フィガロは、スペインの貴族アルマヴィーヴァ伯爵の従僕である。
 かつてはセビリャの町で床屋をいとなんでいた男が、ここでは貴族につかえる従僕として登場する。むろんそれなりのいきさつがあった。フィガロは、アルマヴィーヴァ伯爵がロジーナという娘と結婚しようとしていた、その肝腎のときに尽力した。その際のフィガロの功労を認めて、アルマヴィーヴァ伯爵はフィガロを従僕にとりたてた。
 このフィガロなる男は、なかなかのしたたかもので、一筋縄ではいかなかった。主人であるアルマヴィーヴァ伯爵でさえ、昨今は手をやいているほどであった。フィガロは、才気にとみ、知恵もあり、反骨精神の持主であった。
 そのフィガロが、今日、これから結婚しようとしていた。相手はスザンナという娘であった。スザンナはアルマヴィーヴァ伯爵の妻、すなわち伯爵夫人ロジーナの身のまわりの世話をしていた。このスザンナもまた、頭の回転のはやさでは、フィガロに負けず劣らずであった。類は友を呼ぶとは、よくぞいったものである。誰もがフィガロとスザンナを似合いのカップルとおもった。
 本来であれば、そのようなふたりの結婚に、なんら支障がないはずであった。フィガロとスザンナの結婚は、とんとん拍子にことがはこんで当然であった。
 ところが、どうしてどうして、もめごとつづきで、ことが思うように運ばなかった。ひとつのトラブルがかたづいたと思ったら、あらたな障害がしょうじた。フィガロとスザンナは、絶妙な連繋プレイで、そういうもめごとをひとつひとつ解決していった。
 活動写真の弁士風にいえば、さて、フィガロ君とスザンナちゃんのふたりは、たびかさなる難関にもめげず、めでたく結婚できますかどうか? といったところである。したがって、オペラのタイトルである「フィガロの結婚」そのものが、このオペラのテーマということになる。

 当時の貴族には初夜権といわれるものがあった。
 使用人である男が結婚する相手の娘と、当の男にさきだって、領主である貴族が初夜をともにできる権利である。いかに封建時代のこととはいえ、ひどい権利があったものである。
 はなしのようすでは、ひところのアルマヴィーヴァ伯爵も、その初夜権なる権利を行使していたようであった。ところが、ロジーナと結婚できたときに、アルマヴィーヴァ伯爵は、うれしさのあまり、初夜権などという野蛮な風習は放棄する、と宣言した。
 しかし、憧れのひとと結婚できた喜びといえども、月日がたてば風化する。アルマヴィーヴァ伯爵も男である。最近のアルマヴィーヴァ伯爵は、スザンナにご執心のようである。
 アルマヴィーヴァ伯爵としては、一度は放棄した初夜権を、この機会に復活させようとひそかにたくらんでいた。とはいっても、伯爵夫人の目があった。おまけに、したたかなフィガロがいた。そのへんがアルマヴィーヴァ伯爵の泣きどころであった。

 伯爵夫人は憂いの影のなかにいた。夫であるアルマヴィーヴァ伯爵の愛がすでに自分にはそそがれていないことに気づいているからであった。節操を美徳とする貴婦人は、「あなた、浮気してるんでしょ!」などと大声をはりあげたりしなかった。しかしながら、いかに伯爵夫人といえども、悲しみは隠せなかった。
 ただし、この伯爵夫人もまた、なかなかすみにおけなかった。積極的に情事にはしるには、伯爵夫人はいくぶん慎み深すぎるきらいがあり、しかも時代が女性に味方しなかったということも関係してのことであろう、この「フィガロの結婚」での伯爵夫人は、よろめきの一歩手前でふみとどまっていた。
 伯爵夫人の相手はだれか?
 アルマヴィーヴァ伯爵の小姓のケルビーノであった。ケルビーノはまだ年端もいかない少年であった。しかし、この少年は、そんじょそこらにざらにいる少年とはわけがちがった。ケルビーノは美少年であった。この早熟な美少年は、その年頃にはよくあることながら、恋に恋していた。ケルビーノは、このオペラの第二幕で、アリア「自分で自分がわからない」をうたう。そのアリアでケルビーノがうたうのは、おおよそ、このような意味のことである。

  ぼくがどんな人間なのか、
  ぼく自身をどうしたらいいのか、
  ぼくにはわからない。
  あるとき、ぼくは火のようで、
  あるとき、ぼくは氷のようで、
  どんな女の人にだって、
  ぼくは、ぽーっとなってしまうし、
  どきどきしてしまう。
  「愛」ということばをみただけで、
  ぼくはどぎまぎしてしまう。

 これがケルビーノである。このようなケルビーノの状態は、まさに思春期症候群というべきであった。
 しかも、困ったことに、思春期症候群のケルビーノは伯爵夫人にあこがれていた。伯爵夫人も伯爵夫人で、ケルビーノをにくからず思っていた。伯爵夫人がケルビーノに無関心でいられないのは、はたして、アルマヴィーヴァ伯爵にかえりみられないためばかりかどうか。その点はなんともいいかねる微妙なところであった。

