「ミリオン・セリング・レコーズ〜一九〇〇年代から一九八〇年代まで」という本がロンドンの出版社からでている。
この本であつかわれているのは、一九〇〇年代から一九八〇年代にかけてミリオン・セラーになったレコードである。ミリオン・セラーのレコードといえば、百万枚以上も売れたレコードである。「ミリオン・セリング・レコーズ」の表紙をかざっているのは、マイケル・ジャクソンとか、ポリスのスティングとか、あるいはアート・ガーファンクルといった、つまりクラシック音楽以外の畑で活躍している音楽家たちである。
とっつきにくいところがあると考えられがちなクラシック音楽のレコードが、ポップスのレコードのように大量には売れないというのは、今も昔もかわらない。それが証拠に、「ミリオン・セリング・レコーズ」の大半のページは、ポップスのレコードでしめられている。にもかかわらず、その「ミリオン・セリング・レコーズ」という本によれば、史上初の名誉あるミリオン・セラー・レコードは、思いもかけず、ポップスのレコードではなく、クラシック音楽のレコードである。
そこで、問題である。初のミリオン・セラーを記録したクラシック音楽のレコードは、いったいどのような作品のレコードだったのであろう?
クラシック音楽の作品でもっとも多くのひとに親しまれているものといえば、誰もが、ベートーヴェンの、「運命」とよばれる第五交響曲であるとか、あるいは、シューベルトの、「未完成」とよばれる第八交響曲、さらには、近年とみに人気のたかいヴィヴァルディの「四季」を考える。しかしながら、名誉ある史上初のミリオン・セラー・レコードにおさめられていた音楽は、作品としての知名度、あるいは人気の点で、「運命」や「未完成」はもとより、「四季」にも遠くおよばないと思えるオペラのアリアであった。
近代イタリアのオペラ作曲家、ルッジェーロ・レオンカヴァルロの作曲した作品にオペラ「道化師」がある。「道化師」は、道化芝居の一座の座長が浮気をした妻を嫉妬のあまり観客の前で殺してしまうという、ちなまぐさい物語によったオペラである。このオペラのなかに、妻の裏切りをしった座長のカニオが悲痛な表情でうたう「衣裳をつけろ」というアリアがある。このアリアを、往年のイタリアの名テノール、エンリコ・カルーソーが、一九〇二年十一月十二日に録音した。カルーソーは、このアリアを何度か録音しているが、一九〇二年に録音されたのは、それらのうちの最初のものである。
名誉あるレコード史上初のミリオン・セラー・レコードになったのは、そのエンリコ・カルーソーによって一九〇二年に録音されたアリア「衣裳をつけろ」であった。今から八十年以上も昔の一九〇二年に、そんなにたくさんのひとが、カルーソーのうたった「衣裳をつけろ」のレコードをきいた、というのはまことに驚くべきことである。カルーソーがその生涯に録音したレコードでえた印税収入は二百五十万ドルにもおよぶといわれている。そのことからも、当時のカルーソーの人気がいかに高かったがが、わかる。
オペラは、クラシック音楽のうちのさまざまあるジャンルのなかでも、一部に熱狂的なファンはいるものの、とかく敬して遠ざけられがちである。理由はいくつか考えられる。まず、オペラの多くが、イタリア語とかドイツ語、あるいはフランス語といったような、多くのひとたちにとって馴染み深いとはいいかねる外国語でうたわれる、ということがある。ついで考えられるのは、オペラの演奏時間が、ほかのジャンルの音楽、たとえば交響曲や協奏曲の演奏時間にくらべて破格に長いことである。演奏時間が極端に長いために、オペラはききてにとって馴染みにくい。
そのような理由で、オペラのききては、これまでずっと、クラシック音楽好きのなかでも少数派にとどまってきた。
しかし、オペラは、ほんとうに馴染みにくい音楽であろうか?
