JBLことジェームス・バロー・ランシングが自殺を遂げたことをはじめて知ったのは、今からもう10年くらい前になるだろうか。私がある外資系のエレクトロニクス・メーカーに勤務していた頃、そこにいた米国のエンジニアがふともらした話で私はそれを知った。TヒムセルフUという言葉が出たことによって、私はそれが自殺を意味するものであることを瞬間的に悟ったが、どうしても信じられなかった。確かその時は、私がいつもJBLのスピーカーを使っているという話をした時に、そのルイスという年老いたエンジニアが「JBLのスピーカーは確かにいい、しかし彼も惜しいことをした。彼は自分で死を選んだ」と答えたのだというふうに記憶している。
 なぜその時に理由を尋ねなかったのか。今になってみるととても悔まれるのだが、ルイスはKLHとかARに多くの友人を持ち、米国のオーディオ界でもかなり古いキャリアを持っていることから察して、例えルイス氏の活動範囲が東部を中心としていたとしても、西海岸のJBLという大きなスピーカー・メーカーの事情に通じていないわけがなかったろうし、その話をもらした時であれば、あるいは理由を教えてくれたかもしれない。しかし、そのルイス氏自身も既に4年前日本で亡くなっている。
 なぜ私がJBLの自殺に大きな驚きを受けたのか、その理由はおそらくすべてのJBLファンが受ける驚きと同じ理由であろう。つまりJBLスピーカーの優秀さを背景にその創設者が限りない栄光に輝いた自分の生涯を閉じるにあたって、なぜ自らの手で死を選ばなければならなかったのか。JBLは成功者ではなかったのか。偉大なる技術者ではなかったのか。あるいは偉大なる技術者としての自覚を誰にも負けずに誇りとしていたのではなかったのか。そうしたJBLが自殺というまったく逆な行為を選んだということは、私にはどうしても納得いかなかった。そんなことはあり得るはずがないと固く思えたからである。
 JBLの死はこうして10年程前から、私の頭の中に大変不可解な事実として強烈に焼き付けられていたが、その後、年を追うごとに受けた衝撃は高まるばかりであった。これほどの成功者が自ら死を選んだ理由とは一体何であったのか。本当に自殺なのであろうかと、自殺という言葉の確かさまでを疑いはじめていた。
 非常に長い期間、おそらくもう20年近くもJBLのスピーカーを使い、その音楽遍歴あるいはオーディオ遍歴はJBLのスピーカーと共に歩んできた私にとって、JBLスピーカーの優秀さは誰にも負けずによく分るつもりだ。しかもその優秀さを知れば知るほど、それはすべて創設者ジェームズ・バロー・ランシングの手によって当初から与えられたものであることが明らかになり、ますますJBLの自殺を不可解に思うようになった。
 さてここにJBLのスピーカーにおける、大きな二つの流れについて触れてみよう。ひとつには創設期からあるもので、ユニットとしてまぎれもなくJBLの自身が開発したものに違いない15インチ・フルレンジのD130をはじめとして、その12インチ版D131、それから8インチ版D216、そして高音用ドライバー・ユニット175、それにホーンとディフューザー・レンズを装着した175DLH(Dはドライバー、Lはレンズ、Hはホーンを示す)、さらに175をより強力にした275ドライバー・ユニットとより大口径のダイアフラムを持った中音用ドライバー・ユニットの375――中音用というよりも、初期においてはこのユニットは高音用として開発されたはずである――という流れで、これらのユニット群がいわゆる高能率型の代表的なものだ。だが、今日においても高音用の第一号製品として考えられている075の存在はどう判断すべきか。これは難しい問題を孕んでいて、075は果してジェームス・B・ランシングか開発したものかどうかは不明確である。
 そして同じようにジェームス・B・ランシングが開発したかどうか不明なユニットがある。それがD123だ。D123は12インチのフルレンジで、D131と用途は同じでありながら、異なる内容を持っている点で興味をそそられるユニットだ。
 1950年代のはじめ、つまりジェームス・バロー・ランシングが自殺したといわれる1949年から2〜3年後にはD123も075も存在していたのではないかと思われる。少なくとも1950年にはD123も075もなかったのではないか。こうした推理をするのはジェームス・バロー・ランシングが自らの手で開発したと思われるユニットとしては、JBLサウンドの現製品の中でもそう幾つもないということをいいたいからだ。おそらくジェームス・バロー・ランシングが開発したと思われる製品の中で今日その姿を留めていないものはただ一つしかない。それは150Aないし150−4Cと呼ばれるウーファーである。これは130Aウーファーよりも、もう少し深い傾斜をもったコーン紙をもち、しかもそのコーン紙の強度といえば現在の130Aの比ではない。非常に硬い、つまり丈夫なコーン紙を持っているわけで、おそらく用途としてホーンとして使用するためのウーファーではなかったかと思われる。こうした150−4Cが姿を消した理由は非常に単純で、つまり低音ホーンのシステムがJBLからなくなってしまったからだ、ただパラゴン一つを除いて。
