現実は、メディア世界の被膜的機能だけを情景のコラージュとして記号化していく。そして、記号化は、人間の感覚を恒常化、平均化、均質化画一化へと推し進める。結果、かたちあるものも、かたちなきものも同一知覚のアトラクタへ至らせるものである。現実対幻想、現象対心象、饒舌対沈黙、発想は後者側をリペロ(アトラクタに対する離脱点)としてプロセス化されなければならない。したがって、今、デザインは情景のコラージュ(記号化されやすい)の再生産、上貼りであってはならないはずである。音=かたちなきもの、音のある景観=かたちあるもの、この両者へのイメージ構築は景観論的アプローチを当然としていると考える。景観論は、音・ものがたりの序論でもある。
1.情景――それは、(人間―人間)系空間、(人間―人間)系時間を意味することばであり、現代社会に意味される(人間―生活)系要素、要員を関係づけている場面、景観の名称である。そこで、音のある情景とは(人間―音―人間)系空間、音の時代性、音の社会性という点でのみ語られることになる。したがって音の存在とは、音源、発音体、メディア(楽器とか音響機器等を含む)の存在と同位置ではない。発音体の形態、かたちを登場させて、音の存在を語ることはありえない。たとえば、ラジオのスイッチを入れた瞬間、ラジオの存在は見えていたものとしての存在から、その聞こえてくるプログラムの内容と人間、送り手―受け手という関係だけが、景観、情景となることである。白いステレオは、それが存在する明るく、若さに満ちた生活という情景のコラージュが、予想される記号化された造形としてのみ理解され、音楽家の一人でもが、白いステレオで聞いてくれとは要求しないものである。送り手―受け手という関係が、これほどまでに取り沙汰されていても、情景のコラージュの重複(送り手側の情景と受け手側の情景)ではT音Uの存在は、それぞれの記号化された理解の仕方の中では吟味されつくしているとは言いがたい。このことは生活の局面というやつは、かたちあるものも、かたちなきものも、かたちなきものとして扱う制度すら作ってきてしまっているのではないだろうか。情景のコラージュの下貼りの素材は未確認のままである。記号は拡大解釈、使われるとき、ところで、新しい意味付けを拒否していること。そして万人はそのことに慣れすぎているとも言える。
2.光景
 音はかつて、粒子論と波動説をもって解説された。ものは、マクロ的宇宙空間の構造とミクロ的物質空間構成が同一のものという現代物理学的結論のまえに明らかでもある。3°Kの宇宙黒体輻射(宇宙背景輻射)が、イメージから問われ、実証された事実。ブラックホール、ワームホールの存在、これらは宇宙空間の未知なる光景であるイメージは光景に対してエネルギッシュである。さらにクォークなる原子核構成粒子の発見。
 ※ 深町純・クォーク賛!
