ゴールデン・ウィーク特有の日射しを窓から受けた眠気を、隣に坐る初老の紳士の気配で覚まされて、後に飛び去る次の駅名を認めた私の視線は、そのビジネスマンとして成功者らしいふくよかな手から、それに支えられている新書版のタイトルに移って、そこでハタととまどった。
 いぶかしさがそれを確かめようと、金縁の眼鏡越しにのぞく横顔を見とどけたが、その真摯としかいいようがないまなざしからは、いぶかしさは一層深まってしまった。
 そのタイトルは「モナリザのすべて」。
 この、どうみても社会的地位もつとめでの肩書も低からぬ、教養深げなジェントルマンは、はたして、一体モナリザをいかに解釈せんとするか。
「モナリザ」を通して、美術を、芸術というものをいかに理解し心得ようとするのか。いや、芸術において大切なのは何であるのかということを、芸術をいかに捉えるべきかを本当に知ろうとし、真剣に考えているのだろうか。
 この人生経験の浅からぬ、教養豊かな中年の紳士に対して、芸術とは何か、ということ、それをいかなることばで知らすべきなのか。「モナリザのすべて」というタイトルから推察されるこの小さな手引き書の内容では、それが全く役立たないどころか、おそらく本当に心得なければならない芸術作品としての「モナリザ」から、ますます遠ざかってしまうに違いないということを告げるに、いかなることばをもってなすべきだろうか。
 この「オーディオ評論とは何か」というタイトルの、それ自体が底知れぬ大きな問題を内蔵しているということは、それを書くべき側においても、それを読むべき読者の側も、さらに、このタイトルを企画し提出した編集者の側にも、心ひそかにだが痛切に暗黙のうち、感じているに違いあるまい。

オーディオに評論というジャンルがあるのだろうか
 それが、今日のような形で認められてしまっていること自体が、実は大きな問題ではあるまいか。いや認めているとしたら、それは評論といわれているものではないのかもしれない。だとすれば、その認めているのは評論ではなくて何なのか。
 海外オーディオ誌は、日本のそれのように夢多い豪華な形ではなく、いうならば実用的な形で、その数も決して多くはない。しかし、その存在するものはそれぞれの国のその分野では、それなりに認められているといってよい。しかも、そのなかにはどこにもオーディオ評論家(クリティクス)は存在しない。紹介者(レビュアー)か解説者であって、さらにそれは多くが個人的なオーディオ愛好者であり研究者か技術者だ。
 昨年、ヨーロッパを旅したとき、スウェーデン、デンマークのディーラーを尋ね歩き、その店の主人との話のやりとりの中において、こうした欧米のオーディオ評のあり方とその受けとめ方をはっきり表わすことばに出あった。「オーディオ機器の音に音楽性が豊かか? ということはお客自身が判断することであって、それは店で説明して判らせるという種類のものではない。ある客が、音楽的な響きがするといって満足したからといって、他の客も同じに満足するわけではないし、お客の個人個人によって、それぞれ判断が違うのが当り前だ。だから店としては、それを説明するのに感覚的な表現や説明でしても、お客自身が納得してくれるわけでもないし、店のビジネスとして説得はそういう形ではやらない。どのお客も納得する方法は技術的なデータを教え、示して判ってもらうのが当り前であるし、それが一番いい方法だ」という言葉で代表されよう。同じ意味の言葉をデンマークのオルトフォンにおいても聴くことができた。「機器の開発や改良のためにテストするとき、ビジネスとして音楽を聴くということはやらない。むろん、途中において音楽を聴くことはあるが、それは会社における勤めとしてではない。ビジネスとしては、あくまで測定器を頼っての技術でしかない」。もっともこの発言者はクロウト並みにヴァイオリンを弾くという技術者だ。
 こうした発言に接し、デンマークの店頭で示されたカタログのデーター、スピーカーとプレーヤーの大多数がスウェーデン王立研究所で測定した特性カープをつきつけられて、西欧におけるオーディオ判断の視角としては技術的要素(ファクター)がきわめて大きいことを知らされて意外な思いだった。
