ベームを考えるのであったら、まずリヒャルト・シュトラウスの作品で考えたいと思う。フルトヴェングラーであったらワーグナー、トスカニーニであったらヴェルディ、そしてワルターであったらマーラーということになる。なにもベームをリヒャルト・シュトラウスの作品に限定して考える、ということではない。ベームのシュトラウスは、いつでもたいてい大変に素晴らしいけれど、彼をシュトラウスのスペシャリストと決めてかかるつもりはない。しかしながら、ものごとにはいわゆるほんすじといわれるものがある。ベームを考えるにあたってのシュトラウスは、そのほんすじではないかと思う。
少し前に読んだ、指揮者の仕事について考えるにも、またベームという指揮者について考えるにも示唆にとんだ書物〈回想のロンド〉(カール・ベーム著 高辻和義訳 白水仕刊)のことがふと頭をかすめた。その本とフルトヴェングラーの、おおむね哲学的思索の所産であるところの著作が、あたかも対比されるがごとくに、思いだされたということもある。――とはいってもベームをフルトヴェングラーと対比させて考えようとしているのではない。〈回想のロンド〉の著者(ハンス・ヴァイゲルという編者がいるので語り手というべきか)の手になるオペラの全曲レコードの中では、〈トリスタン〉よりも〈アリアドネ〉や〈エレクトラ〉、あるいは〈サロメ〉の方がすぐれていると思う。ベームの手になる〈パルジファル〉も〈マイスタージンガー〉もないが、一方のリヒャルト・シュトラウスには思いだすままに記しても〈サロメ〉、〈エレクトラ〉、〈ばらの騎士〉、〈アリアドネ〉が録音の時期を違えた二組、〈影なき女〉、〈ダフネ〉とあり、さらに〈カプリチョ〉もある。フルトヴェングラーはどうか。フルトヴェングラーには〈トリスタン〉や〈ワルキューレ〉の素晴らしいレコードがある。しかしフルトヴェングラーには、シュトラウスの楽劇のレコードがない。むろんフルトヴェングラーがその演奏をLPレコードに収めえた時期が、リヒャルト・シュトラウスの楽劇を取りあげにくい時期だったということは考えに入れないといけないであろう。にもかかわらず、そのことがひとつの暗示として考えられる。
最近は指揮者の仕事を手仕事と考えるようにつとめている。それは指揮者を評価する際に使われる解釈とか、精神性とかいった言葉の心もとなさに反撥する気持があるからである。心もとなさに気づきながら、そういう言葉によりかかって音楽をきくのはひどく不健康なことにちがいない。これは決して否定的な意味でいうのではないが、〈回想のロンド〉には哲学者の思索的回想というより、職人の回顧談の気配が濃い。だからといって、ベームをおとしめることにも軽んじることにもならない。哲学者の思索がつねに精神的であるとはかぎらず、職人の手仕事が結果として高い精神性を獲得することだってある。
その辺を取り違えると、カール・ベームという指揮者をあやまって受けとることになる。オペラの指揮をするというのは、一般に考えられている以上に複雑で大変な、つまり職人わざを必要とする仕事である。であるからといって、うまくまとめられた演奏だけを評価するというのではないが、しかしその最低条件を充たすだけだって、並大抵のことではないということは、やはり認めねばなるまい。しかもシュトラウスの作品のように、本当に技術の粋を凝らしたものではなおのことである。
かつてウィーン・フィルハーモニーを指揮したベームの演奏で、ウェーベルン、ベルク、シェーンベルクの作品をきいたことがある。それを俗にいわれる精神的な演奏とは思わなかった。そのときにリヒャルト・シュトラウスを指揮するベームの一面を理解したのかもしれなかった。ひいてはベームの音楽へのかかわり方も、そこではじめて知ったようであった。
そこで、ベームのリハーサル・レコードのことを思いだした。〈トリスタン〉のリハーサルでもシューベルトのハ長調のシンフォニーのリハーサルでも、ベームは、ぶつぶつ小言をいいつづけていた。それは彫刻家がヤスリでごしごし金属をみがく営みの執拗さに似ていなくもなかった。そのことと、ベームの演奏にきかれる音の独特の実在感とは、おそらく無関係ではありえない。
そういったことを基盤にしてのベームのオペラである。ベームにとってのオペラはついに理念のドラマではありえない。たとえ〈フィデリオ〉であろうと、ことはかわらない。オペラを理念のドラマとしてつかまえるには、ベームはあまりにも音楽的現実主義者なのではないか。くりかえすが、演奏された結果が理念のドラマになりえているかどうか、それはまた別の問題である。