 オペラ「フィガロの結婚」には、そのほかにも、胸に一物(いちもつ)の登場人物たちが、つぎつぎに登場してくる。
 女中頭のマルチェリーナ、この女もなかなかのものであった。以前、この女は、フィガロに金を貸したことがあった。むろん、マルチェリーナは、ただで金を貸すほどお人よしではなかった。その際に、フィガロから、しっかり証文をとっていた。その証文には、こう書かれてあった。もし、金が返せないときには、あなたと結婚します。そして、証文には、しっかり、フィガロのサインもあった。フィガロはその借金をマルチェリーナに返していなかった。したがって、マルチェリーナが、フィガロに、そのスザンナとの結婚、待った、というのも、当然であった。しかし、マルチェリーナには、フィガロと結婚できない理由があった。
 なぜ、マルチェリーナはフィガロと結婚できないのか? そのことがあきらかになるのは、まだ先のことである。
 医師ドン・バルトロはフィガロに恨みをいだいていた。以前、フィガロに、手痛いめにあわされたことがあったからである。ドン・バルトロは年甲斐もなく、若いロジーナとの結婚を夢みていた。ところが、憎きフィガロにじゃまをされ、夢は無残にもぶちこわされた。
 機会があったらフィガロに仕返しをしてやろう。ドン・バルトロは、そのチャンスを虎視眈々と狙っていた。そしていま、フィガロは、スザンナと結婚しようとしていた。ドン・バルトロにとっては好機到来というべきであった。
 さらに、噂好きで、しかもおしゃべりの音楽教師ドン・バジリオとか、ケルビーノの恋人気取りのおませな娘バルバリーナとか、はたまたいつでも酒臭い息をしている園丁のアントニオとか、どもらないとはなせない裁判官のドン・クルツィオといったような多彩な登場人物たちによって、オペラ「フィガロの結婚」のドラマは織りなされていく。

 フィガロとスザンナは、さまざまな難関をきりぬけて、結婚にたどりついた。しかし、オペラ「フィガロの結婚」のなかで結婚式をあげるのは、フィガロとスザンナだけではなかった。それでは、わたしたちもご一緒に、といった感じで、フィガロたちとともに結婚する別のふたりがいた。
 そのふたりとは、思いもかけず、マルチェリーナとドン・バルトロであった。例の借金の証文のことで切羽つまったフィガロが咄嵯に口にしたことばがきっかけで、意外な事実があきらかになった。なんと、マルチェリーナは、フィガロの母親であった。フィガロも驚いたが、マルチェリーナも驚いた。まわりの人たちもびっくりした。
 さらに驚くべきもうひとつの事実が、マルチェリーナによってあきらかにされた。ドン・バルトロがフィガロの父親であるという事実であった。フィガロはマルチェリーナとドン・バルトロの私生児だったのである。
 いかにマルチェリーナが頑張っても、息子のフィガロと結婚するわけにはいかない。それにしても、そのことがわかるまで、マルチェリーナは、借金の証文をたてに、自分の息子の年齢の男としゃにむに結婚しようとしていたのである。ご立派、というべきか、いい気なもの、というべきか。
 ちょうどいい機会だからということになって、若いふたりの結婚にあわせ、マルチェリーナとドン・バルトロも、それまでの内縁関係を解消して結婚式をあげた。いかに喜劇的な作品でのこととはいえ、親子がいっしょに結婚式をあげるというのは、まことにユニークである。しかし、たとえふた組の結婚式がとどこおりなくすんでもなお、それでおさまるはずもなく、さらにもうひと波瀾がその先に準備されていた。

「フィガロの結婚」は、オペラ・ブッファの代表作のひとつである。
 オペラ・ブッファは、直訳すれば、喜劇的な作品、である。なるほど、「フィガロの結婚」は、喜劇的な題材をあつかった作品である。しかし、喜劇的な題材をあつかった作品がすべてオペラ・ブッファかというと、そうではない。オペラ・ブッファにはオペラ・ブッファ独自の約束事がいろいろある。
 その約束事にのっとったものだけがオペラ・ブッファである。したがって、オペラ・ブッファとは、単にオペラのジャンルをいうことばではなく、オペラのスタイルをいうことば、ということになる。
 オペラ・ブッファの様式にそった作品が作曲されたのは十九世紀中頃までである。それ以後にも、たとえばヴェルディの「ファルスタッフ」とか、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」といったような、オペラ・ブッファの様式をなぞったような作品も作曲されはしたが、オペラ・ブッファの様式に立脚した作品は作曲されなくなった。