 アップ、ダウン、ストレンジ、
 チャーム、ボトム
 そして未確認の六番目のクォークを知るために、ライナーノートにあなたの作曲のための記号を見たいものです。恐らく理論物理学者よりいち早く六番目のクォークのかたちを知ったのでしょうから。レコードディスクの回転速度の上にJプサイ粒子、ウプシロン粒子のかたち知覚するには、
 ヘッドフォンを使うべきとも思いますが、それなら、バイノーラルレコーディングのアルバムTクォークUを一ファンとして望みます。
光景に対し、イメージは度外視していくものの存在を許さない。音と光景の中で問いただすとき、東洋の知恵こそ有効である。
 地球誕生、宇宙空間の原景は、百数拾億年前に始まる。空間の爆発は太陽とそれをとりまく惑星、物質=エネルギーのイメージを確認した光景の始まりを、古代人も知っていたのではないか。光と影、+と−、陽と陰、N極とS極、光なき空間は闇である。音が空間に対する波動現象と結論づけられ、光=波動とともに空間規定の要因である。そして音は聴覚により知覚され、光は視覚を刺激する。視覚が約10の6乗ビット/秒、聴覚が約10の4乗ビット/秒という情報量認識の差はあっても、光景の成立が、知覚、そしてイメージ世界の原点であることは事実である。しかも、音という漢字の起源に至っては、(音・暗・闇)ということばのかたち、記号のうちに、空間→光の連関性は見逃せない。さらに音のミクロ的構造の解釈が、言を陽極とし、音を陰極にする座標軸の設定が可能であるということもある。音とは、大地(土)に立つ人間の口の中に何か物があり、モグモグとした発音状態(陰)を示し、言とは、口が刃物のごとく、ことばにトゲがあるほど明快な発音状態を形象化したとある。(藤堂明保著漢字語源辞典より)そして、その説は、諳誦の諳(当用漢字では暗誦)がその対応を表現し、識はさらにその状況へ刃物(戈)で切り込んで、切り口を明化させた表現を示しているとすすむ。漢字という記号は、原義的意味論として、東洋論理、直感の形象化としてもその深度に魅せられはしないか。今、記号論、信号論、音楽、意識論のひとつの発想基盤になりはしないか。言、記、信、音、暗、意、識、闇……始原空間としての光景―闇―沈黙、そして音に、東洋の古代人は到達していたのだと思うものである。
 「沈黙は音以上に様々なパラメータ(我々がまだ気づいていないパラメータも含めて)を表わしている。 J・ケージ」
そしてまた、日本における「おと」は、物と物とが当たる……アタ→オト、
 「都武賀野(つむがの)に鈴が於等(おと)聞こゆ可牟思太(かむしだ)の
  殿の仲子(なかち)し鳥狩(とがり)すらしも(万葉)」
於(座標)等(比較・イコール)。
オトろくこと→大きな音、おと(ちいさなもの・おとうと(弟)→小さな音、ね、音色(ねいろ)など、言葉の起源へのイメージは光景への追想でもある。人間が最初に聞く音、それは母の胎内でのあの心音であり、自分自身の鼓動、心音、意識の意(・)ではないだろうか。
3.風景
 光景に訪れる自然現象の様々は、人間の知覚の上でその空間を風景と呼称することになる。ものがたりの要素は四つである。日食による突然の暗黒、月食の光と影、天空をよぎる彗星、その大地との衝突、天を切り裂く雷鳴、風雨、すべてが恐怖体験であったことだろう。風景の成立こそ、自然への畏敬の始まりであったのである。もののかたちに神が宿る思いやり、いのりの出発である。
 乾(天)と坤(地)陽陰の図象化は、形象変通に、光と音の知覚として、人間の生理に決定因子化される。その知覚に、平安を求める祈り、願いが民族それぞれの行動として体系づけられるのも、風景の成立を生活に重ね合わせるのもイメージと、その知恵である。光は、闇にもたらされるとき、恩恵そのものである。闇に響く音の存在は、不安、恐怖ではあったが、風景に音を配す、音楽という知恵にまでなってくるのである。音をエレクトロニクスというテクノロジーで、創造、制御、情報化するまでに至っている我々に、まだまだ、風景の成立は無限といえよう。風景の設計(修景)に、闇、原景、光景、そして形象変通を基本とした姿勢は、憧憬そのものではないだろうか。
4.修景(デザイン)
 日本庭園に配された、ししおどしの乾いた竹の音と、小鳥のさえずり、その一幅の風景。あのししおどしのかたちは、エレクトロニクスにどう対置して創出出来るだろうか。夏の清涼感を求めた軒先の風鈴。風土が生んだ素材とかたちを、我々は現代テクノロジーの音を発するかたちに、脈絡づける態度を有しているだろうか。たとえ情景のコラージュが現実としても、修景づくりのイメージの採集は情景のコラージュの下貼りの素材になるはずである。
(流行通信 1980年8月号 No.199)