ハンブルクで録音された〈サロメ〉とミュンヘンで録音された〈アリアドネ〉とは、ベームのシュトラウスを支える二本の柱である。〈サロメ〉でのベームが、その〈ヴォツェック〉や〈ルル〉においてより強烈に感じとれる熱っぽさを暗示し、〈アリアドネ〉でのベームが〈ポストホルン〉や〈十三管楽器〉の、緊張を保持した精緻さを暗示しているといった程度のことでだが、そのことに気づくことはオペラのベームをたぐりよせる際の有効な綱たりうる。それはそのままベームのオペラをたのしむための手がかりにもなる。
しかしながら、ききては、ベームがもっともむきになっているような部分、つまり手仕事の部分をとかくおろそかにしがちである。演奏者がむきになっている部分に、ききてもむきにならねばならないということはない。ききてに無責任がゆるされるということではなく、ききたいようにきけばいい。としてもそのきいている音楽がいかようにつくられているかは、それをいかに重んじるかは別にして、そのことに思いをめぐらすべきかもしれない。そのことが、ひいてはベームの演奏により確実に足を踏み入れるためのワン・ステップたりうる。
オーケストラ・ピットのベームは、直接粘土に手をふれることのできない、しかもその粘土をいじりまわさざるをえない男のようである。そのときのベームの心をいっぱいにしているのは焦躁感である。むろんステージでシンフォニーを指揮しているときのベームとて、たいした変わりはない。心地よげにタクトをただよわせているベームなんて見たことがない。ベームの指揮棒はいつでもいらいらして、ピクピクふるえている。
ベームが指揮という行為の手仕事の部分で、なにが成しえてなにが成しえないかを知っているからである。すぐれた細工師が、そののみで成しうることを正確に知っているのと、それは似ていなくもない。ただ、たまたま指揮者は細工師が木に手をふれるようには、楽器に手をふれられないから、ききての方がその面で指揮者を考えることを忘れがちである。
ベームのオペラは、とりわけそのリヒャルト・シュトラウスは、そういう面でのベームの本領が最大限に発揮されたものである。〈ばらの騎士〉の最後の数ページのファクシミリを持っているが、これは実に丹念に書かれたもので、それがひびきになったときの、あの輝きと香りとはおよそかけ離れている。音符にしても、文字通りこつこつ書かれたといった気配のものである。にもかかわらず、それが演奏されたときにはその楽譜の気配とはうらはらの音がする。それに似たところがベームの音楽のつくられ方と、きこえてくる演奏との間にもあるように思う。
一方ベームは、モーツァルトのオペラの全曲レコードも数多く録音している。〈フィガロ〉以後の四つのオペラは、すべて二度ないしはそれ以上レコードにしている。それにベームはまたモーツァルトの〈交響曲全集〉も録音している。そのために、ベームを、まずモーツァルトを指揮したところで判断しようとする人がいても不思議はないが、シュトラウスを指揮したときのベームの方がベームをとらえやすい。それからさかのぼっていって、モーツァルトにおけるベームの仕事を考えてみると、〈魔笛〉の演奏が、そして〈フィガロ〉や〈ドン・ジョヴァンニ〉の演奏が、クレンペラーとどうしてこうも違うのかがわかってくる。
カール・ベームという指揮者は、あのオーケストラ・ピットという古典的・伝統的な土壌で育った名匠とはいえないか。しかもそこで育ちながら、いわゆる職人性に足をとられることなく、おそらく彼自身は無意識のままに、そこを大きく踏みこえて、音楽的なことに執着しつづけた結果として、まさに精神の勝利をうたった。そしてそういうことはすべてとはいえないとしても、一部のリヒャルト・シュトラウスの作品にもいえなくはない。オペラ指揮者としてのベームとかぎらなくともいい、指揮者ベームを見とどけようと思ったら、やはりどうしても一度はシュトラウスの楽劇を指揮したベームをきいてみる必要がある。
〔一九七二年四月〕
リヒャルト・シュトラウス
〈ナクソス島のアリアドネ〉(全曲)
●ベーム指揮 バイエルン放送交響楽団 トロアノス(作曲家)、フィッシャー=ディスカウ(音楽教師)、トーマス(テノール歌手/バッカス)、ヒルブレヒト(プリマドンナ/アリアドネ)、グリスト(ツェルビネッタ)[ポリドール・グラモフォン MG八一六七−九〕