グールドの死とCDの登場…… いまコンピューターとオーディオの融合を迎えて ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい。

 グレン・グールドをどう聴くか。スタジオ的な至近距離で聴きたい人もいれば、それこそデジタルディレイやサブスピーカーを使ってウィーンのムジークフェラインザールの特等席で聴くような雰囲気で、という人もいるはず。コンサートをドロップアウトしたグールドをホールで聴くなんて、とは言いたくない。音楽のキット化(素材化)を唱え、「レコーティング・スタジオで行われた仕事はその創作品がプレスされ、工場から出荷された時点で終わるとは限らない。いや、それどころか、それ以降にこそ、まるでどうなるか考えも及ばない結果を生み、どこまで広がるかわからぬほど分岐していく」と語ったグールドだから、どんな聴き方でも容認するだろう。
 リスナーとしてグールドは、どういう存在だったのか。「レコーディングされたものの、ほんとうに大切なことは何かと聞かれれば(これは、単に時々レコード作りに参加している者としてだけでなく、レコードをしょっちゅう聴いている者として言っているのですが)聴き手を音楽に、あるいは音楽以外のものかもしれないけど、とにかくその録音したものに没頭させる、しかも外部からのレコーディングに関するさまざまなデータ、つまり参考資料、準備、演奏、ミキシング等のすべてを聴き手の意識から取り除いて、没頭させるというユニークな能力だと答えます」。さらに最初に引用した言葉の後に「そしていつかは、その結果によって養われた観念が、つまり創造的な聴き手の世界における観念が、それ自身の生命を持って『思いやり深い』ブーメランのようにぼくたちのところに戻り、おそらくはぼくたちを育み、そしてインスピレーションを与えてくれるであろう可能性を提供する、これがぼくの言う、新しいつながりなのです」と続けている。
 レコード製作サイドとの新しいつながりをつくりだし、「ユニークな洞察に満ちあふれている反応をする」創造的な聴き手、つまりグレン・グールド的リスナーに要求されるもの、そして必要なものは何だろうか。
 ピアニスト、グレン・グールドに必要だったのは、「これはコンピューターにまさるとも劣らぬエレクトロニック・マシーンだ。ぼくはチップ一枚はずんでやればいい」ピアノ――、ハイドンの後期ソナタやゴールドベルグ変奏曲(新録音)に使われた中古のヤマハCFIIである。
「わたしが目指したのはまず劇的な錯覚ということであった。わたしはもっとも初歩的なテクノロジーに、存在しないものの存在を示唆する力になるように要求していた。アーティストとして弾くというわたし自身の行為はもはやそこにある音楽づくりのプロジェクトの究極の目的ではなかったし、既成事実でもなかった。テクノロジーが、実現のための試みと実現の間に座を占めていた。神学者ジャン・ル・モワーヌを引用するなら、『機械の慈悲』が『自然のもろさと理想化された完成像』の間に介在していた。『おどろくべき明晰さ、とてつもないピアノで弾いたに違いない』と友人たちは言うだろう。『信じてよ、きみが想像できないだけだ。』わたしはそう答えるだろう。わたしはテクノロジーの第一課を学んだのだった。わたしは、いわば創造のための不誠実を身につけたのだった」。ここでグールドが語っているテクノロジーの第一課は、1950年12月に、カナダ放送協会(CBC)のラジオ・スタジオで録音したモーツァルトのアセテート盤を、100Hzから下をカットし5kHzあたりを強調することで、「陰気で、ぶざまで、低音の勝ったスタジオのピアノ」の音を、彼の友人たちが驚くような音に変化させたことから始まる。つまり再生装置のトーンコントロールで「音の倒錯行為」を行ったわけだ。
 1950年代の再生装置は、オーディオというよりも電蓄といった方が適切なもの。当然モノーラルだし、性能的にも機能的にも貧弱なものだった。グールドが当時使用した装置も同じようなものだろう。それでも、ポイントを的確に抑えることで、かなりの変化を可能としている。ステレオになり、トーンコントロールにしても、より細かい調整ができるパラメトリックイコライザーが簡単に入手できる現在は、さしずめテクノロジーの第二課といえるだろう。けれども、第一課と第二課に大きなさはないともいえる。第一課から第二課へは、クォリティのステップであり、創造的なリスナー、レコード制作サイドとインタラクティブな関係(新しいつながり)を作り出せるリスナーを生みだすには、次のステップ、テクノロジーの第三課といえる環境が必要となるはず。
 真のデジタルオーディオこそ、テクノロジーの第三課といえる。1982年10月、グールドの死と同時期に登場したCDでスタート地点にたったデジタルオーディオ。いまはまだプログラムソースにCDやDATなどのプログラムソースが加わっただけにとどまっているが、コンピューターとオーディオが融合し、アナログテクノロジーだけでは達成できなかった種々のコントロールが可能となる『第三課』、その環境が整うのもそう遠くない。