 三一致の法則といわれる作劇上の法則がある。フランス古典劇の作家たちによって重要視された法則である。
 三一致の法則とは、単一の場面においておこなわれるべき「所」、二十四時間以内に終始すべき「時」、そして物語の運行が一定の軌道をそれないことを義務づけた「筋」についての法則である。オペラ・ブッファはこの法則にのっとっている。
「フィガロの結婚」もまた、オペラ・ブッファであるから、その三一致の法則にしたがっている。このオペラでは、じっにさまざまなことが起こるが、しかし、それらすべての事件は、ある日一日に、ある一定の場所で起こった出来事である。

 もうひとつ、オペラ・ブッファの特徴として忘れてはならないものがある。いずれのオペラ・ブッファも二幕だてだということである。おっと、それはおかしい、「フィガロの結婚」は四幕だてだったはずだが、とおっしゃるかもしれない。なるほど、その通りである。「フィガロの結婚」は、一応は四幕だてである。しかしながら、「フィガロの結婚」にあっては、第二幕と第四幕のフィナーレではほとんどの登場人物が舞台にあらわれるものの、第一幕と第三幕のフィナーレでは、かならずしもそうはなっていない。ここが、肝腎なところであり、モーツァルトの老獪なところでもある。
 オペラ・ブッファ「フィガロの結婚」においては、第一幕にも、そして第三幕にも、それなりに幕切れにふさわしい音楽がおかれている。したがって、「フィガロの結婚」は、構成のされ方として、二幕だてとも四幕だてともうけとれる二重構造になっている、ということになる。
 なにごとによらず秩序を守ることを余儀なくされていた十八世紀にあって、自由への限りない憧れをいだいたモーツァルトなればこその、この「フィガロの結婚」における幕の立て方で示された老獪さと考えるべきかもしれない。一応は、伝統的な二幕だてのごとくでありながら、四幕でも上演することができるところが、「フィガロの結婚」の興味深さである。
 なお、昨今の欧米の歌劇場で、この「フィガロの結婚」が上演されるときには、ほとんど二幕だてによっている。

 それでは、「フィガロの結婚」の第二幕と第四幕のフィナーレは、いったいどのような仕組みになっているのであろうか。
「フィガロの結婚」の第二幕と第四幕のフィナーレでは、登場人物が時間の推移とともにふえる。同時にオーケストラの楽器もふえる。音楽も劇もクライマックスをめざして登り坂をひた走る。このような部分をアンサンブル・フィナーレという。アンサンブル・フィナーレは、オペラ・ブッファでの最大のききどころである。むろんモーツァルトも、そのことを充分に承知していた。
 モーツァルトはアンサンブル・フィナーレの作曲に力をそそいだ。作曲者が力をそそいだところは、ききてにとってのききどころである。このことは「フィガロの結婚」にかぎっていえることではなく、同じモーツァルトの作曲した「ドン・ジョヴァンニ」や「コシ・ファン・トゥッテ」、あるいはロッシーニの作曲した「セビリャの理髪師」や「シンデレラ」といったような、すべてのオペラ・ブッファにあてはまる。

 ピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェという男がいた。一七三二年に生まれて、一七九九年に他界したフランスの劇作家である。このボーマルシェという劇作家が、「セビリャの理髪師」「フィガロの結婚」それに「罪ある母」といった作品からなる三部作を書いた。
「セビリャの理髪師」は、ロッシーニによって作曲されたオペラ・ブッファによって、お馴染みのはずである。ロッシーニはモーツァルトよりあとの時代の作曲家である。したがって、作曲された時期的な順序は逆になるものの、「フィガロの結婚」であつかわれている物語は「セビリャの理髪師」の後日談である。
 この三部作のうちで問題になるのは、第三作の「罪ある母」である。だれが罪ある母か? ほかでもない、「セビリャの理髪師」のロジーナ、つまり「フィガロの結婚」でのアルマヴィーヴァ伯爵夫人である。「罪ある母」という作品では、伯爵夫人がケルビーノの子供を生んでいることが、あきらかになる。
 まさか! とお考えであろう。おそらくここで思い出すべきは、「フィガロの結婚」の第四幕でフィガロがシニカルな表情をたたえてうたうアリア、「さあ目をあけろ」の内容である。このアリアでフィガロは、女がいかに信用ならないかを、彼の人生観を吐露しつつ男たちに語りかける。男であれば誰だって、フィガロの呼びかけに共感しないではいられないであろう。
 このフィガロのアリア、「さあ目をあけろ」の部分に、ボーマルシェの芝居では貴族たちを攻撃するセリフがおかれていた。しかし、「フィガロの結婚」をオペラ化するにあたって、攻撃の対象を貴族から女性に変更せざるをえなかった。モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」は、そういう時代の作品である。

