1
オゾンをたっぷり含んだ高原の香わしい涼風がスピーカーから吹き抜けてくるような、清々しく爽やかな音を聴きたいとこのごろ思うのは、秋という季節のせいだろうか。
オーケストラの厚い襞の合い間に一瞬キラリと輝くフルートの銀色。霞のようにたなびき漂う弦合奏のオーヴァートーン……。しなやかに表象豊かに、めくるめくような明晰な音。重工でありながら贅肉のない、渋く控えめでありながら鈍さのない、くっきりと鮮明で明るく、しかも柔らかくなめらかな――。そんな音は現実にはありえないのかも知れず、そんな音を、しかしあるとき確かにこの耳に聴いたように思い、いつか必ず聴けると信じて、つい深入りしてしまう。
いくら豊かでも大柄でグラマーな音は嫌いだ。おしつけがましい迫力などまっぴらだ。ぼってりと鈍い音が嫌いだ。悠々とした底力を秘めながらひっそりとさりげなく、一点の曇りもない澄み切った音が欲しい。鳴り止んだ後の静寂にかえっていっそう、鳴っていた音の良さを印象づけられるような音。とらえようとした瞬間にひらりと身をかわす軽やかさでありながら、去った後にくっきりと印象を残すような、そんな音でなくては、モーツァルトのアレグロを、tristesse
allante を、再現できる筈がない。やはりそれは、秋、の感じなのである。
2
スピーカーを、カートリッジを、アンプを変え、その組み合わせを変えて聴くたびに音質は変わり、あるものは豊かに、あるものは鮮明に、あるいは柔らかに、同じ一枚のレコードがそれはさまざまな音色を響かせる。求める音は切れぎれに姿を垣間見せるのに、決して一度にその全貌をみせてはくれない。しかもスピーカーから出てくる現実の音は、あとひと息でそれに手が届くのではないかと錯覚させるようなリアリティがあるものだから、知らず知らずのうちに、つい深追いしてしまう。
そんなことのくりかえしで、いつのまにか二十年あまりもこの道に遊んでいる自分にふと気がついて、よく飽きもせずにと半ばあきれたりしてみるが、そういう自分をふりかえってみると、求める音の理想像は、時とともに少しずつ変容し、成長しているように思われる。しかしまた一方、自分の好きな音質というのは本質的なところでは意外なほど変化しないらしいと気づいて、おどろくこともある。自分の好きな音、というよりも、決して受けつけない、嫌いな音の種類の音というのが、昔からほとんど変っていないのだ。大柄で鈍い音、格調のない軽薄な音、騒々しい音、押しつけがましい音……。そういう種類の音には我慢がならない。どちらかと言えば、豊かさが欠けても、スケールの大きさを犠牲にしても、贅肉のない、シャープで、表象豊かで、柔らかく爽やかな、むしろ神経質なほど潔癖な音を求める。
従って、ときには病的とも思えるほどバランスのくずれた音が我家で鳴っている時期があるとしても、その中に、わたくしが求める音のいちばん大切な片鱗でもあれば、そしてわたくしの最も嫌う性質の音が入り込んでさえいなければ、そういう音でも割合平気で聴いていたりする。というよりも、たとえ少しぐらいバランスのくずれた音であっても、その中に好ましい音の成分があるかぎり、しぜんに耳の方で取捨選択を行なうような、いわば、耳――というより頭――の中に、一種イクォライザーを反射的にこしらえてしまう習慣が、いつのまにか身についてしまったらしい。このイクォライザーが働いているかぎり、たとえ傍目にはひどい音でも、自分にとっては結構な音に聴こえるものだから、実に便利なものだ。
オーディオ・ファンの誰もが、意識するとしないとを問わず、このイクォライザー――頭の中の補整作用(心の耳、と言いかえてもよい)――のおかげで、それぞれに自分の装置の音に、結構満足できるのである。そしてこのイクォライザーが次第に動作しなくなってくる状態を、耳が肥えた、とか、いままでの音に飽きた、とか、もっと欲が出た、などと呼んでいるわけだ。誰の頭(心)の中のイクォライザーも、その働きが鈍り、いつか動作を止めるのはいずれ時間の問題なのだが、わたくし自身に関していえば、どうやら三年ぐらいの周期でバイオリズムのようなものがあるらしく、ことオーディオにかぎらず、仕事でもその他の趣味でも、ふりかえってみて約三年単位の大きな波がある。この前の波の最も高かったのが一九六六年から一九六七年にかけてであって、六八・六九・七〇年とやや下降線をたどってきた。そして近ごろ、再び熱が高くなってきたのだが、この時期は、われながら精神状態がひどく不安定になり、何をやりだすか見当がつかなくなる。そして熱が下がるまでは、パーツをとりかえひきかえの遍歴をくりかえすのである。