 今日、JBLの多くのシステムを構成する中心的なユニットは、すべて今まで述べたジェームス・バロー・ランシングのオリジナル開発製品を基にしたものであるが、とりわけ低音用に関してはかなり様子が変わってくる。つまり現在のシステムを構成するユニットの多くはLEシリーズとして開発されたスピーカー・ユニットの流れをくむものである。
 LEシリーズが登場するのは60年代に入って、つまりステレオが登場して以降のことである。ステレオになってスピーカーが二つ必要なため、大型のエンクロージャーに収めたシステムは衰退することになる。そして比較的小型のシステムでありながら、大型システム同様の深いローエンドを大きな入力で取り出すことのできることを狙った。foを低くしたウーファーが主流になってくる。これは時代の要求であり、時代の所産であった。
 JBL・LEシリーズはこうした内容で開発され、デビューした。当然のことだがこの時ジェームス・バロー・ランシングはいない。彼のノウハウが生きるのはマグネット・アッセンブリーであり、ボイスコイルであり、そのスピーカーに対する基本的な姿勢だけだ。LEシリーズの最初のウーファーと目されるLE15においては、ロングボイスコイルが採用されたことにより、JBLの最も大きな特徴の一つであった高能率からは後退したのであった。マグネット回路の外側にまでボイスコイルをはみださせた結果、能率は低下した(能率が低下したといっても、それはJBLの中での話で、LEシリーズにしても当時ARやKLHに較べればはるかに高能率であった)。スピーカーの考え方として能率を二次的に考えるというのは、ジェームス・バロー・ランシングのオリジナルの考え方とは違う道を歩みたしたといえる。
 これで分るようにJBLのもう一つの流れとはLEシリーズの登場によってスタートされるのである。LEとはリニア・エフシェンシャリーの略で能率を二次的に考え、あくまでも大入力における即ち過大振幅におけるリアリティを追求しようという姿勢によって生れたスピーカーである。代表的なものは、先に述べたLE15Aをはじめとして、LE10A、LE14A、さらにおなじみのLE8Tだ。また175も十分な振幅を与えられることによってLE175というドライバーに生れ変り、さらに275は同様の改良を受けてLE85となった。しかし、この高音用ドライバーに関しては決してロングボイスコイルということではなくて、ただダイヤフラムの振幅をより大きく与えることに成功したという点に注目していただきたい。つまり能率は昔と変わらず極めて高い。だから高音用に関しては、ジェームス・バロー・ランシングの高能率第一主義という点は今日においても貫かれているといってよいのではないだろうか。
 こうしたことをなぜいわなければならないのかというと、ジェームス・バロー・ランシングのスピーカーに対する姿勢というものをはっきりさせておきたかったからだ。あくまでも彼はスピーカーの高能率化を何よりも強く望んでいたに違いない。能率が高いということは彼にとって何を意味していたのであろうか。少なくともJBLサウンドを再建したときには、彼は家庭用のハイファイ・スピーカー・メーカーとしてスタートをきったはずである。つまり家庭用なのであるから、それほど高能率の必要はなかったのではないのか、当然そういう疑問が生じてくる。そう考えるとジェームス・バロー・ランシングが目ざした高能率とは音圧のためのではなく、もっと他のための高能率ではなかったのだろうか。他の理由――つまり音の良さだ。
 周波数特性や歪以外に音の良いという要素を感じとっていたに違いない。その音の良さの一つの面が過渡特性であるにしろ、立ち上がり特性であるにしろ、それを獲得することは高能率化と相反するものではない。むしろ高能率イコール優れた過渡特性、高能率イコール優れた立ち上がり特性、あるいは高能率イコール音の良さということになるのではないだろうか。私にはジェームス・バロー・ランシングが当時において今日的な技術レベルをかなり見抜いていたとしか考えられない。そうでなければあれだけのスピーカーができるはずがない。