 それというのも、ユーザーのひとりひとりがオーディオ機器の音を、自分自身の中で解釈し判断し得る素養を持っているからに違いあるまい。それは音楽的な裏づけのある環境から生じたものであろうし.音楽そのものが芽生え、育ち、栄え、現在もそれは大きく豊かに茂り、息吹いている伝統ある土壌の上に生活環境を持った西欧だからこそなのであろう。
 米国にしたところで、日が浅いとはいえヨーロッパからの移民が社会を形成し、すでに二百年は経っているに違いないのだ。翻って日本においては、少なくとも今ここで問題としているオーディオ評論に関心の高いオーディオ愛好者達の、音楽的キャリアはといえば、それは多くがここ十年、あるいは十数年のものでしかない。日本全体の社会環境を考えても、西洋音楽がはっきりした形で定着したのは、戦後二十年間にすぎない。
 だから、そこでは音楽的素養を現段階でユーザーの多くに要求するのは無理というものだろう。
「芸術の基礎づけがなされ、その種々の類型が確立したのは現代とはっきりと区別される時代、事物や環境を支配する人間の力が今日と比べて、ごく微弱であった時代にまでさかのぼる。
 現代の芸術手段はその適応能力と精緻さという点において驚くほどの成長を遂げたが、このことは近い将来、古典的な美しさの工芸生産がきわめて激しい変化を遂げるということをわれわれに約束している。
 あらゆる芸術には物質的な部分がある。それはもはや以前のような芸術観とか、芸術の取扱い方をゆさぶって、近代科学や現代的実践の影響からのがれることを許しはしない。
 素材も、空間も、時間も、すべてはここ20年来かつて存在していたものとはすっかり変ってきている。われわれはこのような大きな変革が芸術の技術全体を変化させ、それによって手法そのものにも影響を与え、遂には、おそらく芸術という概念そのものをもきわめて魔術的な方法で変えてしまうようにいたることを覚悟しなければなるまい」
「水、ガス、電流がほとんど目にもとまらない操作だけで、遠方からわれわれの住居の中へ届けられ、役立てられると同じように、ほんの合図のような操作だけで、連続する画像や音をつけたり、消したりできるようになるだろう」。(ポール・ヴァレリー芸術論集「現代性の獲得」より)
 このことばからは音楽や美術などあらゆる芸術が、現代において新しい意味を持つものとしての的確な了見をうかがえる。レコードという物質的な手段が芸術としての音楽のあり方を変えてしまったのである。
『技術的複製はオリジナル――「いま」「ここに」しか存在することのないという性格によってつくられる「ほんもの」という概念――に対して、手工的な複製の場合とはちがって、あきらかに高度の独立性を内蔵している。
 そのひとつ例えば写真において、人間の眼で捉えられない影像、焦点を自由に選べるレンズのみが捉え得る影像を、鮮やかに際立てることができるし、望遠撮影や、高速撮影のような特殊な方法で、自然環境で見落さざるを得ない影像を定着できる。
 もうひとつの複製技術は、オリジナルの模造品をそのオリジナルそのものではとうてい考えられない状況の中に存在させることもできる。写真であれレコードであれ、オリジナルそのものを視聴者に近づけることができるのである。
 ひとつの芸術作品が「ほんもの」であるということは、実質的な古さをはじめとして歴史的な証言力に到るまで、作品の起源から人々に伝承し得る一切の意味が含まれている。ところが歴史的証言力は実質的な古さを基礎としており、したがって実質的な古さが無意味となってしまう複製においては、ひとつの作品の持つ歴史的証言力などは、ぐらつかざるを得ない。ここでぐらつくの歴史的証言力だけであるとはいえ、それにつれて作品の持つ権威そのものがここでゆらぎはじめるのだ。
 一般的に言えば、複製技術は複製の対象を伝統の領域から引放してしまう。複製はこれまでの一回限りの作品にかわり、同一作品を限りなく出現させるし、こうして作られた複製技術は、それぞれ違った状況下の受け手が近づくことによって、一種のアクチュアリティを生み出した。このプロセスは、これまで伝承されてきた芸術の性格そのものを激しくゆさぶらざるを得ない。これは現代の危機と人間性の革新と表裏一体をなしているものだ』。(ヴァルター・ベンヤミン〈複製芸術〉より)
