レコードの値段が、じわじわとあがっているような気がする。困ったことだ。持っている金は有限なのに、あれもこれもほしくなるものだから、レコードにしろ、本にしろ、電車代にしろ、喫茶店のコーヒー代にしろ、値上げされると、痛い。
すでにお気づきだと思うが、最近のレコードは、たすきに値段が印刷されているだけで、ジャケットにはかつてのようには価格がついていない。近いうちに大幅な値上げをするためのレコード会社側の準備ではないかななどと、いらぬかんぐりをしてみたくなったりする。あらためていうまでもないが、レコードだって、安いほうがいい。二五〇〇円であるより、二〇〇〇円のほうがいいし、二〇〇〇円であるより一〇〇〇円であるほうが、こっちとしてはありがたい。一枚買う金で二枚買えるとすれば、単純に、たのしみが倍になる。
レコードとて、安いにこしたことはない。それは自明の理である。それを、まず、前提として、少し考えてみたい。
レコード店で、財布から金を出して買うのは、レコードというものである。たかがボール紙のケースに入ったビニール盤である。なんの変哲もない丸いビニール盤に、些少のとはいいがたい金を支払うのは、それを、わが家のターンテーブルにのせ、針をおろせば、ききたいと考えている音楽がきけると思えばこそだ。多分そのレコードからきこえるはずの音楽は、自分にとって楽しいものだろうと、その時考えている。
またある時、その音楽好きは、プレイガイドのカウンターにいる。むろん彼は、彼のお気にいりの音楽家の演奏会の切符を手にいれようとして、そこに来たのだった。幸い、切符は、あった。彼は、香盤と称する劇場・演奏会場の観客席の座席表を見せられ、どこの席がよろしいですかなどといわれる。席は、値段によって、いくつかのランクにわかれているのが普通だ。そこでいろいろ思いめぐらす。最近はどうもPAのよくないことが多いから、なるべくPAの影響をうけない前のほうの席を買おうとか、あの音楽家を少しでも近くで見たいから中央の前の席を買おうとか、このところものいりつづきだからできるだけ安い席にしようとか、あれこれ考えた結果、しかるべき金を支払い、切符を手にいれる。ここでも、金を払ってうけとるのは、切符というものである。
しかしそのものは、ただもっているだけでは、なんの意味もない。きめられた日時に、きめられた演奏会場に出かけて、はじめて効力を発揮する。さもなければ、それはただの紙くずでしかない。
レコードというものにしろ、音楽会の切符というものにしろ、こっちとしては、そのものがほしいのではない。レコードをかけてきこえる音楽、切符を持っていくことによって入れる演奏会場できける音楽がほしいだけ。結局は、その音楽のために、金を払っていることになる。
さて、演奏会にいった。目的の音楽家がそれなりの演奏をした。そこで、多くの人は、拍手をする。拍手には、多少は儀礼的な意味もこめられているだろうが、まず、一応の満足を味わったことの表明としてうけとっていいだろう。みもふたもないいい方になってしまうが、たとえば三〇〇〇円払って買った切符できいた音楽会で拍手をしたということは、そのききてが三〇〇〇円分たのしめた、三〇〇〇円のもとがとれたと考えたからではないのか。
こんな音楽会で三〇〇〇円もとってひどいもんだと思えば、拍手をすることはないだろう。しかし、そのききては、その時の音楽家に、お前は三〇〇〇円もふんだくって、こんな音楽しかきかせないとはふとい奴だとつめよることはできない。なせなら、その音楽会には、その音楽家にたのまれていったわけではなく、自主的に、たのしめそうだと思って出かけただけだからだ。もとはといえば、その音楽会がたのしめそうだと思ったききての側にしくじりがあったことになる。
むろんそれから先のことは、つまりもうその音楽家のレコードもきかなければ、音楽会に出かけなくなるだろうが、そのことは、ききての判断にまかされる。
レコードについても、ほぼ同じことがいえないか。
