん悪くなってしまうような気がするときは、音楽を聴くことさえ嫌になる。そんなことでステレオ装置にふりまわされる自分が癪にさわり、気が滅入る。
それでもオーディオ道楽は直らない。なぜなのだろう。現実の音質の向上、あるいはいつかそういう音が鳴るという予感は、ちょっとやそっとのことでこの道楽をやめる気にならないくらい魅力的なものだから。だってそうだろう。うまくいったとき、現実に自分の部屋で、まるで生の演奏をほうふつさせる音が鳴り出すという体験を一度でも持てば、これはもう、深みにはまらない方がどうかしている。
しかし、生をほうふつさせるというその音の魅力――あるいは魔力――の陰に、オーディオの危険な陥し穴が無気味な口をひらいている。
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たとえばバッハの無伴奏チェロ組曲を鳴らしてみる。左右のスピーカーの中央に――優れた装置であるほど――独奏チェロがくっきりと浮かび上がる。これを「音像定位」といい、左右のスピーカーの中央に音像が形成されるなどと説明されるが、大切なことは、音そのものが両スピーカーの中間に物理的に形成されるのではなく、あくまでその「音像」は、聴き手の頭の中にでき上がった錯覚だという点である。錯覚という言葉は往々に悪い意味で使われるから、それが人間の知覚のしくみだと、と言い直す方がよいだろうか。つまり人間の知覚のそういうしくみを応用してステレオというものが成り立っている。問題は物理的な領域よりも心理的な領域あるいは観念の世界のもの、なのである。2チャンネルが4チャンネルに増えてもこの原理に変わりがあるわけはなく、そうした心理的な音像を形成する座標が拡大されるだけの話だ。4チャンネルになって、音場を含めた原音再生が可能になった、なんていう軽々しい言いかたはやめたいものだ。原音といい原音場といおうが、つまりスピーカーは空間に音波を輻射するにとどまり、原音も音場もすべてこちら側の頭の中で形成されるイリュージョンに外ならないのである。そういう意味でなら、2チャンネルにだって、やりかた次第で立派に音場を再現させることができるのだが、2チャンネルと4チャンネルの比較はこの論の目的ではないから深入りはしない。
はっきりしておきたいが、それだから音の良否などどうでもよいなどと言うつもりは毛頭ないし、ハイ・フィデリティへの努力も音場再現への努力も、それぞれに研究されるべき価値のあることだが、その結果感受される音の生々しさは、いわばシネラマなどで体験するジェットコースターの目まいの感覚と等質と言える。メカニズムを使って、画や音の原体験を再現するには、つねに誇張と省略のたくみな応用があり、それはあくまでも、スピーカーから再現される音にいっそうの生々しさを感じさせる手段としての応用であると知れば、もはやレコードの世界で物理的なハイ・フィデリティをだけを論じるのは大きな片手落ちだということに気がつくはずだ。メカニズムによる原体験の再現は、すべて人間の知覚のしくみを巧みに応用したテクニックの所産なのだ。つまりレコード音楽の生々しさとは、生らしさを感じさせるために作られた虚構の世界であり、その意味で他の多くの芸術と同じく創造の世界のものなのだ。そういう眼でレコードを眺めると、いろいろとおもしろいことに気づく。
たとえばストコフスキー。最近もっぱらロンドンのフェイズ4に登場するが、その初期の録音、チャイコフスキーの第五交響曲を初めて聴いたときは、びっくりした。われわれがよく、知っている曲を口笛で吹くとき、入り組んだハーモニーの中から主旋律を探し出しつなぎ合わせる。口笛はあるときは弦のパートを、あるときは木管のパートを、次は金管をいうように、主旋律のパートを勝手に拾いあげてなぞってゆく。ストコフスキーの音の作りかたに、これとちょうど同じやりかたを感じた。主題が次々と代りばんこに浮かんでくる。自分で勝手気ままに口笛を吹くときは、頭の中で同時にすべてのハーモニーがうまいぐあいにバランスして鳴ってくれるのだが、レコードでこれをやられると、おもしろさを通りこしていささかやりきれなくなってくる。これを聴いていると、テレビの画面でカメラがよくやるあのクローズアップ、ズームアップ、パンの技法を思い浮かべる。動きのある技法にちがいないが、やはりこれは人を辟易させる。
ちょうど対照的なのはシャルランだろう。伝えられるように人頭大のパッドの耳に相当するあたりに二個のマイクロフォンを仕掛けて、そのマイクだけで音の良くバランスする位置を徹底的に探してゆき固定する。いわば標準レンズだけの素朴な世界で、同じフランス人であるアンリ=カルチェ・ブレッソンの手法を思い起こさせる。しかし音楽の内容によっては、あまりに素朴すぎて、やっぱりやりきれなくなることが多い。
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レコードの音の採りかた――いわば写真におけるフレーミング、対象の選別――ひとつとってみても、こういう作りかたの違いがある。これは再生の場に於ても言えることで、わたくしたちはストコフスキーやシャルランが写しとったネガ(レコード)を受けとって、それを再生装置という引伸機に欠けて一枚の写真に再創造するわけだ。ここに選択行為が入り込む余地がある以上、やはり再生という行為もまた創造の行為に外ならない。もうそれだけで、これは生の演奏を感受する世界とはいかにカテゴリーの異なる別世界であるか、おわかり頂けるだろう。