 それでは、以上のようなことを予備知識として頭のすみにおいておいて、オペラ「フィガロの結婚」の推移を順をおってみていくことにしよう。

 オペラの開幕にさきだってオーケストラで演奏されるのが序曲である。
 序曲の多くでは、オペラ本体で用いられる音楽が有効に活用される。モーツァルトが彼のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のために作曲した序曲などは、オペラ本体の音楽が序曲で有効に活用された典型的な例である。そのような序曲は、オペラをきく前のききてにとって、音楽的なまえぶれの役割をはたす。
「フィガロの結婚」の序曲できかれる音楽は、オペラ「フィガロの結婚」のなかできかれるいかなるアリアやアンサンブルとも関係のないものである。この序曲でもちいられている音楽が、そのメロディやハーモニーによって、オペラのある部分を暗示するというようなことはまったくない。にもかかわらず、この序曲できかれる、いきいきとした、はずむような音楽は、「フィガロの結婚」というオペラ・ブッファがききてに感じさせる生気にみちた雰囲気のまえぶれとして、まさにうってつけである。
 耳をすませてきいていると、細かい音で走る弦楽器の動きに、さらには悪戯っ子のような表情をして弦楽器の動きにからむ木管楽器の動きに、これから幕があがって登場するはずのフィガロやスザンナの姿がみえてくる。その意味ではオペラ「フィガロの結婚」にとって、これ以上の序曲はない、ともいえるであろう。

 演奏時間が四分ほどの序曲が終わると、いよいよ第一幕である。第一幕の展開される時刻は、三一致の法則にてらして考えると、午前中である。
 アルマヴィーヴァ伯爵の館のなかの、フィガロとスザンナが新婚生活をおくるために伯爵にあたえられた部屋である。フィガロは部屋の調度をととのえるのに余念がない。
 フィガロは、うたいはじめる。「チンクエ、ディエチ、ヴェンティ(五、十、二十)」。フィガロは部屋におく家具の大きさをはかっている。一方のスザンナは、結婚式にかぶる帽子を頭にのせてみて鏡をのぞきこみ、とてもよく似合うわ、とご満悦の態である。そのあげく、スザンナは、「グアルダ!(見てよ!)」などと、甘えた声でフィガロに呼びかけるものの、フィガロは自分の仕事に夢中で、うわのそらの返事しかしない。

 しあわせいっぱいの結婚前のおふたりさん、といいたいところであるが、どっこい、好事魔多しである。スザンナが、フィガロにとっては思いもかけないことを、口にする。スザンナは、アルマヴィーヴァ伯爵の部屋のすぐとなりのその部屋がフィガロ夫妻にあてがわれたのには、それなりの理由がある、というのである。すでに館の外での放蕩にあきたアルマヴィーヴァ伯爵は、いまでは、(スザンナのことばを借りると)「館の中での運だめし」をしたがっている。おまけに、アルマヴィーヴァ伯爵がその「運だめし」のための的として白羽の矢をたてたのが、ほかならぬスザンナである、とスザンナ自身からきかされれば、フィガロとしても黙ってはいられない。
 スザンナが退場して、ひとり残ったフィガロは、憮然たる面持でうたいはじめる。カヴァティーナ「もし踊りをなさりたければ」である。フィガロは、このカヴァティーナ(オペラやオラトリオにおける短い独唱曲の一形式)で、「シニョール・コンティーノ(伯爵さま)」と、そこにはいないアルマヴィーヴァ伯爵に呼びかけつつ、伯爵への挑戦的な気持をあらわにする。
 フィガロが退場して誰もいなくなった部屋にはいってきたのは、ドン・バルトロとマルチェリーナのふたりである。マルチェリーナはなにかを手にしている。フィガロがマルチェリーナから借金したことを記(しる)した証文である。

 ドン・バルトロにしてみれば、かねてから恨み骨髄のフィガロに復讐するのに絶好のチャンスである。マルチェリーナの証文がありさえすれば、フィガロとスザンナの結婚を妨害できる。そこで、ドン・バルトロは、声たからかに、「ラ・ヴェンデッタ!(復讐だ!)」とうたいはじめる。ここできけるトランペットのファンファーレであるとか、音楽としていくぶん古風なオーケストラのひびきであるとか、はたまた、あたかも癇癪をおこしたようにきこえる和音などは、威張ることしかできない老人ドン・バルトロの気の短い性格を、ものの見事にあきらかにしている。「このバルトロさまのことは、セビリャ中にしられている」などと、ふんぞりかえってうたったのち、ドン・バルトロは意気揚々と退場する。
 ドン・バルトロといれかわりに登場するのはスザンナである。そこでスザンナとマルチェリーナがはちあわせする。スザンナは、あらためていうまでもなく、いましもフィガロと結婚しようとしている。マルチェリーナはマルチェリーナで、証文をたてにフィガロとスザンナの結婚を妨害して、あわよくばフィガロと一緒になろうとしている。
 そのようなふたりによる小さな二重唱は、恋敵同士の恥も外聞も忘れた厭味のいいあいで、なりたっている。音楽は、そのようないらいらしたふたりによってうたわれるだけに、いかにもせわしない。「レタ!(お年をめした方!)」などという、神経をさかなですることばをスザンナにあびせられ、マルチェリーナは怒ってでていってしまう。ほんの短い二重唱ではあるが、女の人って凄いんだなと、これをきいた気の弱い男をおびえさせずにおかない、スザンナとマルチェリーナによる迫力にとんだやりとりである。