 そしてその良さの源としての強大なるマグネット、あるいは軽いボイスコイル、またそのボイスコイルの効率の高さを誇るエッジワイズ、さらに金属ダイアフラムの大きなノウハウ、彼はそれを耳だけに頼って作ったのだろうか。耳だけじゃないにしても、現在からみれば当時の余りにも貧しい測定技術と測定機器によってそれが見抜けたのであろうか。確実にいえることはジェームス・バロー・ランシングの多くのノウハウ、優れた生産技術における業績はJBLのみならず、アルテックさらにはウェスターン・エレクトリックの歴史的ユニットの至るところに輝いているということである。
 その栄光を築き上げた彼がなぜ自ら死を選ばなければならなかったのか。それはどうしても不可解な謎としかいえなかった。JBLを愛する、そのユニットの素晴らしさを知る私にとって、それを解き明かすことが、JBLの本当の良さを、あるいはその良さの源を探る上でどうしてやらなければならないことのように思えるのである。
 さてJBLの死の謎の一つが解きほぐされる時がやってきたようだ。私の推理する話が確かめられることができればその一端は確実に明らかになるはずだ。その鍵がこの数ケ月本誌をはじめ多くの雑誌に出ていたP社の広告である。そこにP社の新しい製品の一つであるHPM−100が示され、その開発に力を与えたと思われるB・ロカンシーの写真が出ている。ロカンシーこそはJBLサウンドの50年代後半から60年代における最も優れたエンジニアの一人だ。彼は技術担当副社長として、今日のJBLを築く大きな業績を残した。今日の彼は何も語らないが、おそらくLEシリーズの多くは彼によって作られたのではないかと思う。つまり彼はジェームス・バローランシングに勝るとも劣らないスピーカー・エンジニアなのだ。
 その彼の手になるというHPM−100、そのウーファーに注目してほしい。それが何とD123と似ていることか。30cm、コルゲーションのついた浅いコーン紙、しかもそれはD123同様塗布剤が前面に塗られている。このことはD123がJBL自身、ではなく、新進の優れた技術者だったに違いないロカンシーによって作られたものではないかということを示している。なぜなら彼が作ったのでなければ、日本のメーカーのために他人の作ったものと同じものを作るわけがない。一人の技術者の技術的道徳心として、自分が作ったものではないものを他のメーカーにいって作ることができるだろうか。つまりD123は、当時JBLの配下にいた若きロカンシーが作ったのである。
 そしてそのことがJBLにかつてない敗北を味わせたのではないだろうか。なぜならJBLの作ったユニットにコルゲーションがついたものは一つもないし、また塗布剤を塗ったものも一つもなかった。コルゲーションを用いたウーファーの振動理論は、平カーブのあるいはストレート・コーンのウーファーと全く違ってしまう。早くいえば分割振動を上手く利用しようというのがコルゲーションの発想であり、さらに、塗布剤によって得られるコーン紙の強度化は質量の増加によって低下するはずだが、このD123においてはそれがごく僅かに抑えられている。それはまったくの技術の革新だ。
 D130以来、確固たる信念を持っていたジェームス・バロー・ランシングは、D123の出現に(しかも同じ社内で)、大きな衝撃を受けたのではなかろうか。彼はD130の12インチ版D131を作っている。当然両者は比較性能テストが行われるだろうし、そしてその結果能率こそやや劣るかもしれないが、コストがはるかに安く、諸特性も格段に優れているD123の高性能ぶりにJBLは生れてはじめて技術的敗北感を味わったのではないだろうか。救いようのない敗北感が彼を襲ったとしたらあるいは――誇り高い完全主義者だったに違いない彼の、もっとも輝かしい技術そのものが敗北したとしたら、JBLが自分の生涯を閉じる大きな理由となり得たのではないか。
 もちろん他の理由もあったかもしれない。もし経営上の問題だったら彼は死を選ぶわけがない。それは何度も味わったことだし、若い頃JBLマニファクチャーズをつぶした時も彼は死ななかった。その後の紆余曲折においても彼は死ななかった。その彼がようやくJBLサウンドを創設した1946年からわずか3年後の1949年になぜ死を選ばなければならなかったのか。それは経営上の問題ではないだろうし、実務上の問題でもないはずだ。おそらく彼を生涯支えてきた技術的なプライドがくじけたときに彼は生きる望みを捨てたのかもしれない。
 今日のJBLサウンドはジェームス・バロー・ランシングの力の及ぶ範囲をはるかに越えた大メーカーになった。創設者は既に神話でしかない。そして現在のJBLを築き上げたのが他ならぬD123以降の系譜であることを思うとき、私は深い感慨を覚えずにはいられない。 (一九七五年)