「603Bがあるんですってさ。この日本にも」という編集S氏の話。「へえ、やっぱりねえ、ところでそれ、604Eとは全然違うだろうね。昔、銀座の松坂屋裏のジャズ喫茶の奥にあったのが603ということだった。スケスケのグリル越しにみてみると、確かに今の604Eみたいなマルチセラーがついていたけど、どうみてもその奥は布の保護カバーを通して金属ダイアフラムみたいのが、確かあったようだ。でも今は渋谷の道交坂にあるそのスイングのオヤジは、いやこれは2ウェイ・コアキシャルだといっていた。でも、あの時のキッド・オリーのトロンボーンのうなりはすごかったな、本物と聴き間違えたくらいだった。このスピーカーの前に立つまでは」とこれはボク。
 アルテックと初めてのこの対決?は、なんと昭和二五年だ。1950年、もう二六年も前のことだから、あやふやなところもあった。でもそれ以来15インチのスピーカーを使うのがさし当っての夢となった。もっとも見かけるだけなら本物の604をその頃でも見ることができた。神保町の九段よりのたしか金声堂というちっぽけだが、おそろしく高価なレコードをちょびちょびと並べてあった店で、正面レコード・ケースの上にデンと604がのせてあった。学生時代をやっと通り抜けた分際で、恐いもの知らずも手伝って、その値段を聴いたら「10万円」とひとこといってぐっと背の低いその老人ににらまれた。むろんその位置から落とすことなど。大学出の初任給4000円の頃だ。でも銀座のスイングで聴いた603がこのアルテックヘの欲求不満をすっかり解消してくれた。銀座から渋谷に移って、しばらくの間デキシー専門に鳴らしていたこの店のレギュラー客になってから、ヴァンガードのヴィック・デケンソン/ショーケースの、ものすごい低音に毎日のように酔い痴れた。でも客の中に上京したての若き藤岡琢也なんかもまじっていたというその頃、つまり50年代初期には日本には正式に米国のハイファイ・パーツはなにひとつ入っていなかった。世界的な市場での優勢を誇ったのは英国製品であって、ワーフデル、グッドマンおよびガラードを始めとした先駆者メーカーであった。むろんクォードもタンノイもまだ見当らないし、ステントリアンさえずっと後だ。当時アルテックのパンケーキこと755、もウェスタン・エレクトリックの製品といわれていたのは戦前から日本に入っていたからだろう。つまり、現代オーディオの米国での源たるウェスタン・エレクトリックの電気音響開発部門が独立してアルテックとなったのが1939年、日米開戦の前年だ。この辺のいきさつを終戦間もない喰うか餓えるかの混乱期に判る術もない。
 さて、あとで聴くところによると、九段の金声
堂は民間局として開局するTBSヘレコード納入をしていたとか。それでスタジオ・モニターがあったのだな。僕にとって604は、こうしてその良さ、素晴らしさをおそらく誰よりも早くからその名アルテックと意識して体験し、さらに数年後には映画設備の仕箏を通してますますそれに傾倒したオーディオの原点である。僕自身オーディオ歴の一番の根底をなしてきたと自覚している。
 幸いなことに昨年、604がマイナー・チェンジを受けてより広帯域化した時、永年の夢、まさに二六年もの夢がかなって手元においた。だから604−8Gを聴くときは僕は二六年前のようなマニアになれるのだろう。 (一九七六年)