3
ヨーロッパは堕落した、と、この数年来、いつのまにかそう思いこんでいた。たとえばQUAD(クォード)のアンプである。トランジスター化されたクォードにもそれなりの味があるとはいうものの、あの特徴のある丸みをおびた外観のコントロール・アンプと、KT66のパワー・アンプにこそ、クォードの本領がある。
ガラードのターンテーブルがそうだ。あの401やSL95以降の、クロームメッキの安っぽくピカピカ光った品のない造りはどうだ。301のアイボリー色のダイカスト・ベースと、有機的なツマミの温かい感触は、まもなく語り草になってしまうのだろうか。
グッドマンのアキシオム22の、朱色に塗った外磁型のマグネットの見事さといったら、いまのあの、フェライト磁石と教養のないバカでかいネームプレートとくらべるのももったいないほど、まるで別もの、といった出来ぐあいだった。
トーレンスの124は――。
こんな調子でいちいち書いていったらキリがないが、要するにそういう形で、ヨーロッパの優れたオーディオ・パーツが、ひとつ、またひとつとモデルチェンジするたびに、愛好家を落胆させた。オーディオ・パーツばかりでなく、あらゆる工業製品から、かつてのあの、欧州製品独特の頑固で保守的でそして人間味のあふれた温かい感触が、つるべ落しの早さで失われてしまった。確かに、そう思わざるをえない時期があった。むろんいまでも、全体としてはそうだ。
見かけの上ではまさにそうだとしても、歴史の上に培われてきた伝統的な心や感覚は、そういう外見の急激な変化ほどには変らないものではないか、と考え直すようになったのは極最近のことだ。それも、とくに欧州スピーカーの音をいくつか聴き直す機会があってことである。
たとえば十六号(註・季刊「ステレオサウンド」No.16)のブックシェルフ・スピーカーのテストで、わたくしの印象に深く残ったスピーカーに、オランダ・フィリップスのRH493とアメリカ・ダイナコのA―25がある。多少の不満もあるがB&WのDM―3の名もあげようか。これらに、以前から聴き馴染んでいたセレッションのDitton
15 とタンノイのIIILZ/IIを加えれば、わたくし自身の好みが結局欧州系の音を志向していることは明らかになる。
そういうわたくしが、ここ数年来、アメリカのスピーカー(JBL)をメインに使い、いつのまにかアメリカの音に馴染んでしまっていた。自分の好みが次第に変ってきたような気もしていたし、頭の中のイクォライザーもうまく動作していた。現実に、ほかで聴くJBLの音は我家の音とは全然別もので、友人たちはお前のJBLだけがJBLらしくないのだと言うが、わたくし自身は、以前最もつきあいの長かったイギリス・グッドマンAXIOM80時代の音が、そのあとのジョーダン・ワッツの音の、そして自己流に鳴らそうと失敗したタンノイ・モニター15の音のそれは延長だと、ほとんど抵抗なく信じていた。
先日、内外のスピーカーを数十機種まとめて聴くテストに参加した際、たったひとつだけ、おそろしく澄んだ、涼しいほどに透明な高音を再生するスピーカーがあった。弱々しくどこか腺病質的なか細い音なのに、中域から高域にかけての格調の高い美しさに、永いあいだ忘れていたAXIOM80の音の美しさと同質の鉱脈を見つけ出した。それがフィリップスで、テストが終るのを待ちかねて、一も二もなく買い込んでしまった。
我家で鳴らしてみると、聴き込んでゆくにつれて、前記の判断があやまりでなかったばかりか、一見不足ぎみの低音も、トーンコントロールなどでバランスをとり直してみると、か細いくせに人の声など実に温かく血が通って、オーケストラも柔らかく広がって、ややおさえかげんの音量で鳴らすかぎり、音質について吟味しようなどという態度も忘れて、ただぽかんと音楽に聴きほれてしまえる安心感がある。
むろんそれは、大型スピーカーのいかにもゆったりと鷹揚に鳴るゆとりとは全然別質の、いわば精巧なミニアチュールを眺めるような楽しさで、もともと一台二万円の、つまり欧州で買えば一万円そこそこのローコストのスピーカーに、大型の同質の音など、はじめから望んではいない。けれど、大型で忘れていたかげろうのようなはかないほどの繊細さに、大型への反動もあって、いっときのあいだ、われを忘れて他愛もなく聴き惚れてしまったという次第なのだ。