 ケルビーノがやってくる。この恋に恋する美少年は、スザンナが手にしていた伯爵夫人のリボンをうばいとってくちづけしたりするので、スザンナに、「シエーテ・ヴォーイ・パッツォ?(あなた、どうかしてしまったんじゃないの?)」とからかわれる。もっとも、その程度のことを気にするケルビーノのはずもなく、アリア「自分で自分がわからない」を、思いつめたような表情でうたいはじめる。
 たとえ遠い日のこととはいえ、どなたにも思いあたるところがあるはずの、あの思春期特有のやるせない気持を、ときにほとばしるように、またときに溜息まじりに、弱音器をつけた弦楽器にともなわれ、クラリネットにいろどられて、ケルビーノはうたっていく。拍子の運動の停止を指示する延長記号であるフェルマータが効果的にもちいられて、それがあたかもケルビーノの溜息のように感じられる。

 ケルビーノとスザンナがいるところに、胸に一物のアルマヴィーヴァ伯爵がやってくる。ケルビーノはやむをえず、あわてて物陰に身を隠す。いくぶんそそっかしいところのある伯爵は、スザンナ以外に誰もいないと思いこみ、さっそくスザンナを口説きにかかる。そこに、他人の噂をするのがなにより好きで、しかもお喋りこのうえない、つまりひとことでいえば食えない男、音楽教師のドン・バジリオがやってくる。アルマヴィーヴァ伯爵としても、スザンナのところにいたなどといいふらされては、困る。さて、アルマヴィーヴァ伯爵は、どうしたか。
 さしあたって、手はひとつしかない。隠れることである。ケルビーノについで、アルマヴィーヴァ伯爵も隠れる。ドン・バジリオとしても、まさかその部屋のあちこちにふたりも隠れていようとは考えなかった。そこで、ドン・バジリオは、ぼろっと、口をすべらせてしまう。
「あのケルビーノが奥方をみるときの目付きに、もし伯爵さまが気づかれでもしたら……」
 浮気な男にかぎって嫉妬ぶかい。アルマヴィーヴァ伯爵とて例外ではなかった。ドン・バジリオのききずてならぬことばを耳にしては、嫉妬ぶかい伯爵は、隠れてもいられず、いきなりとびだしてくる。

 そこから、スザンナ、ドン・バジリオ、それに伯爵による三重唱がはじまる。スザンナは事態の推移に驚いて気絶したふりをし、ドン・バジリオは、困惑をよそおいつつも、おもいもかけぬ事態の進展をひそかにたのしみ、アルマヴィーヴァ伯爵は怒り心頭に発している。
 そこでさらに、アルマヴィーヴァ伯爵の怒りに油をそそぐようなことが、起こってしまう。隠れていたケルビーノが伯爵にみつかるのである。他人が窮地にたっているのをニタニタたのしむのが、ドン・バジリオのような男である。結婚を目前にした女が、いかに少年とはいえ、男を部屋にかくまっていたのを目のあたりにしたドン・バジリオは、皮肉な口調で、こう呟く、「コシ・ファン・トゥッテ・レ・ベッレ!(美人なんて、いずれにしても、こんなものさ!)」
 じつは、ここでドン・バジリオが口にすることば「コシ・ファン・トゥッテ」をもとに、モーツァルトは、のちに、女性の貞操をテーマにした、タイトルもこのことばをそのままもちいたオペラ・ブッファを作曲することになる。

 あたりが騒がしくなった。なにごとか。フィガロが村人たちをつれてきたのである。村人たちは、一応、アルマヴィーヴァ伯爵をたたえる歌などうたうが、フィガロの真意は別のところにあった。
 フィガロは、村人たちの前で、アルマヴィーヴァ伯爵に、例の初夜権を放棄したむねの宣言をさせようとくわだてたのである。事態がこのようにあからさまになってしまっては、いかにアルマヴィーヴァ伯爵といえども、いやとはいえなかった。それで、しぶしぶながらではあったものの、「あのようなよからぬ権利は領地内では廃止した」といわざるをえなかった。
 とはいっても、その程度のことでひきさがるような弱気なアルマヴィーヴァ伯爵ではなかった。伯爵はすでにマルチェリーナの証文のことを小耳にはさんでいたので、「マルチェリーナはどこにいるんだ」と咳いたりする。借金が返せないかぎり、フィガロはスザンナと結婚できないはずであった。まさにそこに、スザンナを獲物としてしとめるためのすきがある、とアルマヴィーヴァ伯爵は考えた。
 初夜権の廃止を宣言したアルマヴィーヴァ伯爵をみんながたたえているというのに、隅のほうで、ケルビーノがひとりしょんぼりしていた。それまでのいきさつをしらないフィガロがケルビーノの神妙な姿をいぶかしむ。なんのことはない、先の一件でアルマヴィーヴァ伯爵の逆鱗にふれたために、ケルビーノはお屋敷から追放を命じられたのである。
 おまけに、アルマヴィーヴァ伯爵は、このようにいう、「連隊に欠員があるので、お前をそこの士官に任命する。ただちに出発するように!」。ケルビーノはすっかりしょげかえってしまう。
 そのようなケルビーノをはげまして、フィガロは、このオペラのなかで、もっともよくしられているアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を、うたう。蝶々とはケルビーノのことである。女性を花にたとえれば、花から花へと飛びまわっていたケルビーノは、さしずめ恋の蝶々であった。この有名なアリアのうたいだしは、こうである。「ノン・ピウ・アンドライ・ファルファッローネ・アモローゾ(アンドライは英語のgoを意味するイタリア語の未来形であるから、この部分を英語におきかえると、no more will you goとなる。その日本語訳が、もう飛ぶまいぞ、である。そして、後半のファルファッローネ・アモローゾとは、恋の蝶々である)」
 このアリアで、フィガロは、ケルビーノをひやかしつつ、はげましている。ケルビーノは士官になるのである。しかもフィガロはケルビーノをはげましているのである。音楽が行進曲のリズムをきざんで当然である。さらに、ここに行進曲のリズムをもちこむことによって、この部分に幕切れとしての体裁をととのえさせてもいる。モーツァルトならではの才気にとんだアイディアというべきである。