一枚のレコードを買ってきた。そして、きいた。すばらしいレコードだった。そのレコードを買うために二五〇〇円支払ったが、こんなにいい音楽がきけて、こんなに録音がいいのだから、二五〇〇円では申し訳ないような気がする、と思うことがある。また、ある時は、きいてみて、なんだつまらない、せっかく二五〇〇円も出すのだったら、これではなく、あっちにすればよかったなと思うこともある。感想は、そのレコードがきかせてくれた内容によって、さまざまにかわる。いかにもえげつないいい方にならざるをえないが、すごく得をしたと思える時もあれば、なんとなく損をしたと思えることもある。
しかし、本当に、損をしたのか? そこのところで、ちょっとひっかかる。
レコードは、演奏会とちがって、二度も、三度も、つまりくりかえしきける。多分、けちなせいだろう。買ってきたレコードで、なんとなくたのしめないなと思ったレコードでも、たいていは、もう一度か二度は、きいてみる。なぜ自分にはたのしめなかったのだろうと考えながら、きいてみる。そのうちに、たのしめなかった理由が、自分なりにわかったり、あるいは、思いもしなかったことながら、次第にたのしめるようになる、つまりそのレコードのよさが理解できるようになったりする。なんのことはない、二五〇〇円も払って損をしたなと、一度は思ったレコードで、二五〇〇円以上も、結果として、たのしませてもらっていたことになる。
ききてのほうで一歩ふみこんできこうとすれば、全部が全部とはいわないが、かなりのレコードは、ききての期待にこたえてくれるもののようだ。いいかげんに、そっくりかえってきいていて、それで、いいのわるいのというのは、駄々児が駄々をこねているのと、そんなにかわらない。ケーキもいや、アイスクリームもいや、バナナもいやとすねているのは、子供ならまだかわいげもあるが。
レコードは高くなった――と、人はいう。たしかに高くなった。高くなるのは困る。安いほうがいい。しかし、どうだろう、生活感覚的にも、高くなったといえるだろうか。映画の入場料、芝居の料金、本の値段、喫茶店のコーヒー代とくらべて、どうか。
レコード会社はけしからん、じわじわとレコードの値段をつりあげている――と、あたかも消費者の味方風に、青筋たてて発言すれば、大向うの拍手喝采をうけるのは、わかっている。しかし、そんなことはいわない。レコードが高くなってもいいなどといっているのではない。レコードは安ければ安いほどいいと思っている。
このレコード、高いじゃないか――と、たとえば、そう、最近出たレコードでいえば、レニー・トリスターノの「メエルストルムの渦」について、いったとしよう。その言葉は、たまたま、レコードというものに対してのものであって、じつは、こっちにとって肝腎なのは、レコードではなく、そのレコードできける音楽だとすれば、本来は、この音楽、高いじゃないか――というべきものだ。
レコードの値段について云々することは、レコードからきこえる音楽の値段について云々することでしかないということを、まず知るべきだ。レコードで音楽をきく場合、音楽家がかなでる音楽と、ききての間に、レコード会社という、決して十露盤(そろばん)を片手からはなさない企業が介在する。そのために、ことは、多少ややこしくなる。しかし、レコードというものは、音楽をきくためのものでしかないということを忘れるべきではないだろう。
じつは、そのレニー・トリスターノのレコードには、いたく感激したのだから、ここにたとえとして出すのに適当でないかもしれぬが、もしそのレコードに対して、このレコード、高いじゃないか――と、いったとしたら、その言葉は、そのレコードを発売しているレコード会社にむけられているというより、そこに自分の音楽をおさめているレニー・トリスターノにむけられていると思わないといけない。
音楽家に対して、あなたの音楽はつまらなかった――と、いったことがあるだろうか。たいていの音楽家は、むきになって、ききかえしてくる。どこがつまらなかったんだ、いってくれ。それなりのこっちの感想をのべる。その程度では、たいてい、相手は納得しない。ちょっとした議論になることが多い。議論になるのは、それはそれでいい。問題は、徹底的に議論した後にも、なおかつ、その音楽がつまらなかったといいはれるかどうかだろう。その自信があれば、あなたの音楽はつまらなかったということは、一向にかまわない。
「メエルストルムの渦」は、二五〇〇円だ。このレコード、高いじゃないか――と、いうことは、レニー・トリスターノにむかって、トリスターノさん、あなたの音楽は、二五〇〇円の価値がないですね――というのと、同じだ。