 例えばグールドが述べている、レコーディングに関するデータ(演奏者の名前をはじめ、すべての項目)を隠して、リスナーに純粋な音楽情報だけを提供する手段として理想的なのは、近い将来に実現するであろう大規模なコンピューター・ネットワークだろう。すべての信号がデジタルでおくられ、相互通話が可能なこのネットワークが完成すれば、創造的な聴き手は、匿名の音楽情報を好きな時に入手でき、そして『思いやり深い』ブーメランをいつでも、いろぽなかたちで作り手に送り返すことができる。その演奏に対する感想――、それも文章によるものだけでなく、ヴィジュアルとして表現し、それを作り手サイドに送り返す人もいれば、提供された音楽データを再加工する人など、さまざまな可能性が考えられ、実現できるようになる。つまり「創造的な聴き手の世界における観念」が観念の域に留まらず、現実のかたちをもつ。
 過度の感染恐怖症で、古雑誌も病人が触れた可能性があるからと避けていたグールドにとって、コンピューターを介してのコミュニケーションは、電話以上に理想的な手段のはず。そして外在化した頭脳であり、さまざまな可能性を生み出せるスタジオ的側面を持つコンピューター、ある意味でひどく隔離された世界でありながら、世界中どことでもつながっているコンピューター、音声だけでなく、静止画、動画などあらゆる情報を高いクォリティで伝送できるコンピューター・ネットワークに、グールドは、きっとつよい関心を持ったはず。もしいまも生きていたら、コンピューターの前で多くの時間を過ごしているに違いない。 『大いなる距離の人』グレン・グールド(ミシェル・シュネーデル『グレン・グールド 孤独のアリア』より)は、レコードをとおすことで、身近な存在でもあった。コンピューターは大いなる距離を保ちながら、グールドとリスナーを限りなく接近させるパーソナルメディアである。そしてレコーディングだけでなく、ラジオやテレビにも興味を示し、いくつもの番組を制作してきたグールドは、マスメディアをうまく利用した、パーソナルメディアの体現者ではなかろうか。
 オーディオとコンピューター間のインターフェースとなるものの中で、個人的に注目しているのが、最近話題になっているカオス理論とフラクタル思想。規則性と柔軟性を兼ね備えるカオスと、複雑なものは単純な要素に分解されるという従来の要素還元主義(つまり音楽信号をサイン波の集合体として捉える現在のデジタル変換)ではなく、より高いレベルでの要素還元主義としてのフラクタルとコンピューターが音楽と結びついたとき、モノーラル信号からステレオ信号が生み出されるだろうし、ほんとうの意味での音質補整が可能になるはず。音楽信号からフラクタル成分を抽出し、そのフラクタル成分による補整を繰り返すことで、録音時に失われた情報が作り出されるだろう。
 いまカオスはいろいろな分野で研究が進められている。医学の分野からは、人間の体はカオスに満ちているという発表もなされている。健康な人の心臓からはカオス成分が多く検出され、不健康な人の心臓の鼓動ほど、規則的になるという。もし、音のカオスが検出でき、それをヴィジュアル化できれば、音を視覚的に表現できるようになる。おそらく、いい音ほどカオス成分が満ち溢れていることだろうし、悪い音になればなるほど、カオス成分がなくなり規則正しくなるはず。さらにカオスのパターンを分析することで、暖かい音のカオス・パターンや柔らかい音のカオス・パターンというものまで発見でき、いままで曖昧でコンセンサスが得られてなかった音の表現に、大きな変化をもたらすだろう。もしそうなれば測定方法も大きく変化し、聴感との結びつきも解明されるに違いない。
 そんなことは素人の戯言だという人もいるだろうし、コンピューターが音楽信号をいじることを、芸術に対する冒とくだと頭から拒否する人も多いだろう。当然だろう、いまここで述べたことはテクノロジーの、芸術への侵略なのだから。
 グールドは「テクノロジーの『侵略』」を信頼していた。「なぜなら、本質的にそうした侵略は、芸術そのものの観念を超える倫理の観念を芸術に負わせる」からである。デジタル・テクノロジーの侵略、大いに歓迎したい。
 グールドはエードリアン・ボールトの、スプライシング(テープつなぎ)に対する古典的な考えやレコーディング・テクノロジーへの不信感を、世代的ギャップの例としてあげたあとで、「地理的ギャップというものもある。東へ行くほど、レコードは録音によるコンサート効果をねらっていることがわかる。もちろんさらに遠く日本にでも行けば、西欧化されたコンサート・ホールの伝統による禁忌などはとりたててないから、レコーディングはレコーディング独特の音楽経験として理解されている」と述べている。グールドの全CDが手に入り、多くの関連書籍が読めるその日本から、グレン・グールド的リスナー(インタラクティブで創造的な聴き手)が出てきても不思議ではない。
「芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている」。

 グレン・グールド的リスナーになれるかどうかはともかくとして、グールドが言うところの、『怒りっぽい純粋主義者』にだけはなりたくない。

参考文献 グレン・グールド大研究(春秋社) グレン・グールド著作集(みすず書房)

(1993年夏 掲載誌・サウンドステージ)