 第二幕はアルマヴィーヴァ伯爵夫人の部屋に舞台がとられている。卜書きでは、アルコーブつきの部屋、となっている。アルコーブとは、「室の壁の一部分を入り込ませた、ちょうど和室の床の間のような部分」(「広辞苑」)、である。さらにこの部屋には小部屋がついている。のちにケルビーノが隠れることになる部屋である。実際に上演されるときには、この小部屋は、客席から向かって左手の奥に設置されることが多い。
 第一幕よりすこしのち、したがって正午にちかい午前中、ないしは午後の比較的はやい時刻、と考えてよさそうである。

 部屋には伯爵夫人がひとりでいる。そのことは、開幕に先だって演奏されるオーケストラのごく短い前奏をきいただけでも、充分にわかる。オーケストラがゆっくりしたテンポで演奏する音楽は、とても優雅である。このエレガントな、しかしどことなく寂しげな音楽は、もののみごとに、憂いの影のなかにいる伯爵夫人を暗示している。
 モーツァルトのオペラでは、たとえそこでうたわれていることばを理解できなくとも、物語の推移であるとか、はたまたそこにいる人物がいかなる人物であるとかを、把握できる。音楽が登場人物の性格とか行動などすべてを十全に語るからである。ここでの伯爵夫人のための音楽とて例外ではない。たとえ目を閉じていても、ここでの音楽に耳をすましさえすれば、伯爵夫人がどのような女性か、そして彼女がどのような衣装を身にづけているかが、みえてくる。
 実際の舞台にふれたり、あるいは映像をともなったビデオディスクのたすけを借りたりしなくとも、LPやCDできいただけでも充分にモーツァルトのオペラがたのしめる、といわれるのは、そのようなことがあるからである。
 耳をすませてこの音楽をきくききては、優雅なひびきのなかにある寂しげな気配にも気づくはずである。幸せであるべき伯爵夫人であるにもかかわらず、どうしてまた? と、ききてとしてはいぶかしまないではいられない。ここでの音楽は、なにゆえに、伯爵夫人をつつむ憂いの影を暗示するのか。
 その理由は、これから伯爵夫人のうたうカヴァティーナ「愛の神よ、照覧あれ」をきくと、わかる。伯爵夫人は、アルマヴィーヴァ伯爵の愛がすでに自分にはそそがれていないことに、気づいている。そのための憂いの影である。伯爵夫人の気持は、死を望むほどに切実である。とはいっても、さすがに貴族の女性である。とりみだすようなことはない。クラリネットが、あたかも憂いに沈む人を慰めるかのように、伯爵夫人のうたう歌にひっそりとよりそう。

 スザンナが登場する。さらに、フィガロも颯爽と登場する。伯爵夫人をまじえての三人は、伯爵をおとしいれるための策略をねる。フィガロが退場すると、いれかわりにケルビーノがあらわれる。
 ケルビーノは、スザンナにうながされて、自作の愛の歌をうたう。この多感な美少年はシンガー・ソングライターでもある。ここでケルビーノによってうたわれるのが「恋とはどんなものかしら」である。
 うたいだしは、こうなっている。「ヴォイ・ケ・サペーテ(ヴォイは英語のyouである。ケが関係代名詞のwho、そしてサペーテがknow、つまりヴォイ・ケ・サペーテは、知っているあなた方、である)」あなた方は、いったいなにを知っているのか。そのあと、歌はこのようにつづく。「ケ・コーザ・エ・アモール(恋がどのようなものか)」
 歌の内容そのものは、ケルビーノが第一幕でうたったアリアとさほどかわっていない。ただ、さすがに伯爵夫人の前でうたうということもあってか、第一幕のアリアの奔放さはここにはない。スザンナの爪弾くギターを模して、ピッチカートを奏する弦楽器にささえられてうたうケルビーノに、木管楽器が悪戯っぽい表情でからむ。

