この本の著者、瀬川冬樹さんは、半月ほど前の、十一月七日(一九八一年)に、出版をみることなく、他界されてしまった。S状結腸ガンおよび肝臓ガンというのが、その病名である。一年ちょっと前の、一九八〇年初秋に、身体の不調をうったえられ、オーディオフェアが終わった直後に、東京・九段坂病院で診断を受け、ただちに手術の必要があると告げられたのだった。そして十一月末に、瀬川さんの私的な事情があって、熊本大学医学部附属病院に入院、十二月半ばに手術を受けられたのである。
 その夜、東京の私のところへ、熊本の病院から電話があった。九時間近い手術で、結腸のほうのガンはすべて切除したが、すでに肝臓に転移があり、のこされた生命はあと一年と予想される――という知らせである。
 年が明けた八一年一月中旬、瀬川さんは退院された。そしてしばらく静養したあと、二月に帰京されたのである。「ポリープ(と本人には知らされていた)をすべて取っちゃったから、あとは身体の回復をまつばかりだよ」と、瀬川さんは嬉しそうだった。身体の調子も、たしかに入院前よりは、よほどよくなっているようだった。「顔色がいいだろう、それにむやみやたらにハラがへってね」と、あの店へいこう、この店にもいこうと、さかんに食べ物の話をつづけるのだった。
 五月ごろに再入院になるかもしれない、と医師からひそかにきかされていた。その五月も、無事にすぎた。しかし、六月中旬ごろから、瀬川さんは再び不調をうったえることが多くなった。七月に入ると、その肉体は、さらに弱まっていった。そして八月六日、ついに瀬川さんは倒れ、翌七日、九段坂病院へ再入院されたのである。
 それからちょうど三カ月後の、十一月七日午前八時三十四分に、瀬川さんは、死んだ。肝臓出血による、ほとんど一瞬の死だった。身近な人間は、だれひとり、そのさいごに、間に合わなかった。享年四十六歳である。
 四十六歳の死を、夭逝というわけにはいかないだろうが、しかし、あまりにも早い死だった、という想いはぬぐいきれない。悲しい、というよりも、残念さが、つのる。
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 この本は、雑誌『FMfan』一九七七年第一号から、一九八一年第九号まで連載された、「オーディオあとらんだむ」(オーディオ機器の系譜)を、加筆訂正してまとめたものである。いいかえると、その仕事のほとんどは、手術後に行なわれたものであり、一部は、再入院後の病床で手がけられている。そして、「カートリッジ編」「アーム、ターンテーブル編」まですすみながら、「アンプリファイアー編」および「スピーカー編」では、部分的な加筆訂正で、その死によって中断されてしまったのである。
 瀬川さんの死のあと、病室の遺品のなかから、私あての一巻のカセットテープが、みつかった。この仕事を、ごく個人的なかたちではあるけれど、お手伝いしていた私に、回復したらつぎの項目を加筆したい、という瀬川さんの、声による短かいメモである。瀬川さんは、こう語っている。
〈アンプ編へは、つぎのようなことを追加したい。まず系譜15では、マランツ7との出会い、および、JBLアンプとの出会い。それから系譜17では、レシーバーおよびカシーバー(カセット・レシーバー)、ことに後者についてはその後、大きく情勢が変化しているので、この部分はとくに検討を加えたい。系譜18では、マーク・レヴィンソンとの出会い、さらに、SAE/マーク2500との出会い。系譜19では、国産のアンプについて、この項では具体的な製品についてもう少し細かくふれる必要があるように思う。とりあえず気づいたことは以上です〉。
 この声は、また、私にとっても、瀬川さんのさいごのメモワール、となってしまった。ちなみにいえば、瀬川さんは、さいごまでガンだと知らなかった。年末まで入院して、新春には健康を回復する、と信じていた。
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 瀬川さんの荼毘は、十一月九日に取り行なわれた。のこされた白骨を、菅野沖彦さんと共箸でひろったとき、虚しさがこみあげてきた。棺には、生前、瀬川さんが愛用された万年筆や原稿用紙、カートリッジなどのほかに、愛飲されていたバランタインとインバーハウスのミニュチュアびんが、しのばせてあった。むろん、すべては灰となっていた。
 そういえば、瀬川さんとのお付き合いは、いつもボトルとグラスが仲間入りしていたように思う。いっしょに、よく酒をのんだ。瀬川さんは、いわゆるのんべえではなかったけれど、酒を愛していた。瀬川さんの死のあと、酒をのむたびに、なぜかむかし愛読した、中世ペルシャの詩人オマル・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』を思いだす。そのなかのひとつを、瀬川さんの思い出に捧げよう。
〈酒のもう、天日はわれらを滅ぼす
君やわれの魂を奪う
草の上に坐って、耀く酒をのもう
どうせ土になったら、あまたの草が生える〉
(岩波文庫・小川亮作訳)
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 この本が単行本としてまとめられるはこびとなったのは、共同通信社出版局長 中島義治氏、酣燈社社長 中野雄氏(中野さんはまた、トリオ株式会社の常務でもあられる)、およびトリオ広報宝 飯室種夫氏の故人によせるご厚意・ご友情があってのことだ。私からも厚く御礼申し上げたいと思う。

一九八一年十一月二十五日

坂東 清三