 こうした新しい音楽のあり方は、社会の中における音楽の意味、あり方をすっかり変えてしまって、西欧だけのものだった音楽を、東洋の島国における文化的にも遠く離れた国民の中に、僅か十数年の問に、唐突として日常化してしまった。
 日常化といういい方は、あるいは妥当ではないかも知れない。日常化の在り方が、西欧のそれとは違って、単にうわべだけの表面的な充溢にすぎず、決して個々の心にまで浸み渡った形には到らないのは、その歴史があまりに浅いために他ならない。社会に、街にあふれ出さんばかりの音楽の洪水は、あるいは逆に、音楽そのものに対するあこがれとか、内側に秘められるべき意欲すらを、薄めてしまうことにさえなりかねない。音楽の無批判な、無定見な導入は、音楽をまったく逆の騒音として街にあふれさせてしまうという、もっとも避けなければならないかたちにひろめてしまう危険を常に伴なうことを、はっきりと知っておかねばならない。
 そうしたとき、音楽を質のよい音で求めるべき姿勢はきわめて好ましく、好い演奏を望むと同じくらい必要な条件といえる。
 つまり音楽が、この国で普及し日常化するためには、複製芸術としての、再生音楽としての形を推進拡大する以外に、より以上の方法はなく、そうであるとすれば、好い演奏、優れた演奏と同じくらいに重要で大切なのは、手段としては絶対に「良い音」で再生されなければならない。
 日本で、オーディオに対しての願望が強く激しいというのも、実は個々のリスナーがその内側に以上の問題点を多かれ少なかれ、確かなかたちで持っており、意識しているからに相違いないのだ。また、事実日本ではオーディオの質の高さが、欧米におけるのとは格段に重要な意味を持ち、価値のあることを意義づけられるのも、当然なことなのである。
 しかし現実には、どうかというと、個々の音楽愛好者、リスナーの内部の問題としては、それがはっきりしたかたちで、そこまでの自覚が個々の内にはたして存在しているであろうか。
「オーディオ」と音楽とが、別々のかたちで遊離したままで存在するのではなかろうか。

コストパフォーマンスといういい方
 オーディオ・コンポーネントに対して、電気製品販売店で売られるという点において、それは他の電気製品といちりつに考えられがちである。例えばテレビとか、電子レンジとか、あるいはカセットラジオとか、そういったエレクトロニクスの技術を利用した製品に違いないし、製品の質をとるとき他の電気製品と同様に実用的な見地から、判断されることが少なくない。いわゆるコストパフォーマンスという判断の視点が、テレビや電子レンジと一緒にステレオのあらゆる製品に適用され、少なくとも多くの人にはそれが選択のひとつの基準として迎え入れられている。こうした傾向は何も日本だけではなく、消費経済をたてまえとした資本主義消費国家であるアメリカでさえも、音響製品はきわめて初期からコストパフォーマンスという判断基準による優劣を決定される機会があって、それは今日に及んでいる。
 米国消費者に対して、商品の選択に大きな影響力をもち、権威を認められている『コンシュマーレポート』誌において、車や掃除機やフレーザーと同じように、オーディオコンボーネントもテストされている。カートリッジからアンプ、レシーバー、プレーヤー、スピーカーに至るまで、あるいは最近はカセットまでも年に何回となく登場して誌面をにぎわし、音楽愛好者からその内容が支持され、優劣はそのまま商品の売れ行きにほとんど決定的といえる影響力をもっている。