 先の、フィガロ、スザンナ、それに伯爵夫人による三者会談で、アルマヴィーヴァ伯爵を偽(いつわり)の手紙でおびきだし、女装させたケルビーノと逢引させることがきまっていた。そこで、ケルビーノを女装させる予行演習に、とりかかる。
 美少年のケルビーノに女装させることを、スザンナと伯爵夫人は、単なるたわむれと自分にいいきかせつつも、なかば本気でたのしんでいる。ちょっと危険な、かすかにエロティックな気配さえしなくもない着せ替えごっこである。
 スザンナが、ほんの束の間、その場をはずす。折悪しく、そこに、アルマヴィーヴァ伯爵がやってくる。さあ、大変! 伯爵夫人は大いにあわてる。胸をはだけたケルビーノとふたりきりでいたとなれば、それでなくとも嫉妬ぶかい伯爵のことである、どうなることかわかったものではない。伯爵夫人は、一瞬の機転でケルビーノを小部屋に隠す。そわそわして、なんとなくようすがおかしい。アルマヴィーヴァ伯爵ならずとも、そう思っておかしくない、そこでの伯爵夫人の狼狽ぶりであった。

 別室から部屋にもどり、ことの次第をいちはやく察知したスザンナは、伯爵にみつからないように、すばしこくものかげに身を隠す。小部屋で物音がする。伯爵は疑惑をつのらせる。だれだ、あそこにいるのは? スザンナです! 伯爵夫人は、必死の形相で、そういいはる。そのようないいのがれで納得する伯爵ではない。部屋の扉を開けなさい。伯爵は執拗に伯爵夫人にせまる。扉を開けたら、万事休す、である。伯爵夫人は、がんとして、扉を開けようとしない。
 アルマヴィーヴァ伯爵は、やむなく、伯爵夫人をともなって、扉をこじあけるための工具をとりにでていく。その一瞬の間に、それまでものかげにひそんでいたスザンナが、小部屋のケルビーノといれかわる。ケルビーノは窓からとびおりて逃げる。
 伯爵と伯爵夫人は、開けろ、開けない、と押問答をつづける。伯爵は、しつこく、小部屋の「キアーヴェ(鍵)」を、伯爵夫人に要求する。
 この伯爵と伯爵夫人によるいいあらそいの二重唱から、第二幕のアンサンブル・フィナーレである。

 アンサンブル・フィナーレでは、前述のように、音楽の推移にしたがって登場人物が次第にふえていく。この「フィガロの結婚」の第二幕のフィナーレではどのようになっているか、順をおってみていくと以下のようになる。
 @まず、アルマヴィーヴァ伯爵と伯爵夫人の二人ではじまる。
 A以上の二人に、スザンナが小部屋からでてきて、三人になる。
 B以上の三人に、フィガロが加わって四人になる。
 C以上の四人に、園丁のアントニオが加わって、五人になる。(しかしながら、このアントニオは、一度登場したのち、アンサンブル・フィナーレでの登場人物増加の原則に反し、退場する。初演でアントニオをうたったバスが、このあとに登場するドン・バルトロをも、かけもちでうたわなければならなかったからである)
 D以上の四人にマルチェリーナ、ドン・バジリオ、ドン・バルトロが加わって、七人になる。
 Dにいたってはじめて、トランペットとティンパニが加わるといったように、登場人物の増加に呼応してオーケストラの楽器も順次増加するのが、アンサンブル・フィナーレである。音楽は、しだいに大きくもりあがっていって、熱気を高めていく。
 その結果、最終的には、スザンナ、伯爵夫人、それにフィガロの三人からなる組と、マルチェリーナ、ドン・バジリオ、アルマヴィーヴァ伯爵、それにドン・バルトロからなる組とが、対決するかたちで第二幕がしめくくられる。

 第三幕は館のなかの大広間に舞台がとられている。時間的には、第二幕よりすこしあと、つまり午後のおそい時刻、ないしは夕方ちかくである。この幕では、大きな出来事がふたつある。ひとつが裁判で、もうひとつが結婚式である。
 裁判官のドン・クルツィオが、フィガロにこう宣告する、「マルチェリーナに借金をかえすか、さもなくばマルチェリーナと結婚しなさい」。フィガロとしては、絶体絶命のピンチである。
 ここで、思いもかけないどんでんがえしがおこる。「ぼくは身分いやしからぬ家の出ですから、生みの親の承認がなくては結婚できません」。それがフィガロの言いぶんである。さらにフィガロは、「ぼくの腕には痣があって」ともいう。マルチェリーナが顔色をかえていう。「その痣って、右腕ではないの?」
 なぜ、マルチェリーナは、フィガロの痣の場所をしっていたのか? マルチェリーナはフィガロの母親だったからである。しかも、マルチェリーナは、さらに思いもかけないことをいう、「これがお前のお父さんだよ!」マルチェリーナの指さしたほうをみれば、ドン・バルトロがいる。当然のことながら、マルチェリーナによる借金返済を求めての訴訟は、取り下げられる。