相手が、レコード会社だと思えれば、レコードが高すぎると、ことさらの勇気がなくてもいえる。それがそうでないから、われこそはレコードの買いて=音楽のききての味方といったように、勇ましくはなれない、なんとなくおびえが先にたつ。
むろん、レコードの値段は、音楽家がきめているのではなく、レコード会社がきめているのを知っている。だから、レコードが高い――という不満は、かならずしも音楽家にむけられているのではなく、レコード会社にむけられているのだということもできる。そこで、レコード会社はけしからん――という言葉もでてくるのだろう。たしかにそのように考えられなくもない。しかし、ことをせんじ詰めると、レニー・トリスターノの音楽が二五〇〇円で高いか安いかということにならざるをえない。その場合の二五〇〇円は、レコードというものの値段であると同時に、レニー・トリスターノの音楽の値段だからだ。
はなしがここまできたら、そう、とまどうことはない、さらに先にすすもう。
トリスターノさん、あなたの音楽は、二五〇〇円の価値がないですね――と、せいいっぱい勇気を出して、いったとしよう。これは、まだ出版されたばかりの、したがって文庫本ではでていない新刊書を、たとえば一五〇〇円で買ってきて、残念ながら昨今はハードカバーの本だと一五〇〇円でも決してとびきり高い部類には入らないのだが、それを読んで、その著者にむかって、あなたの文章は、一五〇〇円の価値がないですね――というのと、そんなにちがわない。
ともかく、せいいっぱいの勇気を出して、そういったとしよう。そうですか――と、多分、相手は、いうだろう。そんなものをなぜあなたは買ったのですか、別にぼくが買ってくれとたのんだわけでもないのに――と、いうかもしれない。あるいはまた、そんなに自信をもってぼくをなじれるほどの耳をあなたはおもちなのですか――と、いうかもしれない。さらに、人によっては、二五〇〇円分あなたをたのしませるにはどうだったらよかったのですか――というかもしれない。
いずれにしろ、あなたの音楽は二五〇〇円の価値がない――といいきるからには、反論を覚悟せざるをえない。その覚悟があって、このレコード、高いじゃないか――という言葉なのかどうか。
レコードは、絶対に、安いほうがいい。有限の金で、レコードを買いたい、本も買いたい、ときにはオーディオ装置もとりかえたい、音楽会にもいきたい、映画もみたい、そんなにしばしばでなくていいからたまには友だちと外で酒でものみながらしゃべりあいたいと思っている人間にとって、少しでも高くなることは、やはり痛い。
音楽には、本当は、値段がつけられないはずだ。しかし、レコードにしろ、演奏会にしろ、値段がある。たまたま値段といわざるをえないような気がする。とくにレコードについては、そう思う。考えてみてほしい、レコードは、あれもこれもほぼ二五〇〇円前後だ。ワン・ステージで一〇〇万円とると噂されているオペラ歌手が二人も三人も参加したレコードだろうと、ほんの二、三ヵ月前にデビュウしたばかりのフォーク・シンガーのレコードだろうと、値段の上ではかわらない。不思議といえば不思議だ。計算だかいレコード会社のことだから、どこかで帳尻をあわせているのだろう。
それはそれでいい。ききてとしては、音楽として満足できれば、それでいい。
このレコード、高いじゃないか――という言葉は、レコードをひとつの商品とみなしてのものだ。レコード会社にとって、たしかにレコードは商品かもしれぬが、だからといって、ききてまでもが、レコードを、石鹸やインスタント・ラーメンと同じような商品と考えなければならないということはない。レコードを商品とみなせばこそ、このレコード、高いじゃないか――といえる。ききてにとって肝腎なのは、レコードというものではなくて音楽だ。
音楽は、きいてやるものではなく、きかせてもらうものだ。音楽の値段について考える場合、やはりどうしても、そのことにふれざるをえない。石鹸を買う時の買いては、消費者という王様なのかもしれぬが、レコードを買う時の買いては、レコードというものを手に入れることが最終目的ではありえず、音楽をきくということが最終目的だから、王様たりえない部分がある。王様たりえない人間が王様ぶったことをいうのは、やはり下品だ。