フィリップスを聴いてまもないころ、イギリス・ヴァイタボックスのTクリプシュホーンUCN191システムを聴く機会を得た。タンノイ・オートグラフを枯淡の味とすれば、これはもう少し脂の乗った音だ。脆弱さのみじんもない、すわりの良い低音の上に、豊かに艶めいた中高域がぴたり収まっている。あえて言えば、たいそう色っぽい。中年の色気を感じさせる音だ。人を溺れさせるシレネエの声音だ。広いリスニングルームが欲しいなあと、つくづく思う。
今回、ブックシェルフから大型スピーカーまでを同じ部屋に集めて同一条件で鳴らすという前例のない実験に参加してみて、前記の各スピーカーに加えて、ディットン25やタンノイのレクタンギュラー・ヨーク、ヴァイタボックスのバイトーン・メイジュアに、何か共通の鍵のようなものを見出したように思った。
音色の上ではむろん、ひとつひとつみた違うのに、たとえばレクタンギュラー・ヨークはまるでディットン15の延長にあるような、あるいはディットン25はフィリップスの延長にあるような錯覚をおぼえさせるほど、音楽の表現に共通の何かがある。そのことに思い当たったとき、音楽の伝統と音への感性という点で、ヨーロッパの良識に裏打ちされた音の美感というものが、少しも衰えていないことに気づいた。
セレッションやタンノイやヴァイタボックスの、さらにQUADのエレクトロスタティックの、それともうひとつ、今回改めて聴く機会のあったKEFのBBCモニター(LS5/1A)の、イギリスの音。そしてダイナコのデンマーク、フィリップスのオランダと、それぞれにニュアンスを異にしながら、それらを包括して欧州系のスピーカーには、何かわたくしを惹きつける魅力がある。
しかしまた、人によっては、アメリカのスピーカーには欧州系のスピーカーからは絶対に聴けない音があると言うだろう。そして、日本のスピーカーの中にも、希望の持てる製品が少しずつ現われてきた。日本のオーケストラが、日本の楽器が、欧米のそれにはない味を持っているといわれるように、日本のスピーカーには、欧米のスピーカーでは出ない音色というものがあってしかるべきだ。
さまざまな音色を求めてスピーカーを聴く。それらのスピーカーを、最も良い音で鳴らすアンプを、カートリッジを探して組み合わせをいろいろ考える。これがコンポーネントの楽しみの最も大きな部分だ。
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しかし音を変えたり聴きくらべたりといった、そんな単調な遊びだけがオーディオの楽しみなのではない。そんな底の浅い遊戯に、わたくしたちの先輩や友人たちが、いい年令をしながら何年も何十年も打ち込むわけがない。
大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオの楽しさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは、自分の探し求める理想の音を鳴らしてくれる素材として、スピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為と言えるのではないか。
ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、創造、と言うからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこう言える。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
これはフローベルの有名な言葉だが、この中の「言葉」「動詞」「形容詞」という部分を、パーツ、組み合わせ、使いこなし、とあてはめてみれば、これは立派にオーディオの本質を言いあらわす言葉になる。
さてそこで「使いこなし」というのが重要な鍵になる。たとえ他人と同じパーツ、同じスピーカーを手に入れても、それは絶対に他人と同じ音で鳴ることはありえないという意識を捨ててはならない。その人にはその人の大切なレコード(音楽)があり、その人の暮らし方がある。プログラムソースや装置の置き方が違えばそれだけで他人とは同じ音は出ない。さらにその人の音量があり、その人のトーンコントロールがある。スピーカーのレベルセットがある。こういうテクニックが、テクニックとして意識されないほど一人の人間の裡で消化されたとき、まさに「音は人」になるのだ。この世にふたつと同じもののない、彼自身の音、になるのだ。選ばれた素材が、その人独特の文体で鳴り響くようになるまで、使いこなしを研究すべきなのだ。それはその人だけの世界、いわば小宇宙を創造したことになる、と言っては大げさであろうか。