 その裁判の場にいなかったスザンナは、もどってきて、いかにもうれしそうに抱きあっているフィガロとマルチェリーナを目のあたりにし、怒る。フィガロったら、あたしがちょっと目をはなすと、こうなんだから! ことの次第を説明されても、スザンナは、まさかと思う気持が先にたち、にわかには信じられない。
 そこで、スザンナは、真剣な表情で、その場にいあわせた人たちひとりひとりに、マルチェリーナがほんとうに、「スア・マードレ?・(彼のお母さん?)」かと、そして、ドン・バルトロがほんとうに「スア・パードレ?(彼のお父さん?)」かと、たずねないではいられない。

 あの手この手でフィガロとスザンナの結婚を妨害しようとしてきたアルマヴィーヴァ伯爵ではあったが、これで最後ののぞみの綱も切れた。第二幕の終わるところまでは、マルチェリーナとドン・バルトロが伯爵の味方であった。そのふたりも、残念ながら、フィガロの陣営に去った。アルマヴィーヴァ伯爵は、あわれ、孤立無援である。
 一件落着である。伯爵としては、釈然としないものの、すでにこうなっては、結婚式をとりおこなうより手がない。スザンナとフィガロ、それにマルチェリーナとドン・バルトロの二組の結婚式がおこなわれた。
 この結婚式もまた、波瀾ぶくみである。スザンナがフィガロの目をぬすんで、付け文をするからである。今夜、お庭でおめにかかりとうぞんじます。ざっと、そんな内容の手紙を、スザンナは伯爵に手わたした。伯爵夫人とスザンナが仕組んだ計略である。スザンナと密会するつもりで、のこのこあらわれた喜色満面のアルマヴィーヴァ伯爵は、ふたりの罠にはまって、スザンナの衣装を身につけた伯爵夫人にいいよることになる。

 第四幕では、すでに夜になっている。館の庭園である。ここでさらにひと騒動あって、オペラ「フィガロの結婚」はめでたしめでたしとなる。
 第四幕冒頭できくのは、バルバリーナのカヴァティーナである。伯爵にピンを探すように命令されたバルバリーナによってうたわれるこのカヴァティーナは、思いもかけず、短調の音楽によっている。オペラ「フィガロの結婚」における、たったひとつの短調による音楽である。なお、これとよく似た音楽を、モーツァルトは、ピアノ協奏曲第十八番の第二楽章でもちいている。

「アプリーテ・ウン・ポ・クエリ・オッキ(アプリーテは、開くを意味するアプリーレの命令形、したがって、開け、である。オッキは目である。ほんのすこし、その目を開けろ、がここでの意味である)」とフィガロがうたいはじめる。アリア「さあ目をあけろ」である。「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」とともに、このオペラのなかでもっともよくしられたフィガロのアリアである。
 フィガロは、女の正体をよくよくみとどけないといけないぞ、と男たちに呼びかける。「女は、ぼくらを溺れさせるためにうたう海の精だ」というのが、ここでのフィガロの主張である。このフィガロの考えに共感されるご同輩も多いはずである。
 スザンナに裏切られたと思いこんで苛立っているフィガロとはうらはらに、当のスザンナは、フィガロとの愛の夜を前にしたよろこびをうたう。アリア「恋人よ、早くここへ」である。これまでの推移から才気煥発だけがスザンナのとりえと思っていたききては、ここで、スザンナのもうひとつの面をしることになる。スザンナも年頃の娘である。スザンナの女らしいところをあきらかにする、このアリアである。
 不覚にも、変装した伯爵夫人をスザンナと思いこんで口説いてしまったアルマヴィーヴァ伯爵に、いいのがれはできない。この場にいたって、もし、伯爵が伯爵夫人にいえることばがあるとすれば、このひとこと以外にありえない、「ペルドーノ!(パードン! である。ゆるして下さい、である)」むろん、寛大な伯爵夫人は、やさしく夫をゆるす。これで混乱の一日もおわった、と登場人物全員がうたって、オペラ「フィガロの結婚」は、オペラ・ブッファらしく、はれやかにしめくくられる。

 オペラ「フィガロの結婚」は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(一七五六〜一七九一)の作品である。このオペラは、ボーマルシェの書いた戯曲をもとに、ロレンツォ・ダ・ポンテの書いた台本に作曲された。一七八六年五月一日に、ウィーンのブルク劇場で初演されている。

推薦ディスク
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(アルマヴィーヴァ伯爵)、グンドゥラ・ヤノヴィッツ(伯爵夫人)、エディット・マティス(スザンナ)、タティアナ・トロヤノス(ケルビーノ)、ヘルマン・プライ(フィガロ)他。
一九六八年録音。
カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団、(ポリドール/グラモフォン F95G50331〜3)