くりかえして言う。生をほうふつさせる音とは、そう感じさせるための細心の操作の結果切捨てられ煮つめられた創造された音、なので、決して物理的な意味での忠実さと等質ではない。さかのぼって演奏の問題にまで言及するなら、聴衆との交流によって燃焼し高揚する生演奏と、いく度でもくりかえされ聴かれる、またそのことに耐えうるレコードの演奏とが、等質でありえようはずがない。
しかしそうして創られたレコードの音楽が、現実にスピーカーから再生されると、いかにもナマ演奏の忠実なコピーであるかのように――もちろんそう感じさせるように創られているからだが――錯覚させる結果、再生音とナマ演奏が等質であるかのような誤解が生じやすい。ここが、オーディオの第一の陥し穴と言える。そしてもうひとつの危険な罠は、さきの章でもふれたような、観念の中で鳴るフィデリティとスピーカーが鳴らすフィデリティのぶつかり合う場での矛盾。観念のフィデリティは現実の音のフィデリティを排斥し、一方、音のフィデリティは一面音楽を遠ざける作用をするというような三ツ巴の矛盾――。
しかしいかに矛盾していようが、この三ツ巴こそオーディオの趣味の本質なのだ。矛盾は矛盾のまま残し、三ツ巴の頂点でかろうじて平衡を保って立つようなギリギリの崖っ淵に自分を追い込んでみることも、またオーディオ道楽のひとつの極端な味わいかただろう。
「無想剣」ではないが、頭は音楽に没入していながら耳は音を聴き分け、その瞬間に間髪を入れず手はアンプのツマミを補整する……ひとが聞いたら何とアホらしいと言うだろうか。本人はまったくまじめである。マニアと呼ばれるのもとうぜんだ。それにしてもまったく飽きもしないで、もう二十何年来、こんなことをくりかえしている。われながらアホらしいと思うよなあ。
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オーディオとは、しかしいったい何なのだろう。音を良くする努力は、自分の音楽体験に何をもたらしたのだろうと、ときどき考え込むことがある。ずっと以前、いまからみればよほど貧弱な装置で、モノーラルをこつこつと集め、聴いていたころからくらべて、自分の中の「音楽」は果して豊かになっているのだろうか。むかしの方が、よほど音楽は自分にとって身近にあり、もっと切実だったように思われる。むかし小さなラジオで聴いたカザルス・トリオの「大公」や、ヤマハのコンサートで聴いたフルトヴェングラーの「エロイカ」や、M氏のお宅で聴いたカペエの「131」や、そしてブリヂストンの土曜コンサートで聴いた――こればかりは演奏者をどうしても思い出せないシベリウスのヴァイオリン協奏曲の、めくるめくような衝撃が、どこへ逃げて行ってしまったのか――。自分自身の環境や感受性の違いなのかあるいは年齢がそうさせるのか。もしかしたら装置そのもののせいなのか――。
しかしそういう体験を経て、わたくしはオーディオの道楽を永く続けてゆく上に、レコードを選び自分のレパートリーを充実してゆくことがどんなに大切なことかを、ぜひ強調したい。いまでも、モノーラルからステレオに移行したころステレオ・ディスクの購入資金づくりのために、モノーラルのあのすばらしい演奏の数々をうっかり手離してしまったことが口惜しまれてならない。いまにして、少しばかりの良い音を手に入れるより、優れた演奏のレコードを自分のものとしておく方が、よほど大きな(心の)財産であることを思い知らされる。
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いまでも勿論、わたくしのレコード選びの基準はまず「演奏」だ。オーディオ・マニアを自称しながら録音の良否をまったく介さずにレコードを買ってくると言うと、よくひとには不思議がられるが、ともかくわたくしは録音評の欄を絶対にといってよいほどみたことがない。レコード選びの目やすは、自分の好きな演奏家だけ。その結果、録音が良ければたまたまの見つけものと思うし、歪んでいようがレンジがせまかろうが、まあ平っちゃら、である。負け惜しみでも何でもない。録音の良いレコードが欲しければはじめからそういう買い方をするだろうから。
要するにわたくしにとってレコードとは、さきにも書いたようなナマとは別のカテゴリー、いわば別世界だから、レコードで聴いた演奏家が、実演とくらべて似ているかどうかなどという比較もしない。ナマはナマ。レコードとはまた質の違った楽しみかたがある。だからわたくしはナマの演奏会もよく聴く。むかしはナマを聴くと、反射的に、この音は我家のスピーカーではどう鳴るだろうと比較してしまったものだが、いまはそれは無関係。ナマの場合はあくまでも奏者と聴衆のあいだに気持の交流が生まれ音楽が形づくられてゆくそのプロセスを楽しむ。
レコードの場合、録音がたとえ悪かろうが、それを音楽として楽しませてくれるような音になるよう、再生装置を調整するというのがわたくしのやりかただ。録音の悪いレコードに対して、どう調整してもそのアラをかえって悪い方向に強調してしまうようなタイプのオーディオ・パーツは、従ってわたくしの基準によれば好ましくないパーツだということになる。実際、永いあいだ実に多くのオーディオ・パーツを見、聴きしてきたが、良い製品は必ず、どんな録音からでもそれなりの美しい音を抽き出してくれるものだと断言できる。抽き出す努力はこちら側の責任だけれど。
良い音は、良い装置とは、わたくしの定義によれば以上のようなものだ。そういう音に仕上げたとき、あなたの装置はあなたの全人格を、感受性を、センスを、知識を、すべて映し出す。良い音とはつまりあなた自身の人柄の反映だ。