 しかし、その扱われる製品に関しては、例外なくきわめてポピュラーな価格の大量生産品に限られているということだ。例えば、ARのスピーカーはすべてが登場するのや、JBLのスピーカーがこのメーカーとしては小型のブックシェルフに限られるということは、オーディオ製品において、コストパフォーマンスが適用する範囲が、製品としてどの辺までであるかをよく認識しているかのようである。少なくとも高級製品としてみられるコンポーネントに関しては、『コンシュマーレポート』においては登場したためしがない。あくまでも一般家庭で購入する対象にしか扱われていないようである。日本において、こういう限定条件が認識されにくかったのは、例えば二百数十ドルのAR−3は、日本市場で十万を軽く越す価格の高級コンポーネントにみなされていたからに他ならない。『コンシュマーレボート』において登場するオーディオパーツは、必ず一般家庭を対象としたものだけにもっともポピュラーな流通機構、例えばスーパーマーケットでさえしばしば見られる。むろん、定価を下まわるスぺシャルディスカウントはこうした大衆製品においては、ごくごく当り前のことだ。
 ここでARを再三引合いに出しているのは、それが日本市場に迎え入れられ、高級品としての幅をきかせ始めた時期に、たまたま日本のオーディオ界にオーディオ評論ということばが成り立ち、定着しつつあったからに他ならない。ARは、ある意味で「オーディオ評論」という、できたばかりの関門を堂々とパスして日本で高級品として通用し始めたのであり、それがオーディオファンのひとつの目標にすらなったということによって、オーディオ評論の見方、受けとられ方が曲げられたといえるのだ。
 こうした普及的商品に関しては、その優劣は実用品としての判定基準にたってきわめて合理的に断定されてしまうというのが米国式のやり方なのだろう。むろんこの判定には電気製品としての性能、特性、使いやすさと共に音の良し悪しを加えられてはいるが、それは五段階のデジタル的表示になりきってしまっている。
 こうした傾向は、判りやすいという理由で特にその製品に対して技術的に無知な層に対しては、きわめて高い支持をされている。今日、日本においてもそうした技術的に、また音楽的に深い知識をもたない層の台頭といちじるしい増加から、こうした○×式、ないしは単純なデジタル表示を判定の表現とする方法が広く迎え入れられている。こうした現象が決して一方的に好ましくないというわけではないが、それが持っている大きな落し穴を知らなければならない。それは適用範囲は普及価格の量産品の域を出ないこと。それ以上の高級品に関しては、あるいは少数生産の高価格商品に対しては、こうした大きな意味でのコストパフォーマンスという判定準準が成立つわけがない、ということをはっきり知らなければならない。よくいわれるように、高級品というものは、ほんのわずかの余裕を実現するために、価格的に数倍を消費者に強いるものである。この場合、ただ単なるコストパフォーマンスといういい方を適用するなら、おそらくそれは不合理きわまる不経済な商品といわれかねない。
 真の高級品とは、オーディオに限らずすべてそういうものであり、それを手にしたときに限りない「満足感」を得るものだ。
 コンポーネントという商品のあり方は、もともと高級品指向のあらわれだと思われるが、それが今日のように購買層のおどろくべき増大にともなって大量生産されるべき性質の商品となるに及んで、コンポーネントたる目的は違ってしまった。若者にとってコンポーネントでなければならない理由はハイクォリティそのものではなく、志向ないしはハイクォリティらしさだけに終ってしまっている。現代の平均的若者にとってはおそらく、その生活をオーディオに強く結びつけたいという願望の象徴でしかなくなった。求めるものは真の意味でのハイクォリティではなく、それらしくさえあれば事が足りるであろうとしかいえない。だから、コンポーネントにおいては若者相手の自動車同様、性能上の可能性とデザインとが最も重視される。しかしそれは、決してフルに利用され、性能をひきだされることはまずないのである。

評論家の提出すべき意見