そんなことはない。オペラを楽しもうとするひとの多くが挫折するのは、はじめから欲ばりすぎるからである。オペラは、芝居であり、同時に音楽でもある。そのことからもあきらかなように、オペラではさまざまな要素がいりまじっている。それらすべてを、最初から本格的に味わおうとするために、途中で投げだしたくなる。
そこで、さしあたって、うたわれていることばが理解できなくとも、それを気にかけないことにする。つまり、オペラの芝居としての側面を無視する、ということである。そして、オペラを、シンフォニーやコンチェルトをきくようにきく。どのオペラも、素敵なメロディにみちみちているので、ほんの十五分もきいていれば、いいな、と思える旋律を、かならずひとつやふたつみつけられる。それがオペラに近づくための突破口になる。
好きになったものであれば、当然、その背景をしりたくなる。したがって、それでは、その素敵な旋律が、オペラのなかでどのような意味をもっているのであろう? と考えることになる。その結果、ききては、さらにもう一歩、オペラに踏みこむ。そのような経過をたどって、オペラという宝の山の全体像がしだいにみえてくる。
オペラの演奏時間の長さについても、似たようなことがいえる。当初は、全曲をつづけてきいてしまおうなどと、野望を抱かないことである。きいていて、退屈したらやめる。なにごとによらず無理はよくない。ききたいところだけをきけばいい。そうやっているうちに、オペラとのつきあい方のコツもわかってくる。
一九〇二年にカルーソーのうたう「衣裳をつけろ」のレコードを買ってきいたすべてのひとが、オペラ「道化師」の全曲をきいていたとは考えにくい。カルーソーのレコードを買ったひとの大半は、それがオペラのアリアであることさえしらずに、まるで当時のヒット曲をきくような気持できいたのかもしれなかった。
オペラにとって望ましいことだったのかどうか微妙なところがあるとしても、レコードがSPからLPにかわり、さらにコンパクトディスクにかわることによって、片面あたりの収録時間が格段にのびた。そのような変化にともない、SPレコードの時代にはかならずしも数多くあったとはいいがたかったオペラの全曲盤が、積極的に録音されるようになった。
カルーソーのうたう「衣裳をつけろ」のレコードであれば、まるでヒット曲をきくような気軽さできけた。しかし、「道化師」の全曲盤ともなれば、そうはいかなくなった。一時間半もの間、じっくり腰をすえてきかなければならない、と考えると、それだけで気が重くなり、どうしても敬遠したくなる。とはいっても、オペラで特徴的な演奏時間の長さを恐れるあまり、オペラそのものをさけるのは、いかにもつまらない。
そして、もうひとつ、これからきこうとしているオペラの世間での知名度にまどわされる必要はない、ということもいっておくべきであろう。ミリオン・セラーになったレコードでカルーソーがうたっていたのは、「カルメン」のアリアでもなければ、「椿姫」のアリアでもなかった、ということを、やはりここで思い出しておきたい。オペラならなんでもいい、というのは、いかにも乱暴ないいかたのように思われかねないが、すくなくともオペラの前でためらっているよりは、ともかくきいたほうがいい。
むろん、楽しみやすいオペラもあれば、とっつきにくいオペラもある。もっとも、それは、オペラにかぎらない。小説だって、映画だって、あるいは絵画にしろ、同じことである。一方に陽気なオペラがいいというひとがいれば、もう一方には悲劇が好きだというひとがいる。自分の好みに嘘をついてオペラとつきあおうとしても、それではつきあいが長つづきしない。好きになれそうな、自分にあった作品からきく。それがコツである。さまざまなオペラがあるので、好きになれそうなオペラを探すのはさほど難しくない。
日本にも、ヨーロッパの国々のように、それぞれの都市にオペラハウスがあって、オペラが頻繁に上演されていれば、もっとオペラ好きがふえるだろうに、というひとがいる。一理ある意見である。たしかに、日本にはオペラハウスがないし、オペラの上演も欧米諸国にくらべれば、まだまださかんとはいいがたい。しかし、なにごとによらず、ないものねだりをいってもはじまらない。
そこで、とりあえず、オペラを音楽として楽しむことをおすすめする。音楽として楽しむということであれば、コンパクトディスクとか、あるいはレコードが、有効な手助けをしてくれる。オペラもまた、シンフォニーやコンチェルトと同じように、音楽である。音楽であれば、ベートーヴェンのシンフォニーをきいたり、あるいはモーツァルトのコンチェルトをきいたりして楽しむように、オペラも楽しめるはずである。
ためらいは、約束されている黄金の時を無意味におくらせるだけである。思い切って、オペラという大木からいずれかの果実をもぎとったときに、オペラとの、おそらくそれから一生つづくと思われる楽しみにみちたつきあいがはじまる。
そこで、まず考えるべきは、オペラという大木から、最初になにをもぎとるか、である。オペラならではの波瀾万丈の物語に魅力を感じるか、それとも、テノールによってうたわれるアリアできく極上のメロディにうっとりとするか、はたまた、超絶技巧を駆使してうたうソプラノの華麗な技に心ときめかすか、あるいは、ビデオディスクでみられる豪華絢爛たる舞台にみとれるか、なんなりと、お気にめすままである。
いずれにしろ、そこでもぎとった果実が、オペラという、遠目には難攻不落の城塞にみえなくもない、かずかずの秘宝を隠しもつ建造物を陥落させるための最初の一矢、つまり突破口になる。ともかくあのアリアが好きだから、あるいは、ともかくあのオペラの筋が好きだから、ともかくあのテノールが好きだから、それでいい。ミーハーを恥ずかしがることはない。堂々とミーハーで攻める。これがオペラ攻略の鉄則である。
そしてもうひとつ、欲ばらない、ということである。一度に、あの果実もこの果実もと思えば、愚かな猿に似て、当初の目的をはたせないまま木からころげ落ち、尻に痣でもつくるのが関の山である。オペラのような大木を一気に制覇してやろうなどとゆめゆめ考えないことである。最初の一矢をはなてれば、あとはもうこっちのものである。難攻不落の城塞に隠された秘宝は、むこうからころがりこんでくる。
ぼくは、この本を、これまでまったくオペラとつきあった経験のない、しかしオペラのことが気になりかけはじめている友たちのために書く。これは、とっつきにくいと思われているオペラへの、ぼく流の、お誘いというより、口説きである。
もし、この本を読んでいただけで、その結果、それではオペラをきいてみようか、ということにでもなっていただけたりすれば、ぼくは、うれしさのあまり、おしめをとりかえてもらうときの赤ん坊のように、ベッドにひっくりかえって足をばたばたさせるはずである。
オペラのたのしさをしるために必要なのは、専門的な知識ではない。ほんのちょっとしたきっかけ、あるいはほんのちょっとしたはずみ、である。ぼくは、象を撫ぜた群盲のひとりにとどまることをおそれず、ほんのちょっとしたきっかけか、あるいはほんのちょっとしたはずみをつかんでいただくことを願いつつ、オペラという巨大な象のあちこちを撫てまわし、それをことばでつづることにする。