そこで、どうしても、音楽はきかせてもらうもの、だということを考えなければならなくなる。
東中野というところに住んでいるが、先月までは、新宿まで電車で出るのに、三〇円でたりたが、今では、六〇円ないと、新宿までいけない。国鉄の料金があがったからだ。三〇円でたりたところが、六〇円必要になったということは、つまり倍だ。出かけるということは、必然的に帰ってくるということでもあるから、新宿に出かけるたびに、これまでより六〇円ずつ多くかかるようになった。
東中野から新宿まで出るには、ほかにたとえばバスをつかうこともできなくはないが、昨今の道路事情を考えれば、時間的に、国電のほうが、はるかに有利だ。それでまず、普通だったら、電車にのる。その時の、ぼくは日本国有鉄道の、ごくごく小さな客だ。こっちが金を払うのだから。
しかし――、そこで考えてしまう、はたして、国電にのってやっているのか、それとも国電にのせてもらっているのか。もし東中野から新宿まで行く方法がさまざまあり、それらが、金銭的、ないしは時間的に条件が同じなら、それを利用する人間としては、あれにしようかこれにしようかと、選ぶことができる。その時はじめて、多分、A電鉄でもなく国鉄にのってやっているのだと思うことができる。
むろん、今は、そうではない。他に、たとえばバスがつかえるとしても、時間のことを考えると、やはりどうしても国電にせざるをえないという事情が、こっちにある。たいてい出かける時は、音楽会のはじまる時間とか、友だちと待ちあわせた時間とか、ともかく、なんらかの予定の時間がある。それに間にあわないと困る。家から駅まで歩いて何分、東中野から新宿まで何分と、あらかじめ考えておいて、家をでる。そういう予定をたてるのが可能なのは、国電だ。バスだと、そうはいかない。道のこみ方によって、時間のかかり方が、大幅にちがってしまう。
すると、こっちに、選択の余地は、すでにないことになる。つまり、待ちあわせた友だちを待たせたりしたくないと思えば、国電にのせてもらうより他に方法がないとういことだ。もはやぼくは、のってやるのではなくて、のせてもらうのでしかない。
はなしをここまでもってきたところで、いきなり、レコードのことに、もどることにしよう。
一枚のレコードがある。そのレコードできける音楽は、原則として、そこでしかきけない。その音楽をきこうと思えば、そのレコードによらざるをえない。音楽会についてだって、同じことがいえるだろう。つまり、本当は、ききての側に、選択の余地はない。
いや、そんなことはない――という、反論の声が、今にも、きこえそうだ。レコードは、あんなに沢山あるじゃないか、そのうちからどれをえらぶかは、他ならぬ選択だろう――と、その反論の声はいう。しかし、待ってほしい。それは、問題のすりかえというものだ。
レコードをきく人は、レコードで音楽がきければなんでもいいと思ってきいているわけではない。たいていの場合、なんらかの目的がある。たとえば、東中野で電車にのって、新宿にいきたいといったような目的がある。
ポリーニがショパンのポロネーズをひいたレコードがでた。それをききたいと思ったとしよう。ショパンのポロネーズがききたいと思って、そのレコードを買う人もいるだろう。その場合、ショパンのポロネーズがきけるのは、ポリーニのレコードだけではないから、まだ選択の余地がのこされている。しかし、ポリーニのショパンのポロネーズ集となると、そのレコードしかない。
ここまで書いてきて思いいたったが、漫然とレコードを買うなどということが、はたしてありうるだろうか。レコード店に足をふみ入れた人には、買うべきレコードをたとえきめていないにしても、それなりの目的がある。新宿にいきたいのか、銀座にいきたいのか、それとも上野にいこうとしているのか、その程度のことは、自分で承知している。だからレコード店に足をふみいれたということもいえるだろう。
ほしいのは、先程のいい方にならっていえば、レコードというものではなく、そこできけるはずの音楽だから、その時、なにをききたがっているかは、自分で知っていて不思議はない。