 海外誌におけるオーディオの扱い方をみると、前述の通りそれは(技術的立場をくずすことのない研究者)の技術解説か、あるいは実験とそのデータが普通だ。オーディオを電気製品と考えればそうした判断に、いわゆる第三者的な、つまり個人感情や感覚を極力避けるというのは納得のいくところには違いない。そうした傾向は何も米国だけではなく、日本のユーザーも、こうした判定基準を好むようである。「どちらが良いか」「どれが一番良いか」という要求は、雑誌の記事に対する要望として根深く存在している。ここでまとめられる判定基準は第三者的であって、少なくとも個人的感情がはさまれることは、ユーザーとしてありがたくないという潜在意識が決して少なくはないはずである。だからこそ、一人の意見ではなく何人かの意見が並列に求められるのだろう。しかし、研究者あるいは技術的に熟知している、その製品の担当技術者による技術解説あるいは実験データは、少なくともオーディオ評論とはいえない。
 評論という立場は、あくまでも独自の好みとか、見解にしたがって、意見を提出するものである。そこには客観的あるいは物理的な分析という、視点はない。評論を仕事とするものが行なうこともしばしばないわけではないがカタログや技術データは、評論家の提出する意見ではないのである。それでは、オーディオ評論とは何をするべきであるのか。
 選択――類型品の多数の中から選択
 製品の再発見――その製品の内側にある特質の再評価
 ユーザーへの伝達――説得の技術
 製品に対するユーザーへのアピール――効果の増大
 以上のようなことが、オーディオ評論としての作品の内側にもたなければならないものであろう。要約すれば、「選択と説得技術」ということになろう。あるいは、選択は常にあるわけではないといわれるかもしれない。しかし、常に選択が評論活動の根底にある。
 たとえ、商品の羅列的扱いを対象とする場合さえ、潜在的に自分の好みにしたがって、いくつかをアピールするべく心がけるのが常であるし、それがまた、評論であって技術解説と違うゆえんであろう。
 製品の選択において、それぞれの立場により視点が変るのは当然であろうし、ある場合には性能上の良さが最も大きなファクターとなりうるし、ある場合には音の良さ――この点にこそ個人の感覚的違い、良さの判断的基準の違いが最も出るものだが――さらにデザイン、ここにまたしても個人的、美的感覚が介入するが、さらに取扱い、価格そういった点が重要なファクターとなるであろう。しかしそれ以上に重要なことは、メーカーの意図、企画者設計者それぞれの意図とその表われ方というものが、前記にも増して重要となる。そしてそれを考える場合は、問題はさらに大きく拡大され、社会的条件、時代の流れの中における存在の意義、さらに社会を通してその裏側の、国、国民性、音楽的土壌、風土、つまり、人間の住む、人間の生きるのにかかわりのある森羅万象すべて問題となり得るし、それを考慮することは必要不可欠なのである。
 とすれば、そこにはもうすでに、単なるコンポーネントとか、オーディオ製品とかをそういう狭い見方で判断することの愚かしさを知るだろう。少なくともオーディオ評論の必要前提としては、人間のたずさわり、愛し、かかわりあう(もの)としての、あらゆる要素が垂要な意義をもってくるものである。
「用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
 人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
 人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか」。(柳宗悦 美学論集より)
「心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあってますます物たるのであって、これを厳しく二個に分けて考えるのは、自然だといえぬ。物の中に心を見ぬのは物を見る眼の衰えを物語るに過ぎない」。(柳宗悦 蒐集の弁より)
 オーディオ機器、コンポーネントという限られたジャンルの「もの」を評論せんとするとき、それは単なるオーディオパーツ、電子機器としての判断では間に合わなくなる。
 それは、オーディオが音楽と結びついているからでもある。音楽は、個人の感情活動の中でもっともレベルの高い次元での所産であるし、その音楽そのものをもっとも現代的な形で再現し、演奏し演出するべき道具なのだから。
 しかし、そういった芸術との結びつきを考えた「もの」としては、まだ、オーディオ機器の判断は十分ではないのである。
