エリーザベト・シュヴァルツコップのレコードは、それ以前にも聴いていた。リヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』やその他の代表的なレコードを聴いても、いつも途中で息がつまりそうになる。いくらグールドが、バーブラ・ストライザンドとともに大きな喜びを与えてくれた声楽家、演奏芸術を内側からこれほど深く考えさせてくれた声楽家は他にはいないといっても、どうしても呼吸があわない、うまく彼女の歌にシンクロできない。
 それでもグールドの言葉を信じて、もしかするとという期待を込めて、彼女のレコードがCD化されれば即買い求めていた。このモーツァルトのアリア集もそうした一枚。
 なにげなくかけたこのCDの1曲目 “Chユio mi scordi di te?” の美しさに――、その純粋な美しさに涙が出た。不思議なことに、いままで感じていたよそよそしさや息苦しさがまったくない。自然に心地よく音楽、彼女の声が耳にはいってくる。そして、繰り返しになるが、ほんとうに美しい。
 よく、この世のものとは思えぬ美しさと表現するが、シュヴァルツコップのこの美しさは、そうではない。現実的な美しさ、リアルな美しさである。真の純粋性がある。
 大人になればなるほど純粋さが失われるような言い方が一般的だが、はたしてそうだろうか。純粋さの代表選手として取り上げられる幼児。けれど彼らはほんとうに純粋なのか。
 真の純粋さは、年齢とともにさまざまな経験を経たうえではじめて得られるものであるような気がする。人間の美しい面や醜い面に触れ、いろいろなしがらみの中で生きていく。ときには法にふれないまでも、ひどく後悔するようなことを犯すこともあるだろう。なにひとつ悪いことはしてこなかった、と言い切れる人が何人いるか。もしそういう人がいたとしても、ただその人は自分がしてきたことを認識できなかっただけかもしれない。自分がこれまで何を行ってきたのかを正確に認識し、すべてを飲みこみ、それを消化するだけの大きさとつよさがなければ、純粋さを得ることは無理なのではなかろうか。
 0(ゼロ)と∞(無限大)。このふたつは本来同じものでは、と思う。例えばパルス波。時間軸を限りなく0に近づけるほど、そのパルス波より広い周波数まで含む。ノイズにしてもそう。狭い帯域のノイズほどうるさい。帯域が広がるほどに、静かになってくる。
 五味康祐氏は、無音はすべての音を含んでいる、と言われた。おそらく真理だろう。そして、純粋なるものは、すべての事柄を含んでいるとも言えるはず。また純粋さとは、歳とともに失っていくものではなく、歳とともに形成されていくものであるはずだ。

(1993夏 掲載誌・サウンドステージ)