なんでもいい、音楽がきければどんなレコードでもいい――というのなら、むろん、選択の余地はいくらでもある。そうやって買ったレコードなら、きいてやると考えたとしても、不思議はないのかもしれない。しかし、たいていは、そうではない。それをききたいと思ったら、そのレコードしかないから、そのレコードを買うといったように、少しおおげさないい方をすれば、せっばつまったところで、レコードを買っている。選択の余地は、本当は、ない。それをなんとなくあるように思っているのは、錯覚だ。
ある一枚のレコードできける音楽は、そこでしかきけない。そこに、そのレコードの、レーゾンデートルがある。このレコードでもきける音楽が、あのレコードでもきけるというようなことは、ありえない。レコードは、その意味で、どんなレコードでも、唯一無二だ。
そして、もうひとつ考えなければいけないことがある。ききたいのはこっちだということだ。レコードのほうで、お前にきいてほしいとたのんだわけではない。にもかかわらず、たのまれもしないのに、ききたいから、きく。つまりそれは、きかせてもらっているとしかいいようのないおこないだ。
きかせてもらうという言葉が暗示するのは、ききての側で音楽に歩みよっていく姿だ。本来、音楽とは、そうやってきくべきものと思うが、音楽がレコードというものの姿をとっているために、その気持をわすれる。そして、ききての態度は、嫌にいたけだかな、思いあがったものになりがちである。そこで、きいてやるという意識が、増殖しはじめる。
そういう意識と、レコードの値上げに対しての感情が手をむすぶと、妙なことになる。
さらにここで、もう一度くりかえしていうが、レコードの値上げは、痛い。レコードとて、安ければ安いに、こしたことはない。それは、国鉄の運賃があがるのと、そんなにちがわない。昨日まで三〇円でいけたところが六〇円になって痛いのと同じように、少し前まで二〇〇〇円で買えたレコードが二五〇〇円になるのは痛い。
ただ、そう、すでにお気づきのように、電車は、一応の生活をしていこうと思ったら、どうしても乗らざるをえないが、レコードはそうではない。レコードをきかなくても死にはしない。かつて学生時代には、レコードを買いたいばかりに、散髪にもいかず、喫茶店にもいかず、東中野から新宿まで歩いたことさえあったが、それとこれとを一緒にすべきでないだろう。
そしてここでふたたび、はたして二五〇〇円のレコードを二五〇〇円分きいたのかという、はなはだえげつない、そしてせちがらい自問に、もどることになる。
一枚のレコードを買ってきた。コーヒーなどいれながら、それをきいた。きいてみたら、あまりたのしめなかった。なんだつまらないじゃないか――などと、ひとりごとをいってみたりした。二五〇〇円損したような気持になった。たかが四〇分で二五〇〇円だ、これは安いとはいいがたい。
もし、ことがそこで終っていれば、それまでのことだ。ひとりの人間が一枚のレコードを買ってきて、そこできけた音楽をつまらないと思い、二五〇〇円損したと考えた――、ただそれだけのことだ。
しかし、もし、その人が、それにしてもなぜ、このレコードできける音楽はつまらないのだろうと考えつつ、もう一度ききなおしたらどうだ。さっきの四〇分と今度の四〇分で、合計八〇分、つまり一時間二〇分、ひとつの音楽とむきあったことになる。
ここでひとつ、いかにも下品な計算をしてみる。二五〇〇円のレコードを一度だけきいて、そのレコードの音楽収録時間が四〇分だったとすると、一分あたりの値段が六二円近〇銭だ。それが、なぜだろうと考え、もう一度きいたとすると、当然、一分あたりの値段は、三一円二五銭となる。同じ二五〇〇円のレコードで、一分あたりの値段が六二円近〇銭になったり、三一円二五銭になったりするところに、レコードの値段に微妙さがあるとはいえないか。
たのしめなかったレコードでさえそうだ。それでもし、二度目にきいて、どこかたのしめそうなところをみつけたとなれば、これはまたなによりで、一分あたりが二〇円八三銭になり、四度きけば、一分あたり十五円六二銭になる。
えげつないはなしは、このへんでやめておこう。いいたかったのは、ただ、レコードの値段が、可変だという、そのことだ。