 加うるに、人間が自らの手もとにおいて、いかなる形であるにしろ、それを愛し、それを使いきり、それを用いつくすことによって、その良さがはじめて判ってくる、そういった純粋な形で道具とか、「もの」としての良さという受けとり方、見方が、また重要なファクターとなることを知らなくてはならない。
 そこには、価格による判断ということは入りこんでくるすき問もない。たとえ中古のパーツも憧れ、愛し、満足感に浸り得る「物」ならば、そのパーツに関する当事者にとっては千金の舶来品よりも価値を見出し得よう。
 しかし、それは、当事者以外には判り得ないかもしれないし、そうなればここにはオーディオ評論は通用しなくなってくるのである。あるいはそうした深く静かな内側にまでも、オーディオ評論の眼を届さけせるべきなのだろうか。

「評論」それを求める側の短絡性
 さて、ここでこれからいうことに関しては、今日の若いオーディオファンの平均的なレベルでは大きな誤解を招く恐れがあるので、いうべきかあるいはふれずにおくべきか、かなり危険を感じつついうことになるのだが。
 製品の中に良さを発見し、確認したとき、それはオーディオ評論の仕事を携わる者にとって恐らく、はたからは計りしれない大いなる喜びと満足を味わうのだが、その喜びが大きければ大きいほど、それをユーザーに伝えるべき義務を自覚する。製品の良さとしては、既に先ほど述べたようにあらゆる面からの考察がそれを発見することになり、ひとつの結論を得る。
 その時「いかに伝えるべきか、いかに表現すべきか」ということが評論の価値を決定的にしてしまう。なぜか。
 ユーザーにとって、オーディオ評論とは、評論作品として目にふれ、読まれるものがすべてであるのだからだ。
「選択」も「再発見」も、さらに「説得」もすべてが評論家の内側に厳然と存在するが、それが凝縮した形で単なる「評論」としてユーザーに提出されるのである。提出者の側からすればいかに有効に効果的にユーザーサイドに伝達されるかということが、その評論作品の価値を全て決定してしまうといっても言い過ぎではない。こういう言い方が危険であるというのは、それが効果的に伝えれば伝えられるほどその評論内容がうつろな思想のもとに、軽薄な選択をしたにもかかわらず、単に語りがうまい、説得がたくみだ、というふうに、うけとられかねないからだ。
 製品のもつ良さなくしては、評論はありえないし、成り立つものではないのである。そして、その良さが明確であればあるほど――この場合、製品のパーソナリティはあらゆる要素に優先して重要な意義があり、それが強ければ強いほど、価値は認めやすく、伝えやすいが、そうした発見と評価は評論作品には、必ずしもはっきりと表われているとは限らない。だからといって、そのプロセスは評論活動の根源となっていることは厳然たる事実である。いや、当事者たる評論家にとってはそれがすべてといってもよかろう。
 しかし、ユーザーに伝達される評論作品としては、伝達されるべきユーザー側のレベルとジャンルを考えなければ・的確な説得はできないし、効果的な内容も期待できっこないのである。つまり、相手を考えなければ、オーディオ評論というのは成り立つわけはないし、それを求める層、必要とする層は残念ながら今日ではきわめて低いといわざるを得ないのである。
 もっとも、音楽と関わるべきサウンドヘの、自分のアプローチの術を知らず、意見も狭く、好みすら判然と自覚し得ないところから、オーディオに「評論」を求める事態が生じたといえるし、こうした状況は根本的には西洋音楽の土壌から遠く離れた地理的、文化的条件によるものといえよう。もっともそれ故にこそ、音楽への憧れもまたずばぬけて、オーディオ日本の隆盛を推進する最大の原動力となったのだが、いつの日か、ユーザー自身の内側に豊かなる結実を得たときこそ、オーディオ評論というものは、必要としなくなるだろう。また、識者がことあるごとに口にしたがる「まともなオーディオ論のみの通用する」時代も遠い夢ではあるまい。
 それは、個々の、オーディオへの内なる高まりに期待する以外に何があろうか。  (一九七四年)