何度きいてもたのしめなければそれまでではないか――という反論は、しかし、筋ちがいだ。数あるレコードのなかには、当然、たのしめるレコードもあれば、たのしめないレコードもある。これは当然のことで、あらためていうまでもない。ただ、そのレコードを敢て買ってきたのが自分だということを棚にあげてしまうことはできない。
それともうひとつ、昨日たのしめなかったレコードで、今日はたのしめるようになったレコードだってなくはないということだ。ききては誰でも、そうやって、きく音楽の数をふやし、幅をひろげてきたのではなかったか。きいてみて、最初たのしめないと思い、ききかえしているうちにたのしめるようになればそれでいいが、ついに最後までたのしめなかったら、それは、まったく無駄なことをしたことになるのかどうか。
そうとはいえないように思う。たとえたのしめなかったとしても、そのレコードをきいたことが、もう一枚別の、これからきくレコードのきき方を微妙にかえるということだって、なくはない。そういえば、あの時きいてつまらないと思ったあのレコードが――といった感じで思いだすことがある。そのレコードだけとの関係でいえば、つまらなかったというネガティヴな感想しかもちえなかったとしても、そのネガティヴがネガティヴにとどまったままではありえない。
先に、レコードの、何度でもきけるというメリットに関して、書いたが、そのメリットは、ききての甘えを誘う。何度でもきけるという安心が、きき方を甘くするということが、まるでないとはいえないように思う。心がまえというか、音楽に対しての対し方が、音楽会で音楽をきく場合と、レコードで音楽をきく場合とで微妙にちがうところがあるとすれば、そのちがいのひとつに、それが関係しているとみるべきだろう。そういうように甘えてきいて、ということは別のいい方をすれば、薄いきき方できいて、たのしめたとかたのしめなかったとかいっても、それは通らない。
レコードの値段というのは、つまり音楽の値段である。
もし、レコードというものを持たずに、レコードをきくように自由に、きままに音楽がきけるのなら、大助かりだ。しかし、現実には、そうはいかない。ききたいと思う時にききたいと思えばこそ、さしてひろくもない部屋の中にレコードをおいてある。これは、音楽が、たまたまレコードというものの形をとってしまっているがゆえの不都合だ。
ここでもう一度、誤解のないように、いっておきたい。レコードの値上げがいいなどといっているのではない。レコードは、安ければ安いほどありがたい。もしレコードの価格が今の半分だったら、もっと自由に、あれこれ考えたりせずに、もしつまらなかったらどうしようなどと余計なことを思いわずらったりしないで、レコードを買うことができるのにと思う。
しかし、レコードの値段については、あまりたかびしゃないい方はしたくない。なぜならレコードを、きいてやっているとはついに考えられず、きかせてもらっているとしか考えられないからだし、その値段について四の五のいうことは、結局自分のきき方を問いかえされることになるのがわかっているからだ。
その件に関して、値上げはけしからんと、声を大にしていえる人が、時に、うらやましくなる。値上げを痛いと感じつつも、もしそういったが最後、それではお前はこのレコードをちゃんときけているのかという問いに答えなければならない。
つまらないレコードを買っちゃったな――と思うことがある。同時に、損したな――とも思う。しかし、つまらなかった責任は、いったいどっちにあるのか。音楽家の側にあるのか、それともききての側にあるのか。音楽がつまらなかったからつまらないと感じたのか。それともきき方がいけなかったがためにつまらないと思ったのか。これは、おそらく、結論のでようのない議論になる。
しかし、ききての側にも、自衛の方法はある。一枚のレコードがきかせてくれる音楽から、これまで以上のたのしみをひきだせばいい。少しろこつないい方になるが、二〇〇〇円のレコードを買ってきて一五〇〇円分しかたのしめなかったとすれば五〇〇円損したことになるが、二五〇〇円のレコードを買ってきて三〇〇〇円分たのしめたとすれば五〇〇円得したことになる。レコードの値段は、レコードのきき方にかかわる。値上げを怒る前に、ぼくだったら、ききてとしての自分を問いなおす。ぼくははたして充分にきけているのかどうかと。レコードの値段、つまり音楽の値段は、そこで、きまる。
(一九七六年十一月、十二月)